(しか)()(くに)に、(さは)螢火(ほたるび)(かがや)く~、及び蠅聲(さばへな)()しき~有り。

(また)草木(ことごとく)()言語(ものいふこと)有り。

──日本書紀 神代下



邪神とは何か──当神宮における「邪神」の定義

目次
一、
一般的な定義
二、日本における厳密な定義
三、広義の「邪神」
四、日本神話における二元的対立
五、邪神の「零落」
六、そして、神々の「零落」
総括 ─結局、邪神とは何なのか─
付・邪神の分類と具体例

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一般的な定義 次の章へ 目次へ

 邪神という名を聞いて一般の人が思い起こすのは、その名の通り、邪悪な神、悪い神である。いわゆる悪魔のようなものだ。しかしなぜ「神」なのか。悪魔とどう違うのか。
 ここでまず日本人は多神教を信じてきた民族だということを認識しなくてはならない。多神教、特に日本人固有の民族信仰である神道、あるいはその原型たる信仰においては、「神」とは超自然の存在、人智を超えた何らかの霊的存在を指し、必ずしも人に恩恵を与える存在であるとは限らない。人に災いを、しかも悪意をもって与えるものであっても、それが超自然の霊的存在であれば、太古の日本人はそれを「神」と呼んだ。簡単に言えば、キリスト教における悪魔のような存在をも、「神」と恐れ崇めたのである。キリスト教ほど「神」を厳密に定義していないのだから、なおさらである。キリスト教のような絶対的宗教、多くは一神教だが、そうした宗教が成立する以前は、世界のどこでも程度の差こそあれ似たような価値観であったし、絶対的宗教が普及していない地域では現在でも大概そうである。もちろん、この日本においても、大体。
 そうは言っても、キリスト教的、西洋的価値観に慣らされてしまっている現代日本人には今一つピンと来ないかもしれない。では分かりやすい参考例としていわゆる「天神様」はどうか。各地の天神社、天満宮に祀られる菅原道真公は、今でこそ学問の神様として人々に恩恵を与える存在だが、祀られた当時は知っての通り人々、特に朝廷に害を成す大怨霊とされた。文献によっては、道真公は仏教で言う「魔王」と同一視され、日本を水の底に沈める、と語っているとされる。
 だが、「それゆえに」道真公は「神」として祀られた。その祟りを恐れ、さらに後にはその威力を借りんがため。このあたりに多神教固有の発想が見て取れる。しかも、世界的に見てほとんど民族紛争のない日本ならではと言ってもいいだろう。同じ多神教を信じる民族でも、紛争の絶えない地域では多少事情が異なってくる。
 しかし、これがもしキリスト教社会であれば、悪魔でなくて何であろうか。いかに威力があり、まさしく「魔王」とされたとしても、「神」、あるいはそれに近き「天使」「聖人」とされるようなことは全くない。

 こうしたことから、「邪神」という概念は多神教固有のものであると言えるだろう。例えばキリスト教が普及する前のギリシアなどでも「邪神」たる存在は多い。冥界の王ハデスや、オリンポスの神々を苦しめる巨人達とそれらを生み出した大地母神ガイアなど、災いを成す神々は数限りないが、それでもあくまでも神は神であり、それぞれ自分の役目を全うしているのである。もっとも、よりマクロに考えると、キリスト教における悪魔も元は天使であったり、あるいは起源がユダヤ民族に敵対する民族の崇めていた神であるなど、「邪神」と「悪魔」を峻別するのは難しくなってくる。結局は「邪神」も「悪魔」も似たようなものだと言えるかも知れない。ただ捉える主体(民族)によって、こうした害成す超自然の霊的存在に神聖性をどれほど認めるかということの違いである。認める神聖性が大きくなればいかな害成す存在でももはや「邪神」ですらなくなり、「神」となる。善悪の絶対的基準が世界的に見てかなり曖昧な日本ではそもそも「邪神」という概念すらあまり定着しておらず、歴史的にあまり使われてもいない表現である。仏教の普及はさらに拍車をかけた。なぜならば仏教では基本的にいかなる悪しき者でもいつかは「救われる」からだ。


日本における厳密な定義 前の章へ 次の章へ 目次へ

 では日本において「邪神」と表現されたものは何であろう。邪神のことを古くは、禍津神(マガツカミ)と呼んだ。名前の通りあらゆる禍(わざわい)をもたらす神である。日本神話ではこの禍津神として二柱(柱は神を数える単位)の神が登場する。大禍津日神(オオマガツヒノカミ)と八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)である。

 日本神話において国生みをするのが伊邪那岐神(イザナギノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)の夫婦神であるが、伊邪那美神は万物を生み出した後、最後に火の神である火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)を生み出し、それによって火傷を負って死んでしまう。夫の伊邪那岐神は妻を求めて死者の国、黄泉に赴くが、黄泉で変わり果てた妻の姿に驚き伊邪那岐神は地上に逃げ帰ってくる。その黄泉で受けた穢れを禊によって清め、そのときにも様々な神々が生み出されて、最後の最も清められた時に最高神たる天照大神が生まれるわけだが、最初の最も穢れている時、その穢れそのものから生まれた神が先の二柱の神である。
 穢れそのものから生まれた神であるからそれはもうあらゆる害悪そのものである。太古の日本人は穢れというものを大変嫌い、穢れていることは最大の悪しきことであった。というよりも穢れているから悪しきことが起こり得るのである。ちなみにこの穢れというのは単なる「汚い」ということよりも気(ケ)が枯れている状態のことを言うのだが、いずれにしても諸悪の根源ではあろう。その諸悪の根源より生まれ、それを司る神なのだから悪い神でないはずはない。まさしく「邪神」であり、後にそう表現されている。

