2nd.DAY-2nd. 2004/12/30 クノッソス宮殿


 劇場跡よりクノッソス宮殿を望む

 おおおっ! これがクノッソス宮殿か!! なかなかデッカイじゃないの!
 さて、クノッソス宮殿というのはかなりメジャーな遺跡なんだが、それでも歴史好きでないと知らない場合も多いと思うので、このへんで簡単に説明しとこう。
 多分、よほどのお年寄りでなければ、ミノタウロス、という単語は聞いたことがあるだろう。ギリシア神話に出てくる、両刃の斧を手にする牛の頭を持った人間、という怪物。神話ではミノタウロスは迷宮に閉じ込められているのだが、その迷宮というのがこのクノッソス宮殿なのだ。そして英語で迷宮のことをラビリンスというが、それは元々ミノタウロスを閉じ込めた迷宮のことを言うのである。つまり、こここそ元祖迷宮、ラビリンスなのである。

 神話では、その昔クレタ島を治めていたミノス王が、海神ポセイドンから一頭の牡牛を送られて、これを生贄にすればさらに栄えると言われたのだが、立派な牛だったので捧げずに生かしておいた。そのためポセイドンは怒り、ミノス王の妻パシパエを狂わせて牛と交わらせた。その結果ミノタウロスが生まれたのだった。王はミノタウロスを閉じ込めるために名工ダイダロス(パシパエに頼まれて、牛の形のハリボテ(パシパエが中に入って牡牛を誘った)を作ったのもダイダロス)に命じて迷宮を作らせた。ダイダロスは秘密保持のため息子のイカロスとともに迷宮に幽閉されたが、身に着ける空飛ぶ翼を作って脱出した(途中で息子のイカロスは太陽に近づきすぎたため、翼を接合していたロウが融けて翼が分解してしまい、海に落ちて死んだ)。
 さてミノス王はアテネに対し9年に一度それぞれ七人ずつの少年少女をミノタウロスの生贄として要求した。アテネはこれに従っていたが、あるときアテネの王子テセウスがこの生贄に志願した。やって来たテセウスを見たミノス王の娘・アリアドネはテセウスに恋し、自分をアテネに連れ帰って結婚することを条件に助けを申し出た。それを了解したテセウスに、アリアドネは糸玉を渡し、その糸を垂らしながら迷宮を進めば、糸をたどって戻って来れる、と教えた。テセウスは言われたとおりしてミノタウロスを退治し、無事迷宮を出て、アリアドネを連れてクレタ島を離れた。しかしテセウスは、理由は諸説あるが、とにかくアテネに帰る途中のナクソス島に彼女を置き去りしてしまった。テセウスはアテネに帰って王となり、アリアドネはその後酒の神ディオニュソス(バッカス)と結婚した。

 以上がミノタウロスを巡る神話の概要。ちなみにミノス王は大神ゼウスの血を引き、世俗の王であるとともに大神官でもあった。その聖俗二重の権力の象徴が王家の家紋でもある両刃の斧(ラブリュス)であり、そこに住む王の住居は両刃の斧の家、即ちラビュリントスと呼ばれた。それが迷宮の代名詞となり、英語ではこれをラビリンスと発音する。ちなみにこの神話だけ聞くと何だかミノス王は悪者のようだが、彼は公正な裁きで名高かったとされており、死後は冥界の神ハデスの下で、弟のラダマンテュスとともに死者の裁きを司ったという。
 こうした話も長い年月の間に完全に神話上の作り話だと思われるようになっていたが、20世紀初頭にアーサー・エヴァンズが発掘して神話が歴史的事実の反映であったことを証明した。実際にはこの遺跡はギリシアの都市国家が繁栄した紀元前5世紀よりもはるかに古い紀元前17世紀(宮殿の基礎ができたのはは紀元前20世紀にまで遡る)のもので、人種もいわゆる古代ギリシアを興したインド=ヨーロッパ語系ではなく、アジア系の民族ではないかと言われている。クノッソスのような宮殿はクレタ島で何箇所か見つかっており、エーゲ海のサントリーニ島でも同時期に繁栄した街の遺跡が見つかっている(ここは古代の噴火で滅びており、それがアトランティス伝説の原型ではないかと言われている。アトランティス伝説はもともと古代ギリシアの哲学者プラトンの書に書かれたもの)。クレタ島のこうした文明を、ミノス王の名を取ってミノア文明、またはサントリーニ島など同時期のエーゲ海の文明をも包括してエーゲ文明という。この宮殿はそんな途方もない昔の遺跡なのだ。現在見ることが出来るのは主に新宮殿時代と呼ばれる時代のものだが、それでも紀元前1700年、今から3700年前も昔の遺跡なのである。
 なお、発掘調査からこの宮殿では牡牛や両刃の斧を神聖視したことが分かっている。また、ミノア文明が繁栄した時代には文明の中心はエーゲ海南方であり、アテネは辺境の地でしかなかった。文字も持っていたので法律もそれなりに整備されいて、時代の割には公正な社会であった可能性もある。こうしたことが後世神話に反映されたのがミノタウロスの伝説ではないかといわれている。

