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パウチは邪神か妖精か 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
 ともかくも、パウチは恐ろしいものであった。それが一方で「カムイ」(神)の名を持つことの証左でもあるだろう。もっともアイヌの人々はあらゆるものにカムイを見出していたから、カムイだからといって全て強大な威力をもつものとも言えないが、パウチは神話の中でもかなり早い段階で現れたカムイのようである。
 アイヌ神話(といっても統一的なものではなく、地方によってそれなりに差異がある)の一つには、コタンカラカムイ(国造りの神)の創世の中でパウチが現れる。コタンカラカムイが大地を造ったとき、世界の上手の端に、チキサニ(ハルニレの木)とノヤ(ヨモギ)、下手の端にクルソニ(泥の木)とソロマ(わらび)が生え、次に人間が生まれた。コタンカラカムイは人間に火を授けようと、泥の木をこすり合わせて火を起こそうと懸命になったが、一向に火は起きない。コタンカラカムイは機嫌を損ね、木屑を吹いた。すると、それはパウチカムイ、パーコロカムイ(疫病神)、ケナシ・ウナルペ(林の姥)、モシリ・シンナイサム(異界の化物)などの邪神となった。コタンカラカムイは今度はハルニレの木で火を起こすと、白煙とともにアペフチカムイ(火の老女神)が生まれ、火が燃え上がった。このときの木屑や燃えさしからはキムンカムイ(熊の姿の山の神)やハシナウクカムイ(野山と狩猟の神)、火起こしに使ったハルニレの棒からはヌサコロカムイ(祭壇の神)が生まれた。
 このように、パウチは他の邪霊、邪神を兄弟として生まれた「由緒正しい」邪神であった。
 しかし、パウチはこのように社会を破滅させる恐ろしい存在であり、また由緒正しい邪神でありながら、一方で少し滑稽で愛らしい、どこか妖精めいた存在でもある。
 まず、集団で、全裸で踊り狂っていること。まさにこれこそがパウチを恐ろしい存在たらしめている要素なのだが、その姿は視点を変えれば非常に滑稽な姿である。しかも、アイヌの伝承では、男のパウチは男性器をブランブランさせて、女のパウチは女性器をパックリパックリさせて、というような表現をしている。これが滑稽でなくてなんであろう。そしてそれは同時に魅惑的で、愛らしく、美しい姿と見ることもできる。川べりで、全裸で魅惑的に群れ舞う姿──これはギリシア神話のニンフ(海や川、山や森に住む美しい女の妖精。神々と人間との中間的な霊格だが、神々との区別は曖昧。よく神々や人間との恋に落ちる。ナルキッソス(美しい己の姿に恋するあまり死んでしまう美少年。ナルシストや花の「水仙」の語源)に恋したエコー(ゼウスの妻ヘラの怒りを買ったため相手の台詞を返すことしかできなくなったニンフ。英語でこだまを意味する「エコー」の語源)や、プレアデス七姉妹(月の女神アルテミスに仕え、狩人オリオンから逃れて星になったニンフ達。プレアデス星団(和名すばる)の語源)などが有名)を想起させる。

 またヨーロッパに伝わる妖精の特徴として、輪になって踊り、ときによっては人間を輪に加えるというものがある。しかも、大概輪に加わった人間は死ぬほど、あるいは死ぬまで踊り続けるか、そのまま妖精たちとともに何処かへ消え去ってしまうという伝承も多い。そしてそうした西洋の妖精は基本的にいたずら好きで、性質の悪いものはそのいたずらによって人間を死に至らしめることもあるという。しかも、西洋の妖精には小人のように小さなものが多いが、パウチもまたそうした小さなものだともいわれる。
 このように見てみると、パウチというのは西洋でいう妖精に非常に近い属性を持っていることが分かる。ただ、西洋の妖精よりもより神に近い存在であり、しかも人間社会に対しての被害が甚大である点が異なるということだろう。しかしその人間社会に対する被害とても、明確な意志をもって人間社会を破滅させようとしているのではなく、彼・彼女らの快楽の追求の結果にすぎないという趣が強い。このあたりも西洋の妖精との共通点であろう。もっとも、西洋の妖精や淫魔が人間に害を成す場合、それは個人レベルに留まる場合が多いのに対して、パウチの場合は基本的に村落という社会レベルへの影響が基本である、というところは大きく異なるところである。それゆえにパウチの邪悪性が強調されているのだ。


