─十二本ヤス─


 無頼派作家・太宰治の生家と津軽三味線発祥の地で有名な青森県北津軽郡金木町。津軽半島の中心部にあるこの町の東方、津軽半島の「背骨」中山山脈の麓に、地元の人から「十二本ヤス」と呼ばれるヒバの巨木がある。推定樹齢八〇〇年以上、樹高三三.四六m、幹周り七.二三mの日本最大、最古のヒバで、その巨大さにも驚かされるが、何よりも目を引くのはその異様な形状。地上から一mくらいのところで、一本であった巨大な幹が十二本に分かれ、それぞれの幹が天を衝くようにそのまま真っ直ぐ高く伸びているのである。これがちょうど魚を点いて取る道具「ヤス」に似ているというところから、「十二本ヤス」と呼ばれるようになったという。

 この十二本ヤス、新しい枝が出て十三本になると、必ず一本が枯れて十二という数を保つという。この十二という数が、十二月十二日の山の神を祭る日に通じるというので、山の神の宿る神木として崇められてきた。それでなくとも十二というのは十二支や十二星座、薬師十二神将など、洋の東西を問わず古より時間や方位を司る神聖な数字とされてきた数である。その数を体現する十二本ヤスが神木と崇められるのは当然のことであろう。

 また、この神木にはこんな伝説もある。昔、弥七郎という若者が山の魔物を退治したときの切株に、一本のヒバの苗を植えた。それが育って十二本ヤスになったという。この伝説をそのまま受け入れるならば、十二本ヤスはその魔物そのもの、または生まれ変わりということになる。あるいは魔物の封印ということもできるだろうし、魔物が改心して神になったということかもしれない。

また山の魔物を退治したときの切株ということであれば、この魔物とは木の化け物であったのだろうか? 山の神の宿る神木ということなのだが山の魔物=山の神という図式も成立するので、荒ぶる山の神を鎮める木ということもできるかもしれない。山の魔物というのを山の民だとして、十二本ヤスもしくは切株となった先代の巨木を崇める山の民が、ヤスを用いる漁労を生業とする海の民に駆逐されたという歴史の伝説化である可能性もある。さすれば十二本ヤスは山の民の怨霊鎮めもしくは供養のための墓標ということもできる。

 偽書騒ぎで有名となった「東日流外三郡誌」にははるか太古の津軽で土着の山岳民アソベ族と外来のツボケ族との間に抗争があったとか、それらの民族と神武天皇に敗れた長脛彦、中国からの亡命氏族などの間に抗争があったという記述があるが、それが本当ならそうした争いを伝えるものなのかもしれない。また中世津軽の土着豪族安東氏(「東日流外三郡誌」では長脛彦の後裔と伝える)のうちで鎌倉幕府滅亡の遠因ともなった津軽大乱という内乱もあったし、もう少し後には南部氏の安東氏駆逐、大浦氏の南部氏駆逐という歴史もあるのでそうしたものと関係ないでもないかもしれない。

八百年という樹齢からすると津軽大乱あたりがふさわしいといえばふさわしい。なお安東氏はかつて日本の七大港といわれた十三湊(現在の十三湖)を拠点に水軍を組織していて漁労民との関わりが深そうであはある。津軽は今も漁業の盛んな場所とはいえ十二本ヤスは金木の市街から未舗装の林道を何キロも走った、熊出没注意の看板が立つほどの山奥にあり、ここでヤスというのも奇妙といえば奇妙である。抗争云々はともかくとしても漁労民が山奥深く入ってきたということは表していそうではある。もっとも山の民でも川魚を獲るであろうが、名称を考える上でまずは山で使う道具を思いつきそうだ。

 いずれにしろこれが山の魔物そのものなら神木ならぬ「邪神木」ということになるが、確かにこの木からは随分禍々しい印象を受ける。魔物の伝説が生まれるのも頷けるほどに。十二本の枝のうち、一本だけは少し横に迫り出してから上に伸びていて、まるで魔物か鬼の手のような形状を成しているせいだろうか。とにかく異様な圧倒感に満ちているのは確かである。

 なお、上述のように十二本ヤスはとても山深い場所にある。車ですぐ近くまで行けて、一応駐車スペースらしきものもあるが、かなりの悪路なので覚悟しておいた方がいい。道も分かりにくいので、市街の津軽三味線会館にある案内マップをもらっていこう。また夜にや荒天の日も止めた方がいいだろう。太宰治の生家・斜陽館でも見て、津軽三味線会館で三味線の実演を聞いた後にでも訪れてみてはどうだろうか。


入口の鳥居。

枝の間にも祠と鳥居がある。



下から見上げても迫力満点。



この角度だとまさに鬼の手、またはゴッド・ハンド。



十二本ヤス遠景。

近くに設置してある案内板。新日本名木百選に選ばれている。

太宰治の生家・斜陽館。かつては旅館になっていたが現在は資料館。津軽三味線実演が行われる津軽三味線会館は向かいにある。


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