 さて、このへんまで書くとピンと来る人もいるかもしれないが、なぜ、私がギリシアに着いて最初にここを目指したか。もちろん天候次第でどうなるか分からない島への渡航を先にする、ということもあるが、ここに来ることが「邪神」の地巡礼でもあるからだ。かつて神聖視、下手をすれば神と同一視されていたかもしれないミノア文明の牡牛。しかし時代が下り、クレタ島も後の「ギリシア人」に征服され、クレタ島自体もアテネに従属的な立場を取るようになったとき、アテネから見て古代の辺境の異民族の、しかし強大であった文明の神に近きその牡牛は、化物に成り下がった。「神」が「邪神」に零落したのだ。ミノタウロスとは古き邪神であり、より古き神なのだ。牛頭人身というフォルムも、いかにも邪神らしい(これはミノアの祭儀で牡牛の被り物をしたことの反映だといわれる)。最初にここを訪れたのは、最もポピュラーな邪神ゆかりの地を、世界邪神礼拝の第一歩とせんがためである。

 などという思いを抱きつつ、クノッソス宮殿に入った。これまで日本の古代遺跡は数々見てきたけれど、世界レベルの、しっかりと形の残った、大規模な、紀元前の遺跡というものは、初めて見る。やはりスケールが違う。
 まずは左から、宮殿の外郭を一周してみた。かなりデカイ。日本の中規模クラスの城郭くらいの大きさはある。足場が悪く、起伏もあるので、ゆっくり一周すると30分はかかる。途中すれ違った観光客は10人にも満たない。しかも、全て西洋人。
 一周して大きさを把握したところで、順路に従って、南の入口から宮殿内に入っていく。クノッソス宮殿は中央の中庭を挟んで、西翼と東翼に分かれる。南の入口から入っていくと、西翼に出る。西翼は主に神殿や食料などの貯蔵庫、東翼は主に王宮や居住区として使われた。

行列の回廊。ここは珍しく白い柱だが、よく見られる赤い柱を含め、宮殿の柱は木製。宮殿の柱の下に向かって細くなっていく形状や、独特の深い朱色は、クノッソス独自の様式。
南の入口の下方にある「聖職者の家」。    

 南の入口の下方には、宮殿の多層構造が見て取れる「聖職者の家」がある。そして入口から入ってすぐの場所にあるのが「行列の回廊」。ここには供物などを運ぶ人々の行列の壁画が描かれていたため、こう呼ばれる。クノッソス宮殿はこうした古代史上類を見ない多彩な壁画で有名なのだが、宮殿にあるのはレプリカであり、現物はイラクリオの考古学博物館にある。ちなみにここをバックに道行く西洋人夫婦に写真を撮ってもらったが、写っていなかった。我がカメラはオートフォーカスのため、往々にそういうことがある。

「行列の回廊」の壁画。 ミノアのシンボル、牛の角のモニュメント。

行列の回廊にある大瓶。宮殿内ではこうした大瓶が数多く置かれている。 食料貯蔵庫。

 行列の回廊を少し進むと、左側が一階層分低くなっていて、細かく仕切られているエリアが見渡せる。ここは食料貯蔵庫で、所々大瓶も置かれている。当時のクレタ人はこうした大瓶にオリーブやオリーブ油等を入れて貯蔵した。
 行列の回廊の左手に、建物が復元されて、壁画が掲げられている場所がある。そこにあるのが「ユリの王子の壁画」。