 もっとも、だから全く祀られたりはしていなかというと、そうではない。日本の神社全体の数から見れば極めて少ない数ではあるが、意外に多くの神社で祀られている。その理由は一つには前項で説明した通り威力があり、その威力ゆえに神聖視されたということがある。また禍を成さないよう鎮まってもらうということもある。さらに、伊邪那岐神の穢れを取り除いた神であり、逆に穢れを取り除く神として信仰されたということもある。まことにもって日本人らしい神観念である。


広義の「邪神」 前の章へ 次の章へ 目次へ

 これまで、「邪神」とは要するに悪しき神であり、日本ではそれが「禍津神」に当たると述べた。しかし、日本における「邪神」即ち「悪しき神」は、先の二柱のみでなはない。日本には八百万の神々が坐すとされるが、「邪神」もその中に含まれ、数も限りない。邪神もまた「八百万」なのである。では、禍津神のほかに、「邪神」とされる神々にはどんなものがあるか。
 先に述べた二柱の禍津神は、害悪の根源たる穢れという概念そのものを「神格化」したものであって、極めて抽象的な存在である。それだけに神話の中では影も薄く、具体的な悪さをしたという記述も皆無に等しい。日本における「邪神」の大部分は、存在そのものが悪とされるようなものではなく、その「行為」によって悪とされるのである。  悪しき「行為」には様々なものがある。殺し、盗み、等々──人々の世界で悪しき行為とされるものは、大概神々の世界でも同じである。また、人間に害悪を与えることも同様に悪しき行為と言えるだろう。しかし、連続してひたすら悪しき行為を働くのならともかく、時折そうした行為を働くのであれば、神々の世界では必ずしも「悪しき者」とはされない。太陽の神、水の神などを例に取れば分かる。太陽も水も人が生きていくのになくてはならないものだが、時に旱魃や洪水で人の命をも奪う。だからといって太陽や水の存在そのものが「悪」とされることは世界にもまず例がない(旱魃や洪水そのものを「邪神」や「悪魔」とすること、もしくは「邪神」や「悪魔」の為すこととすることはあるが)。

 だがそんな中で、おそらくはただ一度でも、その行為を働けば「悪」とされる、絶対的な悪しき行為がある。いや、あったというべきか。特に、神々、古代の世界においては。その「行為」とは──皇朝、即ち天皇とその朝廷への反逆である。神々の世界において、最高神たる天照大神に対して反逆、敵対することはもちろん悪とされたが、その子孫たる「人間の」天皇に対しても同様であった。──たとえ「神々」であっても。その理論的根拠は、天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を高天原より地上に降ろす際に、「地上の国はあなたの子孫が永久に治めなさい」という「神勅」を下したことによる。最高神の「神勅」に逆らうことは、神々にとっても悪しき行為なのである。
 もちろん、こうしたことの背景には、古代における民族間の戦いがある。今でこそ単一民族国家と呼ばれる日本だが(厳密には違う)、古代には様々な民族が入り乱れていた。ある者は朝鮮半島から対馬海峡を渡って、ある者は中国南部より東シナ海を渡って、ある者は南方より黒潮に乗って、ある者は沿海州より日本海を渡って、ある者はさらに北より樺太・オホーツク海を通って、あるいは太平洋を渡って流れ着いた者もあるかもしれない──とにかく、幾多の民族が、幾多の場所から幾多のルートを経由して日本にやって来ている。同じ場所から、同じルートを通るにしても、時間的な隔たりがあれば、また別民族ともなり得る。例えば、「縄文人」、即ち狩猟採集に生活基盤を置く民族と、「弥生人」、即ち農耕に生活基盤を置く民族など。こうした時空の隔たりのある、言語も生活様式も違う民族が、生活圏が重複するようになってくれば、争いが起きる。また同じ民族でも、規模が大きくなってくれば、同族争いが生じる。その過程において、敗者側が崇めている神が、「邪神」となった。また敗者側の首長や強力な武人なども、その怨みをおそれて、あるいは勝者側が敗者側を鎮撫するため、場合によっては敵ながら敬意を表して、「神格化」されたりもした。敗者側の神が「邪神」となったのも同様の理由である。「邪神」の出自のほとんどは、こういったものである。
 やがて幾多の争いを経て、ある一族の支配が決定的となる。それが天皇の一族であった。支配が決定的となっても、各地では時折反乱が起こり、また勢力圏の拡大によって、新たな「反逆者」が増えていく。その際「邪神」もまた増えていくのだ。「邪神」の歴史とは、皇朝拡大の象徴的記録でもあるのである。

