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紅葉伝説考
六、「貴女紅葉」の坐しし鬼無里

 ・紅葉伝説を記述する「北向山霊験記」
 ・鬼無里の伝承の特異性
 ・鬼無里の伝承における紅葉のシャーマン性
 ・官女・紅葉
 ・紅葉が建てた加茂神社
 ・紅葉は賀茂氏に連なるか
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紅葉伝説を記述する「北向山霊験記」
 紅葉が住んだという内裏屋敷の跡地が残り、そこから同時代の製鉄の跡が見つかった鬼無里村。そこで紅葉はその才知と霊能をもって村人に尽くし、村人にも慕われたという。実は、この鬼無里にまつわる紅葉伝説は、ほとんどが鬼無里村に独自に伝わったものである。
 紅葉伝説には、大別して二つの系統がある。一つは、謡曲「紅葉狩」の系統で、戸隠の山中で平維茂が妖しい鬼女に出会い、これを討ったというもの。もう一つは、「北向山霊験記」と呼ばれる書物に書かれている物語の系統である。「北向山霊験記」とは、平維茂が紅葉退治の祈願のため参籠し、降魔の利剣を授かった、上田の北向観音の由来記のようなものだが、紅葉の生涯を詳細に語ったものはこちらの系統に入る。こちらの系統に入る、といっても、戸隠周辺に伝わる紅葉伝説はほぼこの「北向山霊験記」と話の筋が同じなのだが、鬼無里に伝わる伝承だけは大きく異なっている。大きく異なる部分というのは、当然ながら鬼無里が舞台となる村人のとの交流の部分である。もちろん、「北向山霊験記」でも紅葉と村人との描写はあるが、紅葉が高貴の身分と偽り邪術で村人を誑かし、昼は菩薩のように振る舞い、夜は夜叉の如き本性を現して悪事を働いたと、相当に悪しざまに書かれている。紅葉に対して多少とも感謝の念を伝えている伝承は、鬼無里の他では、荒倉山の麓、維茂の先遣隊が紅葉の術に翻弄されたり、維茂が岩屋を探すために放った矢が落ちたという場所、また紅葉の墓と菩提寺などのある、柵(しがらみ、現在の戸隠村栃原志垣あたり)に伝わるものぐらいのものである。柵での伝承には、紅葉は地元の出身だと伝えるものもある。

鬼無里の伝承の特異性
 鬼無里に至っては、現在もなお、紅葉は人々に様々な施しをし、文化を伝え、慕われた、鬼女ならぬ「貴女」とし、恩人としている。神の如き尊崇の念を受けているのである。また、紅葉が住んだ内裏屋敷だとか、紅葉が名付けた京にちなんだ地名、紅葉が建てた加茂社や春日社などは、鬼無里独自の伝承である。「鬼無里」という地名についても、鬼無里では紅葉とは無関係な、全く別の由来を伝えている。鬼無里の伝承では、魔性の女性であったとか、鬼と化して討たれたとかいうことは、優先度がとても低いのだ。何よりも村人に厚く遇され、村人に恩恵をもたらした貴人であったことが強調されている。紅葉を宮中に仕えた官女(帝に仕える女官)であったともしているのだ。であればこそ、「内裏屋敷」という名も成り立つと言えるだろう。内裏とは他ならぬ天皇の住まう場所である。
 この鬼無里での伝承は、他の伝承に比べ最も細部が詳細であるだけに、最も原型に近いものと言えるのではないだろうか。外部で形成された伝承に付け足したということはあるまい。外部で鬼と呼ばれ忌避されているものを、後からわざわざ鬼無里でだけ貴人とし崇めるような理由はないからだ。いかに伝承といえど、故なくして「内裏」などという名称を朝廷に征伐された「鬼」に結びつけることなど危険極まりなくて狂気の沙汰でしかない。故あることだとしても危険なことには違いないのだから、それでもそうした伝承を伝えるだけの意義があったということだ。意義とは紅葉を敬うことで、それほどまでに鬼無里の人々は紅葉を尊んできたということである。