「ユリの王子の壁画」のある建物。
    「ユリの王子の壁画」。かなり大きな壁画で、王子の大きさは等身大かそれ以上。王子の足元にやや抽象化されたユリが描かれている。

 食料貯蔵庫を過ぎると、右に折れて降りていく階段がある。ここを降りると中庭で、階段を降りきったすぐ左手に、「玉座の間」がある。


 「玉座の間」。壁にはグリフィンが描かれている。ここは世界で最初に裁判が行われた場所(真偽のほどは不明だが、ミノス王が公正な裁判官であったという神話に基づいているのだろう)と言われ、オランダ・ハーグの国際司法裁判所の裁判長の椅子はこの玉座を模っているそうだ。

 「玉座の間」の手前には、似たような造りの質素な部屋があって、そこから直接は入れない「玉座の間」を眺める。これ、昔歴史の資料集で見たなあ。この壁画は後に出てくる「女王の間」のものと並んで、この宮殿で最も有名な壁画なのでそれも当然であろう。

「玉座の間」の玉座の向かい側。ここでは柱は黒く塗られている。 中庭から「玉座の間」を望む。

 「玉座の間」から中庭に出てみると……おや! 玉座の間の上の階に人がいるじゃあないか! こいつは登り口を探って登ってみねば!!

「玉座の間」上階入口 「玉座の間」上階内部。柱の向こうは下階まで吹き抜けになっている。

「雄牛跳び」のフレスコ壁画。 海藻?

フレスコ壁画「青の婦人たち」。 「玉座の間」上階から北方を望む。中央遠方にエーゲ海が。

 「玉座の間」上階には、宮殿内で発見された壁画の複製が数多く展示されている。その中でも特に有名ないのが「雄牛跳び」と「青の婦人たち」のフレスコ壁画。「雄牛跳び」はミノア文明で行われた雄牛にまつわる聖なる儀式を描いたもので、一種の闘牛のようなものだが、現代の闘牛と違って雄牛を崇拝する神聖な儀式だったという。「青の婦人たち」は印象派を思わせるような原色の青が鮮烈。
 壁画を鑑賞し、バルコニーへ。オリーブ系?の準乾燥帯らしい低木が生い茂る丘陵が見渡す限り広がっている。遠くにエーゲ海も見える。バルコニーでは、サリーらしき服を纏ったインド系の女性がバルコニーの縁に座ってたたずんでいた。何だか不思議な気分。ここはどこ、あなたは誰……。

 玉座の間の上階から降りて、再び中庭へ。中庭は結構広く、小さな学校のグランドくらいの広さがある。その中庭を横切って、今度は東翼へと歩を進めた。

中庭から北の入口を望む場所で若い西洋人女性に写真撮影を依頼。 中庭から東翼を望む。

こちらも中庭から東翼を望む。このあたりは宮殿内でも最も保存状態が良好で、人の手もあまり入っていない一画。空中で途切れた階段がいかにも遺跡らしい。個人的にはここからの眺めが宮殿内で一番素晴らしく思えた。3階建て(中庭と同じ高さを1階とするので地階も存在する)の西翼に対し、こちらは5階建てだったという。写真の左端あたりには「大階段」と呼ばれる階段があって、地階まで続いており、そこには地階まで光を採り入れる巧みな採光システムや、巨大な盾が描かれたフレスコ画を目にすることができるらしい。らしい、というのは、このときは修復工事中か何かで中に入れなかったからだ。まあ、オフシーズンではさもあろう。気を取り直して東翼へと降りていく。

 中庭から東翼へ、それこそ迷路のように曲がりくねって降りてくると、「王の間」がある。

中庭から東翼へ降りてきたところ。中央に空中で途切れた階段が見える。右やや下の黒い列柱は「王の間」。
    「王の間」。ここも改修工事中で入れなかった。

 「王の間」の向かって左隣には、「女王の間」がある。ここには、クノッソスで最も有名な壁画の一つ、イルカの壁画がある。また、写真には上手く収められなかったが、女王の間のさらに左隣には「女王の浴室」があって、浴槽も置かれている。