 実は、こういった「邪神」の成立は、世界的、普遍的事象でもある。先に述べたように、キリスト教のおける「悪魔」は、その基盤たるユダヤ教を奉じた古代イスラエル人に敵対した民族の崇めた神々、あるいはキリスト教布教以前のヨーロッパの神々がその由来である。また仏教で言うところの「悪魔」、「邪神」たる「阿修羅」は、古代インドのバラモン教における悪魔「アスラ」に由来するが、古代インド人と敵対した同系民族の古代イラン人が奉じたゾロアスター教の最高神「アフラ=マズダ」と同一の起源を持つ。逆にアスラ神族に対する善の神々「ディーヴァ」は、ゾロアスター教では邪神の王「アンリ=マンユ」の部下「ダイエワ」となる。この他、先に挙げたギリシア神話や北欧神話など、数え上げればきりがない。これほどまでに民族、文化対立のよる「邪神」「悪魔」の成立は、普遍的なものなのである。やがて時が経てば、こうして成立した「邪神」に「禍津神」のような悪そのものの存在としての性格が付与されたり、そういう存在の「邪神」と一体化していく。あるいは殺し、盗みなどの根本的な悪行の伝説が付会されることもある。そうやって「邪神」は「邪神」としてさらに成長していくのだ。

 こうしたことから結局は──「邪神」が「邪神」たる所以は、捉える主体(民族)によると言えるのである。


日本神話における二元的対立 前の章へ 次の章へ 目次へ

 「邪神」、それは古代世界の民族・文化対立の象徴的記録である。しかし日本においては、世界の他地域ほどの戦乱に見舞われなかったため、先に挙げたキリスト教やゾロアスター教、古代インド神話のように、神話世界における明確な二元的対立はない。それが先に述べたように、日本において「邪神」や「悪魔」といった観念があまり定着しなかったことの理由の一つでもある。しかし、前項で述べたように、日本においてももちろん民族・文化対立がなかった訳ではなく、その結果として幾多の「邪神」が生まれ、記紀など公的な歴史書にも残されている。
 その記紀では、神々を大きく二系統に分類している。「天津神」と「国津神」である。「天津神」とは高天原に住まう皇朝の祖神達、「国津神」とは大地の土着の神々であるが、簡単に言ってしまえば、この「国津神」が日本の神話世界では「邪神」に相当する。大体において、国津神達は皇朝の祖神たる天津神、あるいはその子孫たる天孫、皇朝に反逆しているからである。もっとも、国津神は完全にイコール「邪神」という訳ではない。天津神に恭順した国津神もいるし、その祟りを恐れたため、あるいは征服した民族鎮撫のため、「邪神」を超えて「神」として祭り上げている場合もあるからである。

 さてこの日本神話における二元的対立は、遡れば宇宙造化の神にまで至るという説もあるが、はっきりと表れるのは、先に挙げた日本創生の神、伊邪那岐神と伊邪那美神である。この二柱の神は、大変仲の良い兄妹神にして夫婦神であったが、伊邪那美神の死によって決定的に対立する。その別れの際に、伊邪那美神が「今日より地上の人間を毎日千人殺す」と言うのに対し、伊邪那岐神は「では私は毎日千五百人の人間を生まれさせる」と言うほどの深い対立であった。ここではもはや伊邪那美神は恐ろしき冥界の女王といった趣である。
 この二柱の神の子、素戔鳴尊(スサノオノミコト)は、はじめ母・伊邪那美神を慕って泣き喚き天地を鳴動させる。やがて高天原で暴虐を働き、姉の天照大神は困って岩戸に隠れてしまう。岩戸開きの後には地上に追放され、最終的には地下の国の王となる。この地下の国も冥界に近い印象があり、素戔鳴尊もまた冥界の大王といった趣がある。
 その素戔鳴尊の子孫・大国主命(オオクニヌシノミコト)は、素戔鳴尊の試練を乗り越え、地上の国の王となる。しかし天津神に地上の国の譲渡を迫られ、幽世(かくりよ=冥界)の支配者となる。
 このように、日本神話における二元的対立の源は伊邪那美神にあり、素戔鳴尊を経て、国津神という一派を成すに至る。そこには陰と死のイメージがつきまとい、世界の神話と比較するならば、「国津神」という勢力はまさに「邪神」「悪魔」に他ならないであろう。しかも、天津神の国譲りの迫り方は、ほとんど因縁をつけるような根拠のない、脅しのようなものである。ここにはっきりと古代世界の民族・文化対立が見て取れる。

 日本神話の流れとしては、国譲りの後、天孫が九州に降臨し、幾代かを経て、神武天皇が大和に入るに至って皇朝のはじまりとなる。その神武天皇だが、大和で迎えた皇妃は、大国主命の子、事代主命(コトシロヌシノミコト)の娘であった。その上、その後の皇朝の流れは、その事代主命の娘の子の方へと続く。神話的に見れば、対立勢力であった天津神と国津神は、ここに統合されたことになるのである。しかも、天孫が「天皇」を名乗るのは、この統合と時を同じくしている。天孫が「天皇」となるのは単に神の時代から人の時代への移行を意味するものではない。「天皇」とは、種々の民族・文化が入り交じる日本の、まさしく「統合の象徴」なのだと、神話から読み取ることができるのである。それは、皇朝の祭祀からも伺うことができる。皇朝では自らの「正統なる」祖神・天津神と同等以上に、国津神をも恐れ敬っている。特に、古代においてそうした記述が顕著である。それは先に述べたように、祟り、怨みを恐れてのことでもあるし、国の統治上、民族・文化対立による緊張関係を緩和するためでもあった。いわゆる「敗者側の鎮撫」のためである。またずっと先に述べた「天神様」のように、その神威を借りるためでもあったろう。
 だがこの「統合」によって、皇朝への反逆は決定的に悪となった。たとえ「神」であっても。これまでの国津神は、それなりの神聖さをもって描かれているが、これ以後新たに登場する国津神は、人を困らせ、殺し、盗み、掠め取る──「邪悪な」存在の趣が強くなっていくのである。それは皇朝が一地方勢力ではなく、日本における支配権を確立し、それに対することは既存支配への「反逆」でしかなくなったことを意味するのであろう。「天皇」は天津神の皇位を継ぐだけでなく、国津神の王位をも継ぐ者なのであるから。国津神の王に逆らう者は、国津神の枠内においても反逆者なのだ。だが、その後も「反逆神」は存在し続けた。そうした神々は主に「荒ぶる神」と呼ばれる。「荒ぶる神」、それは日本における「邪神」の呼び名であると言ってもいいだろう。皇朝の成立──それは、「邪神」が「邪神」らしさを確立した瞬間でもあった。