氷の国のローレライ 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
 西洋の妖精に近い、という点では、次のような話もある。これもまた知里真志保氏の「えぞおばけ列伝」に採られている話である。

─石狩川のローレライ伝説─
 石狩川の上流に、カムイオペッカウシ(神が川岸で陰部をさらけ出している場所の意)と呼ばれる崖がある。
 昔、十勝の方から夜盗の一団が上川アイヌのコタンを襲おうと、石狩川の上流に筏(いかだ)を浮かべて川を下ってきた。
 そしてカムイオッペカウシへやって来ると、川岸の崖で美しい女が全裸で踊っている。それを見た夜盗の一団はぽかんと口を開けて見とれていた。やがて筏が滝の上に差し掛かったのも気付かず、そのまま滝壺の中に沈んでしまった。(一団は十勝ではなく日高出身だとする話や、一団が女神が自分に味方してくれていると思い込み見とれていたところ、気付かずに滝壷に落ちてしまったとする話もある)

 このカムイオッペカウシがある場所は、大雪山の北麓にあたり、石狩川が山岳を削って出来た断崖が両岸二十四キロに渡って続く一大渓谷で、「ソウウンペツ」(滝の多い川)と呼ばれていたが、大正時代にこの地を訪れた文豪・大町桂月(おおまちけいげつ。詩や紀行文に優れた。自然を愛し、登山家でもあった。特に北東北をよく好んだ)がそれを聞いて「層雲峡」と名付け、以来その名が定着している。温泉が湧き、今では一大温泉街として発展しているが、この場所は古来「パウチチャシ」(チャシは砦の意。道内には数多くのチャシが残り、砦のほか礼拝の場所でもあったようである。沖縄のグスクに近い性質のものか)とか「パウチ・カラ・コタン」とか呼ばれて、パウチが築いたものだと思われていた。
 さて、伝説に詳しい人ならばピンと来るであろうが、これに似たような話が西洋にも伝わっている。いわゆるローレライの伝説(ドイツのライン川に伝わるもので、やはり急流の岩の上で乙女が歌っているのを見た舟人が、それに気を取られて難破してしまうという話。ハイネの詩や、それにつけたジルヒャーの曲は、翻訳されて日本でも有名。なお「ローレライ」とは「妖精の岩」の意。もとはこだまを待つ岩、「ルーレライ」と呼ばれた)である。知里真志保氏も、この伝説を「ローレライ伝説のコタン版」と評している。そしてローレライの乙女は妖精と認識されている訳だが、同様の伝説を持つパウチもまた極めて妖精的属性が強いということになるだろう。いや、むしろキリスト教的絶対的観念の下であれば間違いなく妖精であって、多神教的観念を持つアイヌ民族であればこそこれを「カムイ」とするのである。そもそも、西洋でいう妖精も、もともとキリスト教布教以前の神々に起源を持つものが多いのだ。

 この伝説では、パウチは社会を破滅させるような魔ではなく、その被害は個人レベルに留まっている。むしろ上川アイヌの人々にとっては結果的に守り神的存在とさえなっている。そして、ローレライ伝説との類似を思えば、随分とロマンチックな伝説とも思える。
 さらに、「えぞおばけ列伝」では、樺太ではこの話が文学化して伝わっているとして、次のような話を紹介している。

─樺太のパウチ歌物語─
 サンヌイペシという村に三人の兄弟が住んでいた。一番上の兄が魚を獲りに舟に乗って川を上っていった。舟が川の深みを伝って上っていくと、川岸で女が踊りながらこんな歌っていた。