「女王の間」のイルカの壁画。これも昔、歴史の資料集で見た覚えがある。それだけポピュラーな壁画なのだが、何とも和やかな壁画でないか。古代の専制国家のイメージとは程遠い、民衆的な印象さえ受ける絵画だ。イルカや魚の向きも左右バラバラで、自由な雰囲気がある。またイルカの向きだけ取れば、円環を描いているようにも見える。ミノア文明のほかの絵画でもそうだが、こうした動物のデザインは日本の縄文時代の遺物を思わせる。しかしその写実性や鮮烈な色使いは、縄文時代のような土俗性や呪術性とは一線を画した洗練された優美なものを感じさせる。こんな壁画を毎日目にして暮らしていた女王とは、どんな人物だったのか。

 こうした和やかな絵画や、城壁を持たない宮殿、武器の出土量の少なさなどから、ミノア文明は平和な文明だったと考えられている。それは同時代のメソポタミアのごとき専制国家とは違った、縄文時代のような新石器時代から、そのまま延長されてきた都市文明だったのだろうか。壁画の小さな魚のように、民衆にはそれぞれ好き好きに産業に励ませて、全体としてはイルカのように大きな者が社会を導いていく。一見バラバラのようでいて、ゆるやかな規則性のもとに、ゆったりと円環を描いて循環していくというような、原始的な一種の自由経済社会。それがミノア文明の理想だったのだろうか。これだけの建築物を構築するからには、かなり高度に組織化された社会ではあったとは思われるのだが……。いずれにせよ、こんな和やかな絵画を自らの住居や執政の間に飾る権力者は、現代でも稀であろう。色々な想像を膨らませてくれる、何とも不思議な壁画である。

 さて、古代妄想から復帰し、さらに歩を進めて行こう。

「王の間」からさらに下に降りてきたところ。 このあたりも遺跡的雰囲気が濃厚。

「王の間」の真下あたりの外壁。 「巨大瓶の倉庫」にある巨大瓶。

 「王の間」からさらに降りてくると、宮殿の東端に出る。そこから外壁伝いに進むと、また階段が現れて、複雑に曲がりくねりながら登って行く。途中、身の丈ほどもある巨大な瓶が置いてある倉庫や、一種のチェス盤が発見された場所などを過ぎて、「王の間」の背後に回り込む形となる。このあたりには石工や陶工の作業場や、各種倉庫があった。また、給水管や排水溝など、給水・下水・雨水排水設備といった高度な都市水利システムの跡も見つかっている。

「チェスの通路」あたりから北の入口を望む。
「円形浮彫のある大瓶の倉庫」。    

東翼を一周して、三度中庭へ。 宮殿北端より。手前の多くの短い柱があるあたりが「税関」、中央やや左の一際高い建物が北の入口の見張り場、その右下の建物が「水祓の間」。

 東翼を一周してまた中庭に戻って来た。これで一通り宮殿を見回ったと言っていいだろう。中庭から北の入口へと降りていく。この北の入口も、宮殿のハイライトの一つだ。


 北の入口の上に建てられた見張り場。赤い列柱の向こうに雄牛の壁画が見える。

北東方向から見た北の入口。 入口の西脇から見た見張り場。

見張り場真下の通路に描かれたポセイドンの象徴たる三叉の矛(だと外国人ツアーのガイドが英語で説明していた)。後世(といっても古代には違いないだろうが)のものだろうか?
入口より見張り場を見上げる。    