邪神の「零落」 前の章へ 次の章へ 目次へ

 こうして「邪神」は「邪神」として貶められていくのだが、民族・文化対立が鮮明な古代においては、「邪神」はそれでも「神」であり、それなりの威厳を保っていた。記紀や風土記が編纂された時代までは、大体そうであったろう。しかし時代が下ってくると、事情が変わってくる。皇朝の統治が安定し、民族・文化の摩擦が減少して、その記憶も薄れてゆくと、「邪神」は段々と「邪神」としての威厳すらも保てなくなってゆく。もはや政治の安定のために「邪神」を恐れ敬うこともなくなってくるからだ。政治的な対立は依然としてあったが、皇朝内部の政治闘争が主体となってきて、その現実に古の民族・文化対立がかき消されていったということもある。また、文明の進歩により、多少とも「神的なもの」そのものを恐れる度合いが減じたということもある。自然への恐怖が多少とも減じれば、自ずからそのようになる。さらに、仏教の広がりにより、「神的なるもの」の価値が相対化していったということもあった。いかなる超自然の存在も、仏法の前には従わざるを得ないという考えが浸透していったのである。

 それでも、既存の「邪神」達、中でも、記紀などの公的文書に記述されていたり、人々の記憶に強烈に刻まれているものは、依然としてその地位を確保していた。だが、公的文書に記述されていようとも、さして強力ではなかったものや、新たに現れた「反逆神」、「荒ぶる神」達は、もはや「神」を名乗ることはできなかった。それらは主に──「鬼」と呼ばれた。
 しかし、時はいまだ平安時代。人々はまだまだ超自然の力に恐れおののいていた。内裏や京の街中でも魑魅魍魎が跳梁跋扈し、山野などは鬼神の治める異界であった。政治も昔に比べればというだけで、必ずしも安定しているとは言い難い。皇朝に対する反逆もない訳ではなかった。その反逆者や、かつての反逆者の残党が「鬼」と呼ばれたのは間違いないのである。しかも、その反逆者達は、険しい山岳を根拠とした。それは逃走地として、あるいは防御上の理由からでもあったが、反逆者達は、主にもともと狩猟採集を生業とした──端的に言えば、「縄文人」の末裔であるからであった。もともと習俗の違う彼らは、中央の人々からだけでなく、農耕生活を営む里人から見ても奇異に映る「山人」であった。「鬼」と呼ばれるもののうちには、単なる悪逆の徒や、超自然の力を駆使する者、あるいは本当に超自然の存在もあったのかもしれないが、大体はこうした山人達であったろう。
 いまだ皇朝に従わない「服わぬ(まつろわぬ)民」が「鬼」と呼ばれたなら、彼らが崇める神は鬼の神、紛れもない「邪神」であったろう。また、人ではないものだと恐れられた者も、同様である。しかし「服わぬ民」がいかに恐れられようと、もはや微弱勢力でしかなければ、それは「神」と呼ぶほど恐るべきものではなかったともいえる。文明の進歩と仏教の流布による人々の価値観の変化もそれを手伝ったろう。「鬼」の神もまた「鬼」に過ぎないと受け止められたということである。それが正史に書き留められるような著名な神であったとしてもしばしばそうであったろうし、そうでない見知らぬ神ならばなおさらである。あるいは、「邪神」と呼ぶべき恐るべきものと受け止められたとしても、仏教という新しくしかも圧倒的な価値観によって、仏教の枠内での「魔神」に置き換えられたりもしている。
 ただ、当時の伝承から言えることは、「鬼」の神が表舞台に立つことはあまりなく、皇朝の平安を揺るがす敵対勢力「服ろわぬ民」そのものが主体となっているということである。より古い時代のように、もう民族・文化対立をその奉ずる神同士の戦いとするような象徴的表現方法は取られなかったためだ。それこそ政治の安定、文明の進歩、新しいパラダイム(仏教)による価値観の変化によるものだろう。

 いずれにせよ、古代世界の終わりに差し掛かる平安時代頃には、「邪神」あるいは「邪神」たるべき存在は力を失くし、大方「鬼」に転落したということである。あるいは「鬼」ではなく「大蛇」や「天狗」、「妖狐」など別の異類もので表されることもあるが、同じことである。これが時代を下ると、さらに矮小化され、小妖怪、幽霊などに身をやつしていく。文明のさらなる進歩、さらなる仏教の流布の上に、皇朝自体が矮小化され、それに対する反逆ももはやなくなっていったからだ。ただ古の伝承が伝えられるだけになり、その伝承も現実的な恐怖感を失っていくにつれ矮小化され、時折山人や不可思議に遭遇したときの驚愕だけが新たな伝承としてつけ加わっていくだけになった。