鬼無里の伝承における紅葉のシャーマン性
 鬼無里の伝承こそ紅葉伝説の原型だとするなら、それに合わせて紅葉伝説を再度省みてみる必要がある。これまでの検証の根幹は、紅葉が女性シャーマンであった、ということだ。これについては全く異存はない。紅葉が最もシャーマンらしい、呪医的役割を果たしたのは、鬼無里の伝承においてである。鬼無里には紅葉伝説を描いた絵もあるが、そこには白衣に緋袴という、明らかな巫女装束をまとった姿で紅葉が描かれている。その出で立ちで檜扇をもって人々を癒したり、神を祀る姿が描かれているのである。また紅葉が神社を建てたということにも注目したい。神社を建てるということは、神を招き、その礼拝所を建てるということである。これは神に仕える者にしかできない行為だ。シャーマンはシャーマンでも、万人が認めるような高レベルのシャーマンにしかできないことなのである。  なお、紅葉と宗教文化ということでいえば、鬼無里にある紅葉の菩提寺・松巖寺(しょうがんじ)では紅葉の守護仏は地蔵菩薩であったとし、そもそも松巖寺も平維茂が紅葉の守護仏である地蔵菩薩を供養のため祀ったのが始まりという。実際松巖寺はもと鬼立山(きりゅうざん)地蔵院と称した。今でも松巖寺には空海作と伝えられる地蔵像があり、これが紅葉の守護仏だったという。紅葉の守護神を第六天とする一般の伝承とは大分異なるが、地蔵菩薩は冥界の管理者でありイタコのような死者を招くシャーマンを彷彿とさせられなくもない。

官女・紅葉
 紅葉がシャーマンであったことは鬼無里の伝承においても揺るぎないどころか、ますます強固なものとなるほどである。では出自の問題はどうか。
 鬼無里の伝承において特異なのは紅葉の鬼無里での行動であって、それ以外の部分に関しては、紅葉に同情的という他は特に目立った点はない。ただ紅葉が官女であったとするところが特異な点である。官女とは内裏で帝に仕える女性であって、経基の側室とは立場が異なる。このあたりは鬼無里の伝承でも明確に語られている訳ではない。もっとも、経基は源姓を賜った臣下とはいえ、それまでは経基王と称し、六孫王(清和天皇の第六皇子の子の意)とも称された、歴とした天皇の孫である。即ち元皇族なのだ。いずれ高貴な存在には違いないであろう。「源氏物語」でも光源氏は准太上天皇(太上天皇は譲位後の天皇の称号。光源氏は皇位に就いたことはなかったが、天皇の父であったため、これに準ずる称号を与えられた)の称号を授かっている。物語の話とはいえ、源氏物語は広く宮中から貴族達まで受け入れられたものであり、源姓が皇室に連なる高貴な姓であると認識されていた証左であろう。こうしたことまで考えるなら、経基の側室が官女とされることもあり得ない話ではない。都を遠く離れた信濃の山中であれば尚更である。
 いずれにしろ紅葉が高貴な女性であったとすることは同じである。そして、白拍子の前身たる漂泊のシャーマン・芸能者であった可能性も依然として残るのである。また、蝦夷や土蜘蛛のような「まつろわぬ民」の系譜に連なる者であった可能性もまた残る。単なる追放された一官女であれば、勅命により討たれるということはない。皇朝にとって政治的に厄介であればこそであり、「鬼」と呼ばれるなどこれまで様々に検証してきたいくつもの事柄から、「まつろわぬ民」の系譜に連なる山の民、産鉄民であることはまず間違いがないのである。紅葉が住んだ内裏屋敷から出土した鉄滓は、そうした山の民、産鉄民との関係を如実に物語っている。

