邪神大神宮 道先案内(ナビゲーション)
鳥居(TOP)斎庭(総合メニュー)津波被災地見聞録>其之七

■東日本大震災 津波被災地見聞録 其之七
※各写真クリックで拡大表示(詳しくはこちら


□宮城県気仙沼市(平成二十三年十月二十九日訪問)

 南三陸町から国道45号を通って宮城県北東の端、気仙沼市へ向かったが、その途上には破壊された家屋がそのままであったり、目を覆うような光景が続く場所が多かった。
 津波の高さは本当に相当なものであったようで、少しばかり海から離れて丘のようになっている場所でも、容赦なく飲み込んだ様子がうかがえた。


 辛うじて明るいうちにたどり着いた、気仙沼北部の景勝地、唐桑半島の巨釜(おがま)。
 先に書いた北山崎同様、断崖絶壁などの自然の造形美は、津波でも変わる事はないようだが、上の写真の「折石」は、明治の三陸大津波で先端が欠けたらしい。
 今回の大津波でどうだったのかは不明だが、見たところ影響はないように見える。明治の津波で脆弱な部分が吹き飛んでしまったので、今回の津波では特に損傷を受けなかったのだろうか。

気仙沼の市街に着いたのは夜だったが、ここは夜でもはっきりと分かる程、被害が凄まじい。
気仙沼は三陸では指折りの都会であり、港の周辺には数階建てのビルもいくつか建っているのだが、津波の直撃を受け、ゴーストタウンと化している。電気が通じていないため、街頭も信号も灯らない。
ただし、自動車はそれなりに通る。上の写真の光は、そのヘッドライトによるもの。よく見ると、写真の中央やや右に、光の灯っていない、壊れた信号機が写っている。写真をクリックして拡大すれば、よく分かるだろう。

気仙沼は、他の多くの津波被災地と違って、津波で破壊された家屋が整地されずに、そのままの姿を晒し続けている。
おそらく、津波の直撃を受けた場所が市街地で、木造の家屋が少なく、建物自体は残っているせいだろうが、さりとて住める状態でも仕事が出来る状態でもないところが多く、そのままになっているのだろう。
この写真の、家の前や内部の瓦礫がそのままになっている建物も、何らかの商店らしかった。

 ただ、その右隣の商店は、明かりが点いていて、屋内もかなり整っているように見受けられたので、営業を再開しているのかもしれない。
 ゴーストタウンと化した気仙沼の通りの中にも、営業を再開しているらしいスナックがあった。
 他、ギリギリ被災を免れたか、比較的軽微であったであろうスナックやバーなど、水商売の店が何軒か営業していた。店に勤める女性の姿も何人か多数見受けられた。復旧作業関係者などの需要があるのだろうか。何であれ、少しでも被災地の経済が回るのは良い事だろう。


 何と言っても、気仙沼は、津波で押し流されてきた船が、こんな風に市街地に転がったままの場所なのだ 十月の時点で、お世辞にも復興が進んでいるとは言えない。漁船が街中に転がっているのは、自分が見ただけでも三ヶ所はあった。


 このような大型漁船、あるいは貨物船のような巨艦が、家を押しつぶしたままの場所もある。暗くて分かりにくいが、電柱や車と比較すれば、その大きさが分かるだろう。写真をクリックして拡大すれば、よく分かると思う。
これは鹿折唐桑駅の駅前付近にあたるようだが、最早街の面影は皆無である。
 なお、この船は津波のメモリアルとして保存しようという声もあるらしいが、反対の声も強いらしい。下の家は押しつぶされたままだし、ゴーストタウン以外のなにものでもない現状では、反対の声も当然だろう。さりとて、撤去も簡単ではないというのが現実なのだろうが。



 このような言語を絶する凄まじい状態にある気仙沼の沿岸市街地だが、驚いたことに「お魚いちば」という観光施設は営業していた。ここには土産物屋とレストランがある。
 そして、そのすぐ背後に断崖があって、その上には津波被害を受けずに済んだ「気仙沼プラザホテル」が建っている。「お魚いちば」は同ホテルと同一の経営のようだ。「お魚いちば」の駐車場とホテルは、エレベータでつながっている。