そして、神々の「零落」 前の章へ 次の章へ 目次へ

 上述のように、「邪神」は妖魔・妖怪へと姿を変えて言った訳だが、それは一部の「神」も例外ではなかった古代において、生存競争に敗れた民族の「神」が「邪神」になったのは既に述べた通りだが、それは結果的にその神が信仰を失った、その神を「神」として信ずる人間がいなくった(あるいは激減した)ことに他ならない。それは。古代のような民族・文化間対立だけで起こり得る事ではないのだ。ただ古代のようにあらゆる霊的存在に神聖性が認められた時代においては、民族・文化間対立において最も起こりやすいというだけのことである。
 逆に、時代が下れば、そういう民族・文化間対立以外の理由によっても、神が信仰を失うということがあり得た。むしろ、後の時代に神が信仰を失うのは、ほとんど民族・文化間の対立以外の理由による。それは、「邪神」が「邪神」でなくなったのと同様、文明の進歩、あるいは仏教などの圧倒的な価値観の普及によるところが最も大きい。、古代の人間はあらゆる現象・事物に霊性を認めた訳だが、時代が下ればそれが薄れる道理である。

 そうした中でも、特に神聖性を失いやすいのは、もともと人に与える被害が多く、恩恵が少ないと思われていた神、被害はなくとも威力のあまりないと思われていた神、そして皇朝や時の政権との関わりが低く、民間で信じられていた神などである。これらの神々の中には、もとから名もなき神や、時を経て名を失った神々もいた。
 しかし、時代は未だ近代以前、そこに認める神聖性が薄れたとはいえ、霊性を完全に認めなくなった訳ではない。殊に、、畏怖、恐怖の念は根強かった。これは近代以降、現代になっても同じである。「神」が神聖性を失い、そこに畏怖と恐怖が残ったとすれば、それは──「妖魔」となる。「邪神」と同様、「神」も零落していったのである。
 しかし、「妖魔」に堕ちたとはいえ、もとは神。場合によっては、人に恩恵を与える場合もあり得ると思われた。まして、冒頭のあたりで述べたように、この国にはたとえ邪なるものであろうとも威力を持つものであればそれにあやかろうとする信仰がある。、「妖魔」と見なされて後、さらに信仰されるということもあった。
 一方で、たとえ起源が神であろうと、後世より凶暴で邪悪な存在と見なされるものもあった。そういうものでも、害を与えぬよう、祟りをなさぬよう、祀り上げて鎮めておくという信仰がこの国には古来よりある。そうして「妖魔」に堕した「神」も、同様に「妖魔」として信仰された。  あるいは、何かある現象を前にして、そこに畏怖を感じたとき、古代であればそこに「神」を見たものが、後世においては「妖魔」を見るということもある。そうして新たな妖魔が誕生するということもあった。これも一種の「神の零落」と言えるだろう。

 いずれにしても、、「邪神」の後裔が妖怪・妖魔となったのと同様、「神」もまた零落して妖怪・妖魔となったのである。畏怖され信仰もされたが、そこに「神」のごとき神聖性はもはやない。これも一種の「邪神」というべきであろう。あるいは同じように零落した「神」でも、「妖魔」というにはあまりに威力があり恐れられたものもある。これなどはまさしく「邪神」というべきではなかろうか。


総括 ─結局、邪神とは何なのか─ 前の章へ 次の章へ 目次へ

 以上、当神宮でお祀りする「邪神」の定義を述べてきた。ここで改めてそれをまとめてみたい。まず、「邪神」とは何か。即ち、

●邪悪な「神」(霊的存在)。
●その邪悪たる所以は、捉える主体の基準による。


 すると、その所以、理由が問題となる。その理由は次の二つに大別される。

、人間を主体とし、その主体にとって害がある場合。
、ある集団・組織の一方を主体とし、その主体にとって別の集団・組織に害がある場合。

 さて、当神宮は「日本における邪神」を祭祀の対象としている。そこで、上の二つの理由を「日本における邪神」に当てはめてみよう。するとさらに詳細に分類できる。まずは壱の場合。

、そもそもが邪悪そのものであるような存在。例:禍津神
、時の経過に従って、人間にとって利益が少ないと思われた存在。例:

 は、積極的にその害を認めたものである。しかし既に繰り返し述べているように日本では善悪の絶対的価値基準が曖昧なため、その影は薄く数も少ない。その中で邪悪なものの根源と思われたのが「穢れ」であり、それを具現化した神が「禍津神」である。またその「穢れ」は死者の国「黄泉」より生じたもので、その「黄泉」にまつわるいくつかの霊的存在が認められる。このに当てはまるものは古代より伝えられる若干数と、仏教の影響などもあって後世になって生じた邪悪な存在が多くあるが、それについては後述する。
 は、に対して消極的に害を認めたものと言えるだろうか。利益、恩恵がなくなっていく中で、畏怖だけが残れば、それは害ある存在となっていく。これは零落した神々に当てはまる。