   キミの小舟を 岸の草原の奥へ 引き上げて 仲良くしよう

この歌を聴いた彼は舟を岸の草原へ引き上げた。すると女が彼のそばへ寄ってきて歌った。

   キミの舌を こっちへ出して しゃぶってあげれば 心もとろける 仲良くしよう

 そうして言われるがまま彼が舌を出すと、女は舌をしゃぶってきた。すると、突然歯で舌を噛み切ったので、彼は気を失ってしまった。
 長兄が魚を獲りに行ったまま帰ってこないので、今度は次兄が小舟に乗って川を上っていた。いくつもの川の曲がりくねった所を越えて上っていくと、川岸で女が踊りながらこんな歌を歌っていた。

   川上で見たよ 仲良くしよう 川下で見たよ 仲良くしよう
   キミの小舟を 岸の草原の奥へ 引き上げて


 この歌を聴いた彼は舟を草原へ引き上げた。すると女は彼のそばへ寄ってきて歌った。

   キミの舌を こっちへ出して しゃぶってあげれば 心もとろける 仲良くしよう

 次兄も言われるがまま舌を出すと、女はそれを噛み切って殺してしまった。
 長兄も次兄も魚を獲りに行ったまま一向に帰ってこないので、今度は末弟が舟を出して川を上っていった。いくつも山が川にせり出している所を越えていくと、川岸で女が踊りながらこんな歌を歌っていた。

   川上で見たよ 仲良くしよう 川下で見たよ 仲良くしよう
   キミの小舟を 岸の草原の奥へ 引き上げて


 すると彼は、
   おいおい ぶったくぞ

 と、歌い返す。すると女は

   ヤだあ 舌出してよ しゃぶろう 仲良くしよう

 と歌い続ける。しかし彼は隙を見て女の首をぶちきってしまった。骨も肉も切り刻んで草や木の根元にぶちまけて、それから女の家へ行ってみると、兄達の舌が干して天井から吊るしてあり、頭は床の上に並べてある。そこで兄達の舌と頭を持ち帰り、舌を差し入れ、頭を差し込んで、とんとんと床にたたいてはめ込むと、兄達は生き返って元の体になった。

 こちらの伝説ともなると既に歌物語となっている。ローレライにしても詩人ブレンターノの詩によって魔女の仕業と解されて以来ロマンチックな伝説と認識された訳だが、この物語はそれに近い趣がある。ただ上述の層雲峡の話よりもより残虐性が増して、悪魔、淫魔としての性質が濃くなってはいるが。
 いずれにしてもパウチとは単なる淫魔ではなく、水の精霊としての属性も持っていることは確かである。あるいは古くは水神であったのかもしれない。古来こうした急流は舟人にとって脅威だった訳で、その地の水神が次第に悪魔として認識されるようになったということもあるだろう。同じ石狩川のもっと下流にある旭川市のカムイコタンも、急流で景勝地として有名だが、ここもニッネカムイという邪神(カムイ)の住処(コタン)であったという伝説がある。


巫女神パウチカムイ 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
 カムイということで言えば、パウチは単に淫魔とばかり認識されていた訳ではなくて、織物の神という属性も持っていた。パウチが憑くとそれはそれは素晴らしい織物が織れるそうである。また、神々はパウチの織った織物を着ているという。全裸で踊るパウチが織物の神というのもおかしな話だが、それは一種の逆説であり、それが神性を高めているも言えるだろう。
 また先にパウチがギリシア神話の妖精ニンフのようだと述べたが、パウチも人間に対してただただ誘惑して破滅させるというアプローチをするだけでなく、ニンフよろしく人間に恋するという伝説もある。もしかしたらパウチは人間に害を成そうという気はさらさらなく、人間と仲良くしたいだけなのかもしれない。しかし超常的な存在であるがために、接触された人間の方がそのアプローチに物理的についていけないだけかもしれないのだ。そう思うとどこか悲しい話でもある。超常の異類が人間を愛すが、その超常の力ゆえにその人間を死に至らしめてしまったり、恋が破局に終わったりするという伝説は世界中にある。特に水にまつわる精霊などには。ローレライ伝説を生んだドイツのロマン派小説「ウンディーネ」(邦題「水妖記」、先のブレンターノと同じドイツ・ロマン派の作家フーケの作)も水の精霊の少女と恋に落ちた人間の話だが、破局に終わる。またニンフと人間の恋も大概は悲しい結末に終わった。パウチとはそうした悲しい存在なのかもしれないのだ。伝承を持つアイヌ民族にもそういう認識があったかもそれない。