 「お魚いちば」のレストランが、地元客の宴会か何かで満員だったので、ホテルのレストラン(和食処)で夕食を食べた。寿司、海鮮丼、ふかひれラーメンやふかひれ茶碗蒸しなど、気仙沼の名物は一通り揃っている。壊滅的な被害を受けた気仙沼市街にあって、貴重な存在だ。温泉に日帰り入浴する事も出来る。
 また、客室は被災者や復興作業関係者に供されているが、多少は一般客が宿泊する余地もあって、予約も受け付けている。

 夜に着いて、意外な土産物と土地の名物に出会えたという事もあるが、真っ暗なゴーストタウンと化した気仙沼市街の中で、力強く光を放つその姿は、復興のシンボルのように思えた。


□岩手県陸前高田市(平成二十三年十月二十九日訪問)

 気仙沼と県境を挟んで岩手県南東に位置する陸前高田市。
 ここに着いたのも夜、というか元々通過するだけの予定だったので、写真は撮っていないが、沿岸にある道の駅があった場所に降り立ってみたところ、道の駅の建物のらしきものの他は、ひたすら荒野という感じだった。
 この道の駅の裏に、名所・高田松原があるらしいが、暗い事もあってさっぱり分からなかった。車で近づいてみようと思ったが、立入禁止ばかりで一歩も踏み込めなかった。高田松原津波で壊滅的な被害を受けたとのことなので、 人が入れるような状況ではないのだろう。

 なお、津波で倒壊したこの松原の木を、京都の大文字焼きの薪として使う案が、京都の寺院側から持ちかけられてたようだが、原発の放射能が飛散するという市民の反対が寄せられ、中止になった。
 震災・原発の被災地より遠く隔たった京都としては、無理からぬ事とも思うが、しかし陸前高田というのは原発からかなり遠く、原発からの距離で言えば首都圏と同じであって、首都圏からの人や物の流入の激しい京都が言う事としては、今更何を、というのが東京に住む自分の実感だ。
おそらく、反対意見を寄せた人達は、陸前高田という場所が、福島第一原発から、直線距離で約184km離れた場所だと知らないのだろう。千葉県香取市(約176km)より遠いし、埼玉県幸手市(約189km)ともあまり変わらない。幸手といえば、東京の通勤圏である。

 一方、千葉の成田山新勝寺では、反対意見は寄せられたものの、高田松原の木でお焚き上げが行われたそうだ。千葉県成田市は福島第一原発より約193km。わずかばかりの木材よりも、自らの足元を心配すべき土地である。実際、現状分かっているデータでは、陸前高田より成田の汚染度の方が高い。


□岩手県大船渡市(平成二十三年十月二十九日訪問)

 陸前高田の北に隣接する大船渡市。陸前高田同様、夜に着いたし、元々通過する予定しかなかったので写真はない。
 大船渡市街の中心の一つである、JR東日本と三陸鉄道の盛駅は、駅構内に津波が来たらしいが、駅舎そのものは無事なようで、駅前のロータリーにはタクシーも何台か客待ちしていた。鉄道自体はJRも三陸鉄道も運行を休止しているが、代行バスが停車するのだろう。

 一方、盛の隣駅、大船渡市街もう一つの中心・大船渡駅は、津波の直撃を受け、駅舎そのものがなくなってしまっていた。駅前の被害も甚大で、いくつかのビルは残存しているが、気仙沼と同じくゴーストタウンと化してしまっている。電気も通じていないので真っ暗だ。盛とは対照的である。

なお、岩手銘菓として近年人気のある「かもめの玉子」は、ここ大船渡市の「さいとう製菓」が製造している。 同社は大船渡駅近くに本社があり、津波の直撃を受けた。
ただ、主力工場は被害を免れたため、翌月には生産を再開し、今も岩手県内はもちろん、東北各地や、東京へも出荷している。秋の県内限定品、栗あんのかもめの玉子も発売されていた。

かもめの玉子は大船渡の企業が生産しているもので、現地の雇用と直結している。これを買う事は、良い復興の手助けになるだろう。


津波被災地見聞録 其之八へ 津波被災地見聞録の入口へ戻る 道先案内へ戻る