 次にの場合。実は壱の場合は、善悪の価値基準云々を除けば日本以外でも大して事情は変わらないのだが、弐の場合はその国の歴史的経緯が関わるため国によって事情が大きく異なる。特に日本のように歴史も長く根本的な民族・文化の変化が少ない国では事情が特殊化してくる。その詳細を眺めよう。

、はるか古代において、民族・文化の対立する集団の一方から見た、相手側の崇める神、相手側の首領、配下、相手側そのもの。例:八岐大蛇
、皇朝成立過程、あるいは皇朝初期において、皇朝に敵対し敗北した集団の崇める神、集団の首領、配下、集団そのもの。例:大物主神
、皇朝支配の確立後、皇朝に反逆し敗北した集団の崇める神、集団の首領、配下、集団そのもの。例:荒覇吐神
、皇朝内部の紛争における敗者側の崇める神、敗者側の首領、配下、敗者側そのもの。例:崇徳院
、皇朝外部の、皇朝があまり関与しなかった局地的な対立における集団の一方から見た、相手側の崇める神、相手側の首領、配下、相手側そのもの。ある集団の内部紛争の場合もあり得る。例:黒神
、皇朝の直接的な影響力が低下した後の、時の政権に対して反逆し敗北した集団の崇める神、集団の首領、配下、集団そのもの。時の政権の内部紛争や政権交代時の旧体制側の場合もあり得る。例:護良親王
、皇朝の直接的な影響力が低下した後の、時の政権があまり関与しなかった局地的な対立の集団の一方から見た、相手側の崇める神、相手側の首領、配下、相手側そのもの。ある集団の内部紛争の場合もあり得る。例:七人みさき
の範疇から若干外れるが、皇朝や時の政権、地方の有力な政権など、政治的権力によって取るに足らないとされた神や集団、あるいは取るに足らないながらもそれなりに有害とされた神や集団、またはそうした政治的な事情とあまりにも無縁だった神や集団。例:槌の子
、特に起源の古いヒ〜イなどが、壱-フのごとく時の経過に従って人々にとっての意味が薄れてしまい、矮小化されてしまったもの。例:蛇の婿

 以上、主に時系列に従って詳細に分類したが、重要なのは集団の対立と中央との関係である。それぞれについて具体的に見てみよう。
 は、皇朝成立以前の遠い昔の話である。それだけに文献資料が極めて乏しく、考古資料と伝承、後世の文献資料から垣間みえるに過ぎないものである。よって、イ、ナ、ヤなどと見分けがつきにくく、またが地下水脈となって後世イ、ナ、ヤとして浮かび上がってくることもある。先に述べたように、日本という国は歴史も長く根本的な民族・文化の変化が少ないので、はるか昔、時に埋もれた氏族や文化が後世何かの拍子に突如歴史の表舞台に現れるということが少なからず起こるからである。また歴史に埋もれたままのような存在になっていることもままある。しかし、それらの中にの存在がかなりはっきりと認められることもままあるのだ。場合によってはフ、ミ、ヨ、ムとの関係が認められる場合もある。全ての項目の起源ともいうべき古き存在なのである。ちなみに、対立が最終的に一方の完全な敗北となったとは限らないので、必ずしも敗者側とは限らない。
 は、主に「国津神」と呼ばれる存在。それも、「天津神」への抵抗著しかった「国津神」である。ちなみに皇朝は今に続くのを見ての通り、完全なる敗北というのは歴史上アメリカに対してぐらいのものであるから、対立したものは倒されたか服従したかしかない。即ち皇朝の敵対者は敗者しかあり得ないということである。
 のうちでも、古いものは「国津神」と呼ばれることがある。ただし、皇朝支配の確立後であるから、有力なものは少ない。有力なものはの時代に制圧され、それゆえに皇朝支配が確立されたと言えるからである。このうちで有力なものは東北の蝦夷関係ぐらいのものであろう。また、時代が下った後では、明確な歴史上の人物であったりもする。この場合、皇朝支配が完全に確定して後の反乱であるだけに、強力な存在である。
 は、でも出てきたような明確な歴史上の人物がほとんどである。ただ、古い時代では、皇朝の内部でも諸氏族が各々力を振るっており、氏族によっての民族・文化差も認められたりするのである。そうした氏族抗争の敗者側の祖神などが貶められている例もなくはない。また先に述べた明確な歴史上の人物の場合、皇朝を取り巻く氏族や貴族ではなく、皇室の血族そのものであることもある。
 は、古い時代の辺境、または地理的に中央にあっても政治的に遠い場合なので、やはり資料に乏しい。伝承の中に垣間みるものが多く、のところで述べたように他の項目との違いが分かりにくい。しかし、この時代の中央の関知しない部族間・氏族間、あるいはそれらの内部闘争の反映と見られるものが、なくはないのである。
 以上のヒ〜イ、特に以降などでは明確な歴史上の人物が大部分を占めている訳だが、ここで扱っているのは「霊的存在」である。即ち歴史上の人物であればそれはまず死後ということになるだろう。それを的確に表した日本語がある。それが「怨霊」である。より古い時代のヒ、フに関しても実体は後の世で言う「怨霊」である可能性も極めて多いであろう。そして、時代の下がったム、ナなどでは、「集団の崇める神」と書きはしたものの、実際は「集団の首領、配下、集団そのもの」がほとんである。ハ〜ホあたりでも言える事だが、時代が下がって、対立する集団間で全く異なる系統の信仰を持っているということはほとんどないからだ。いかに対立している集団であっても同じ系統の神を崇めているならば相手の崇めている神を貶めることなどあり得ないからである。しかし、互いを呪い、恐れたのは間違いない。悲惨な最期を遂げた相手側の人物などは、特に。かくして後の世でも「怨霊」が生まれ続けるのである。それがム、ナである。ただヒ、イと同じく、対立の結末が完全な勝敗となるとは限らないため、どちらかが敗者側 とは限らない。対立したという歴史的事実の、オカルティックな反映だということである。
 ヤ、コは、の項でかなり述べてしまったが、要するに中央との関係がもともと低いか、後に低くなってしまった存在である。壱-フと関係が深く、または同化した場合もある。「里人」から見た「山人」、あるいは彼らの崇める神などここに入るだろう。妖怪・妖魔の類がほとんどである。