 この北の入口の見所は、もちろん高く築かれた見張り場である。そこには雄牛を神聖視していたことの一つの証明である、巨大な雄牛のレリーフがある。この北の入口も、よく旅行のパンフやガイドブックの紹介写真に使われる、宮殿の代名詞といってもいいほど有名な場所だ。見張り場は高く大きくて目立つし、高く狭く垂直な入口の通路の壁の上に、そのまま壁の延長線上に高く垂直に見張り場が建っていて、そびえ立っているように見えるからだろう。宮殿内で最も荘重な印象を与える場所で、いかにも「古代の宮殿」的なイメージと合致するからだとも言える。
 しかしその一方で、最も作り物っぽく、安っぽい印象を受ける場所でもある。それは宮殿内でもかなり目立つこの大きな建造物が、ほとんど近年の粗雑な復元によるものだからだろう。この場所に限らず、宮殿内のあちこちにこうした「いかにも最近作った」という印象を受ける場所がある。それは実際にそうだからだ。もっとも、一般に公開されているようなもので、何の復元も受けていない古代遺跡というものは世界中でも稀である。。ましてクノッソス宮殿のような、最古の文明の類のものであれば。しかし、ここまで「いかにも最近作った」ように見えてしまう遺跡もまた稀だ。その理由は、当然復元方法に問題があるからである。
 この遺跡は、古代遺跡に中ではかなり早期に発見されたものの一つである。この遺跡は20世紀の初頭に、入口に像が立っているエヴァンズによって発見された。それはほぼ同時代のシュリーマンによるトロイ、ミケーネの遺跡に並ぶ大発見だった訳だが……その時代には、考古学という学問がまだしっかりと確立されていなかった。これらの発見の結果、確立されていったのだから。考古学が確立途上にあったということは、復元自体も確立途上にあったということである。さらに、当時はギリシアの独立や近代オリンピックの開始など、古代ギリシアが世界、特に欧米列強からの脚光を浴びる中で、欧米列強の「ルーツである古代」へのロマンをギリシアに押し付けている時代でもあった。そうした流れの中、多分に学問以上にロマンを重視するようなところが、エヴァンズにもあった。考古学の未確立とロマン重視という時代の中で、誤りのある復元方法が取られてしまったのは、仕方のないことだったろう。そこに存在する遺物以外は使用しないとか、建造当時と出来得る限り同じ建材を使うとかいったような発想が当時どの程度浸透していたか怪しい限りであるし、仮にそうした発想があったとしてもそれに国家的規模の多大な費用を掛けるということは、これから第一次・第二次大戦を迎える世の中で受け入れられるはずがないし、そもそもそんな思考に至った人間がいたかどうかも疑わしい。「遺跡は人類の遺産である」ということに、ようやく気付き始めたばかりの段階だったのだから。そうした時代の中で、むしろ強引にでも復元しようという意志を持ったこと自体、驚嘆すべきことなのかもしれないのだ。
 しかし、そうはいっても誤りは誤りである。強引な復元のせいで、本来あるべき景観が損なわれただけでなく、貴重な遺産が破壊されてしまったところもあるだろう。コンクリートを使った箇所もあるというから、何も知らずにやって来た観光客でも、まず違和感を覚えないということはないはずだ。だからこれだけ有名で古代史上でも重要な遺跡であるにも関わらず、未だに世界遺産にも登録されないし、「世界三大ガッカリ」と揶揄さえされてしまうのである。
 しかし、そういった事情を加味しても、十分に見ごたえのある素晴らしい遺跡だし、そういった事情をも包括して見るべき遺跡なのだと私は思う。この遺跡にははるか太古の貴重な文化遺産という側面のほかに、その太古への一種狂的な近代ヨーロッパの幻想が込められているという側面、さらには「遺跡=人類の遺産」という認識をさせてくれる考古学というものが確立されるための偉大な礎であり記念碑であるという側面があって、それらを全て包括した上で見るべき遺跡なのだと思うのだ。
 蛇足を承知でごく個人的な観点からさらにさらに言うと、一種の狂的幻想、発展ための礎あるいは犠牲という側面は、まさしく「邪神の宮殿」にふさわしいダークサイドとも取れる。ここはやはり私の「世界邪神礼拝」の第一歩にふさわしい、まず第一に訪れるべき場所であったと、心より思うのである。

 さて、話が脱線してしまったが、そろそろ宮殿ともお別れである。北の入口から西へ、再び遺跡の入口へと戻ってゆかねばならない。

北西の入口。北の入口のすぐ裏側に当たり、メインゲートである北の入口に対して儀式の際の入口であったといわれる。 北西の入口にある「水祓の間」。宮殿内の礼拝所への参拝や儀式に参加する人々の清めの場であったという。

 遺跡の入口まで戻って来て、このあたりに見落としているものがあるのに気がついた。

石の祭壇(中央手前)。
    エヴァンズ像の向かいあたりにある大きな円形の竪穴「クルーレス」。儀式で使われ粉々になった土器を置くための場所で、家屋の遺物も発見されているという。

 最後に、「劇場」から宮殿全体を眺め(このページの最初の写真)、感慨にふけった。

「劇場」を見下ろす
    「劇場」から真っ直ぐに続く「王の道」。クノッソスへの入口であり、出口でもあった。

 ここに、クノッソス巡礼は終わった。

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