 ともあれ、結局は人間に忌むべきものと思われたパウチ。だが、その起源は、必ずしも淫魔ではないようだ。先に水神であった可能性も述べたが、言語学的にもパウチがもともと別の存在であったであろう証左がある。
 「えぞおばけ列伝」では、パウチの項で、パウチが住む天界のシュシュランペツという川に注解を付け、もと「トゥス・ラン・ペツ」であったものが訛ったものとしている。そして「トゥス・ラン・ペツ」とは「巫・神・川」の意であるのだ。和人の言葉に訳せば「巫女神川」といったところか。さらに注解によればパウチは今でこそ淫魔の意に零落しているが、樺太の古謡では巫女の意味であり、さらに古い時代にはその巫女に憑く神であったという。だからこそ「巫女神川」=「シュシュランペツ」を故郷にしているのであるとも。また、先の樺太のパウチ歌物語に出てくる水辺の魔女を「トポチ」と呼ぶのだが、この語はもと「トモチ」という語と同じで「憑神」「巫女」「神憑りの状態」を意味したらしい。
 ここまで来れば明らかなように、パウチとはもともと巫女と巫女に憑く神であり、パウチカラペ サイェヘ(淫乱の男女の群れ)の原型はトランス状態に入った巫女集団だったのであろう。そして日本神話の天鈿女命が裸で踊ることにより呪力を発揮したり、古代フェニキアの神聖娼婦や日本の中世の歩き巫女が男と交わることを生業にいていたり、バビロニアの王が大母神イシュタルの現身たる巫女と交わることによって霊力を付与されて王位に就いたりしたように、巫女と裸、性交は不離の関係にあった。シャーマニズムが全盛であり女性中心の社会であった古代(例えば巫女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国のような)にはそうした巫女はまさしく神聖なるもとして尊ばれたのであろうが、文明の進展と世俗権力・宗教権力の男性化に伴って、巫女集団は次第に狂気のものとしてとらえられるようになり、忌むべきものとして迫害されていった。日本における鬼女伝説が大概そうした巫女集団の零落の過程を示すものと同様に、パウチの伝説もまた巫女集団の零落を示すものなのである。淫乱の群れとしての性質が強いのは、その原型をよく留めている証拠なのであろう。

 筆者はこのパウチの群れの話を聞いたとき、ギリシア神話におけるディオニュソス教団を思い出した。ディオニュソス教団とは酒神ディオニュソス(バッカス)を崇める主に女性から成る集団で、トランス状態に入った彼女達は素手で牛を引き裂き、人をも殺して食べたという。その狂乱ぶりは凄まじく、社会問題にもなったようだ。これとパウチはかなり近いものがあるだろう。ウッドストックで狂喜乱舞するヒッピー達はこうした者達の末裔というべきか。
 あるいは、そうした巫女が死の託宣を告げたり、呪力によって人や村落を破滅させたということもあったかもしれない。淫乱の群れによるコタンの破滅やローレライ的舟人の破滅はそうした記憶の反映なのかもしれない。またその起源たる憑神や巫女というのも水に大いに関係があったのであろう。パウチとは水神であり、水の巫女であったのではないだろうか。