 さて、このに関しては古い時代のことを念頭に置いて「権力」と「集団」を重視している。時代を遡れば遡るほど人間社会における「個人」の重要性は低いからである。低いから文献にも伝承にも残らない。実際には神話にも伝説にも「個人」が出てきて活躍もするのだが、それは「集団の首領」的存在、集団の中でも突出した、集団を担う存在としての「個人」なのである。そして集団には「権力」がつきものだ。異なる集団間においても、集団内部でも。そもそも神話や伝説というものは共同体という「集団」で語り継がれるものである。だからこそ「権力」と「集団」に深く関わるのである。「権力」と「集団」に関わらないのであれば、「集団」で語り継がれる必要性もないのだから。そしてより大きな「権力」と「集団」に関わるものが、後世により大きな影響力をもって語り継がれるのである(もっとも、集団に対してさしたる影響力のない「個人」に関わることでも、その衝撃が大きいものや、一つ一つが小さなものでも積み重なったものなどは、「集団」に対する影響力があるため記憶・記録されることが古より多々ある)。
 ところが、仏教が民間に普及してくると、もともと個人個人の救済を目的としたものだけに「個人」を以前よりも強く意識させた。その仏教による影響でも新たな伝承が生まれてくる。また時代も下って近世ぐらいになってくると、政治も安定し文明も進歩して人間社会における「個人」がより重要視されてくる。特に大きな「権力」や「集団」と関わっていないような個人でも。さらに「権力」によらなくとも情報を伝達する手段が発達してくる。それは霊的、オカルティックな事柄でも同じだった。かつては後世に語り継がれるほど省みられなかった庶民の個人レベルでの規模の小さい怪異の目撃譚や、庶民の個人レベルの怨念などが語り継がれるようになる。ここに新たな妖怪・妖魔や規模の小さな「怨霊」、即ち「幽霊」が生まれてくるのである。これらは壱-ヒに含まれる存在といえるのだが、古からの文献や伝承を背景に成立したり、付会されたりして壱-フとも同化していることも極めて多い。こうした存在は近代を経て現代でも都市伝説として生み出されているのである。こうしたものはこうしたもので別に分類すべきかもしれない。

 ともあれ、ここに分類はし終わった。し終わったけれども、実際の各々の存在は、既に見てきて分かるように、それぞれ分類した要素が複合的に交わって成立しているのが実際である。しかし複合的な要素を抱えているからこそ、分類しなければ理解し難いのである。ここまで来て改めて、日本のおける邪神とは何か、それにはどんなものがあるか再三定義する。

●「邪神」とは、害成す「霊的存在」である。
●古来日本では、キリスト教的価値観の強い現代人が考えるよりもはるかに微細なところにまで「霊」を見出し、「神」と呼んだ。よって「邪神」と呼ぶには至らないと思われる妖怪・妖魔・怨霊・幽霊の類も「邪神」とする。


以上を踏まえた上で分類するならば、「邪神」には次のようなものがある。

、害成す自然あるいは超自然の霊的存在。もとより邪霊と定義されたものと、神霊が時の経過とともに次第に権威を失い変容したものとがある。
、集団間の対立の結果、貶められた神々や英雄。あるいは、対立抗争の結果、害成す怨霊と化した人々。
、場合によって壱、弐を背景とする、近世以降の害成す妖しき霊的存在。(十数行上の記述に対応)

そして注として付け加えるならば、

◎「邪神」が「邪」であると決めるのは主体の判断による。ゆえに「邪神」と「神」の間にさほどの違いはないのかもしれない。絶対的な善悪の価値基準を持たない日本では特に。つまり──「邪神」を「邪神」と定義づけるのは──あなた自身である。

以上をもって当神宮における「邪神」の定義を終える。
以下、上の分類で挙げた具体例について簡単な解説を載せておく。


付・邪神の分類上の具体例 前の章へ 目次へ

壱-ヒ 禍津神(マガツカミ)本文参照。

壱-フ 蛟(ミヅチ):中国において、竜の前身で、昇天して竜となる前の水中に潜んでいるものをいうが、「ミヅチ」は日本の上代語で「水の霊」を意味し、それに「蛟」の字を当てたものである。古代においては水神だったが、仏教流入後は零落して洪水を起こす邪霊とみなされた。

弐-ヒ 八岐大蛇(ヤマタノオロチ):記紀において、出雲の斐伊川上流で暴れていたとされる八首の大蛇。素戔鳴尊(スサノオノミコト)に倒され、その尾からは三種の神器の一、草薙剣が出てきたという。暴れ川の象徴とされるが、蛇・竜を崇める製鉄技術を持った古代日本の原住民の反映でもある。