紅葉が建てた加茂神社
 また、紅葉が建てたという神社のうち、内裏屋敷に最も近く、現在でも最も規模の大きなものが加茂神社であるが、この神社も土蜘蛛とのつながり示すものかもしれない。
 この神社の祭神は建御雷男神(たけみかずちのおのかみ)で、国譲りの際、先述した諏訪大社の祭神・建御名方神を追い詰めた天津神であるが、これは京都の下鴨神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)を後世混同したものと思われる。京を偲んで建てたというなら尚更である。その賀茂別雷神の祖父を賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)といい、上賀茂神社の祭神であるが、この神は神武東征の際、八咫烏(ヤタガラス、三本足の霊鳥)となって天皇を助け、奈良の葛城に鎮まったという。
 これを祖神として奉祭した古代豪族賀茂氏が京都に移って祀ったのが上賀茂・下賀茂神社であり、その根源たる高鴨神社という神社が奈良・葛城にある。しかし、その高鴨神社の祭神は味耜高彦根神(アジスキタカヒコネノカミ)という、大国主命の子神であり、そのことは古事記にも書かれている。それからすると、賀茂氏は出雲系の豪族ということになる。また葛城は神武天皇に討たれた土蜘蛛の一大根拠地でもあった。そのようなことから、賀茂氏は土蜘蛛と同じく当地の土着の豪族であり、そのうちの皇朝に組した一族とする説がある。
 また、先に陸奥国風土記逸文に、土蜘蛛が暴れて討たれたという記述がある旨述べたが、それを討ったのは日本武尊で、討った後、そこに「土着の神」として味耜高彦根神を祀ったというのである。他にも、味耜高彦根神と土蜘蛛の関連を示すものがあるようで、賀茂氏というのは皇朝に組した元の土蜘蛛というだけでなく、先に述べた佐伯氏などと同じく、全国の土蜘蛛と交流を持ち、これを束ねるような役割を担っていたのではないかともいわれている。ただ、賀茂氏が隆盛を誇ったのは皇朝の黎明期であり、その後は没落気味であったようで、京都の賀茂神社は葛城を追われた賀茂氏が逃れて建てたものといわれる。もっとも、その後も呪術を行う一族として賀茂氏は一定の地位を保ってきた。修験道の開祖・役小角は賀茂氏であるし、安倍晴明が出るまで朝廷の陰陽道を独占していたのは賀茂氏で、晴明以後も陰陽師の家柄として続いている。

紅葉は賀茂氏に連なるか
 そのような一族である賀茂氏は、一方で全国に移住開拓もした。そうした地には今でも「加茂」の地名や、加茂神社が残ったりしている。鬼無里の加茂神社も、そうしたものの一つである可能性は十分にある。紅葉の強力な呪術は、呪術師の一族たる賀茂氏と関係があるかもしれないし、紅葉が土蜘蛛に連なる者だったとして、その祖神を祀ったのが鬼無里の加茂神社なのかもしれない。
 なお、鬼無里の加茂神社は、社伝によれば日本武尊が白鹿を撃ったときの矢を奉納し、加茂大神を祀ったのがはじまりとされている。これに近い話が日本書紀にあって、東国征伐を終えた日本武尊が、まだ反乱の気がある信濃に赴いたとき、山の神が邪魔しようと白い鹿となって現れ、尊がこれを撃ったという。加茂神社の創建にまつわる話は間違いなくこの系統に属するものだが、この白鹿は紛れもなく皇朝に敵対した「まつろわぬ民」であり、鬼無里にそうした勢力があったことを物語るものである。また、先の陸奥国風土記逸文の日本武尊の土蜘蛛退治では、退治した後「土着の神」として味耜高彦根神を祀ったとのことだが、同様に日本武尊が土着勢力を討った後に加茂大神を祀ったこの地は、土蜘蛛の根拠地であった可能性が高い。鬼無里はもともと「まつろわぬ民」の地であったのではないか。



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