パウチと踊れ 古の調べとともに 前の項へ 最初に戻る
 これまで見てきた通り、ニンフやディオニュソス教団を想起させ、ローレライ伝説と酷似した内容を持つパウチの伝説は、どこか西洋の伝承や古代宗教との類似が見られるようなところがある。恐らくは人間の集合的無意識に潜む元型による類似なのだろうが、あるいは同一起源のものの伝播ということも考えられる。かつて西洋人の学者を主体にアイヌ民族がアーリア系白人種の末裔ではないかと言われたのも頷けなくもない(ただしそれが、白人が明治期にアイヌ人の墓を荒らして祖先の遺骨を持ち去るという、非人間的行為の原因ともなったことを忘れてはならない)。人種的にはともかくゲルマン人大移動の原因となったフン族はもとシベリアあたりにいた民族で、アイヌ民族もシベリア周辺の民族と交流があった訳だから西洋人と同一起源の伝承を持っている可能性はある訳である。
 そこまで行くと飛躍が過ぎるだろうが、パウチの伝説はどうも樺太が起源らしいのは確かだろう。樺太にはアイヌのほかにニブフ(ロシア語による旧称ギリヤーク)、ウィルタ(アイヌ語による旧称オロッコ)といった先住民族がいて、同系の北方民族は沿海州(ロシア極東地域)から東シベリア一帯に広がっている。そうした民族の中にはウルチと呼ばれるバイカル湖周辺や黒龍江(アムール川)流域に住む民族もいて、アイヌ民族はサンタと呼んで大陸に渡り黒龍江を遡って彼らと交易したという事実もある(山丹人とか山丹交易という言葉で和人の記録にもある)。そのウルチ族は遺伝学的・言語学的要素などから現在縄文人、日本人の最も古い祖先としての最有力候補でもあるのだ。

 またあまり知られていないが、九世紀頃黒龍江流域や樺太からトドやアザラシなどの獲物を追って流氷に乗り(オホーツク海にやって来る流氷は黒龍江の氷が起源である)北海道にやって来た北方民族がいて、当時縄文文化を独自に発展させていた原住民族に影響を与えてアイヌ文化が形成されたという歴史もある(網走にあるモヨロ貝塚はそうした民族の住居跡であり、その住居はウィルタの住居に酷似している)。こうしたことから、樺太により古い形態を残すパウチ伝説が、さらに遠くシベリア起源の伝説ということもなくはないだろう。もっともそれはシベリアの北方民族に同様の伝承があればの話であるが。あるいは後世ロシア人がシベリアに進出してきてから西洋的要素が混入されたという可能性も全くない話でもない。もちろん古い伝承であるから起源自体はそれとは関係ないであろう。
 または、パウチの群れのような巫女集団がそもそも北方、東方から樺太、北海道に渡ってきたという可能性もある。パウチの集団そのものが異国の集団だということだ。それが網走にやってきたモヨロ人とかオホーツク人とか呼ばれる古の北方渡来民なのかもしれない。それはそれで、放浪と呪術を生業とするジプシーのような民族を彷彿とさせる。何となれば、伝承によればパウチは踊りながら世界を巡っているというのだから。それこそ歩き巫女のごとき漂泊のシャーマン・芸能・娼婦集団だったのかもしれない。

 いずれにしろ和人の伝説には見ることの出来ないシャーマニック性の強い特異な伝説である。古代人の息吹を感じる、人間の根源的な獣性や第六感的な霊性を呼び覚ます伝承だ。そういえば「シャーマン」という言葉はシベリア原住民のツングース語「サマン」(呪術の意)に由来するという。さればパウチは由緒正しい「シャーマン」なのかもしれない。
 ところで知里真志保氏によれば、パウチの故郷「シュシュランペツ」の「シュシュラム」が「スス・ハム」(柳・葉)と解されて柳の葉をちぎる伝説が生まれ、「スス・ハム」が「シシャム」となり「シシャモ」となったいう。我々が日常的に食するシシャモには、こうした北方のロマンと歴史が背景にある訳だ。
 高度文明に囲まれつつも何かとストレスも多く人間らしさを失うことも多い現代日本人だが、時にはシシャモを食べてそのロマンと歴史に思いをはせ、「人間らしさ」を解放し「パウチと踊る」ことも必要かもしれない。アイヌ語で「ウコパウチコル」(互いにパウチを持つの意)と言えば、人間的な、あまりに人間的な行為を営むことを意味し、「パウチチシテ」(パウチが泣かせる)と言えば、その際に感極まって泣くことを意味する。パウチとは人間の奥底に地底湖のように潜む、人間性そのものなのだ。日々人間は固定観念にとらわれ心を抑圧し闇の部分を蓄積させていく。時にはそうしたものを激流とともに洗い流してやらねばならない。それをしてくれるのがパウチ・カムイなのだ。さあ、パウチと踊れ!


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