弐-フ 大物主神(オオモノヌシノカミ):大和の三輪山に鎮まる国津神。国津神の王、大国主命と同体で、天孫降臨以前の日本の支配者であり、神武東征以前の大和の原住民達の神である。皇朝初期に度々災いをもたらし、祟りを恐れられ丁重に祀られた。また、蛇神としての性格も持っている。記紀には関係した記述が多い。奈良県大神(オオミワ)神社の祭神であり、現在でも篤い信仰を受けている。

弐-ミ 荒覇吐神(アラハバキノカミ):縄文人、蝦夷達の主神といわれる謎多き神。皇朝による東北平定の後は抹殺され、現在は東北や関東の一部の神社の末社などで足の神として細々と祀られている。記紀には全く記述のない神で、偽書の疑いが強い「東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)」の公表により脚光を浴びた。

弐-ヨ 崇徳院(ストクイン):第七十五代天皇。父鳥羽法皇により譲位を迫られ退位する。法皇崩御の後は保元の乱を起こすも敗北、讃岐に流された。流されて後も不当な扱いを受け、皇朝に仇なすことを誓い崩御。その怨念凄まじく、後々まで大怨霊として恐れられた。日本の全ての魔の頂点に立つ存在とする記述もある。

弐-イ 黒神(クロカミ):秋田の民話に見られる、津軽の神。力強いが粗暴な神で、十和田湖の女神を巡って秋田・男鹿の赤神(アカガミ)と争い、赤神を打ち負かすも、結局女神は赤神の元へ走ったため手に入れられず、意気消沈してついた溜息によって大地が割け津軽と北海道が分かれたという。古代のこの地方における何らかの争いを反映したものと思われる。

弐-ム 護良親王(モリナガシンノウ):後醍醐天皇の皇子。武略に優れ、父天皇配流後も奮戦して鎌倉幕府打倒に貢献した。しかしその後足利尊氏との対立が深まり父天皇により鎌倉へ配流、当地で尊氏の弟・直義により幽閉され無念の最期を最期を遂げた。その後はやはり怨霊と見なされ、太平記などでは先の崇徳院や菅原道真とともに日本滅亡を企図する魔の一団の首領格とみなされている。私的怨恨を持つ怨霊が大部分を占める中世以降にあって、国家壊滅を目論む数少ない例である。

弐-ナ 七人みさき(シチニンミサキ):四国統一を果たした戦国大名・長曽我部元親(チョウソカベモトチカ)の甥であり家臣、吉良親実(キラチカザネ)主従の怨霊。親実は長曽我部家の家督相続の問題により元親より切腹を命じられたが、死後その主従達は長曽我部家に祟る怨霊となって城下を騒がせた。怨霊に悩まされた元親はその霊を慰めるため神社を建立、以後祟りはおさまったという。「七人みさき」というのは正確には親実の七人の家臣達で、親実自身がそこに入っていないのは、家臣達と一緒に扱うことはもちろん、口にするのも憚られるぐらい、恐れ多かっためと言われる。

弐-ヤ 槌の子(ツチノコ):蛇に似た胴の太い幻の動物。江戸時代以来幾度となくブームが起こり、現在でも存在の真偽が確定しておらず、捜索や発見譚が続いている。槌の子は「野槌(ノヅチ)」とも言われ、が、「槌の子」は「野槌の子」という意味だが、「野槌」自体槌の子の別称だともいう。いずれにしても「野槌」は獰猛な蛇に似た化け物として語られている槌の子の起源ともいうべき存在だが、その起源は記紀神話の「野椎神(ノズチノカミ)」とも言われる。「野椎神」はイザナギ・イザナミの子神で「草野姫命(カヤノヒメノミコト)」ともいう草木の女神である。また先の「ミヅチ」と同じく「ノヅチ」もまた「野の霊」を意味する。しかし時の権力が野椎信仰を排斥したということもなく、逆に権力とあまりに無縁だったために民間信仰レベルで堕ちてしまった神と言えるだろう。一方縄文土器にも槌の子のような造形があり、はるか太古から信じられてきた存在でもあるようだ。また中部地方では妖怪「土転び」とも同一視されている。

弐-コ 蛇の婿(ヘビノムコ):日本中で広く語られる民話中の存在。いろいろなパターンがあるが、蛇の嫁になった人間の娘が、針によって蛇を損ない娘が開放されるという共通の主題がある。特に娘の元に通ってきた男の正体が蛇で、それが男の衣装に刺した針に付けた糸によって判明するというパターンは特に重要で、記紀にも似たような話が伝わっている。その男の正体が記紀では先の「大物主神」なのである。ただし記紀では神の方が損なわれることはなく、紀では逆に神に恥を掻かせたということで娘の方が死んでしまう。この蛇の婿譚は明らかに記紀に採られた古代の伝承を起源とするもので、祟り神として恐れられた神が後世権威を失い矮小化された存在といえるだろう。大物主神は現在も信仰を保っているが、比較的局地的であり、しかも祟り神として恐れられたのはほとんど古代においてのみなので、他の場所では零落してしまったのかもしれない。またこの類型の説話はアイヌから沖縄まで伝わっており、かなり普遍的な主題であるとともに相当に古い起源をもつものであることも分かる。

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