6th.DAY-1st. 2005/1/3 オリンピアン・ゼウス神殿とパナティナイコ・スタジアム(アテネ市街)

 午前8時前に起床。起きてまずしたことは、朝食を摂ること……ではなく、撮影であった。アクロポリスとオリンピアン・ゼウス神殿を望むホテルの屋上に出て、撮影を開始。


これがっ!昨晩買った古代ギリシアドールだっっ!!右の赤い服をまとっているのが大神ゼウス、左の青い服が海神ポセイドン。バックはオリンピアン・ゼウス神殿。

ゼウスドールは、左手に雷電、左手に王笏を持っていて、なかなか神話に忠実。王笏は天を支えるアトラスをデザインしたものだろうか。 こちらはアクロポリスをバックに撮影。

こちらはポセイドンドール。右手にはちゃんと三叉の鉾を持っている。左手には綱のようなものを持っているが、そういう記述のある神話があるのだろう。設定が細かくて、なかなか侮れない。

 あれこれ撮影していたら、30分くらい経ってしまった。屋上の手すりの上に乗っけての撮影なので、落ちないよう気を使わなければならず、苦労した。海外まで来て朝から何やってんだか……(苦笑)。
 この後朝食を摂り、9時半頃にホテルをチェックアウトした。いよいよ今日でギリシアともお別れ。飛行機の離陸時間は昼過ぎなので、あと少しアテネ観光をすることにした。まずはホテルの目の前にあるオリンピアン・ゼウス神殿の見学だ。

 ゼウス神殿は、上の写真でも分かるようにアセンズ・ゲート・ホテルの向いだが、入口はアセンズ・ゲート・ホテルの前のアマリアス大通りと垂直に交わる、ヴァシリス・オルガス通り沿いにあるので、何百mも回り込まなくてはならない。まあ、これまで歩き回っていた距離に比べれば大した事はないのだが、大理石と石膏の入ったカバンが……。

ゼウス神殿に行く途中、もう一度ハドリアヌス門を眺めた。この写真は、隣接するゼウス神殿側から、アクロポリス方向を見たもの。アーチの中に、アクロポリスが見える。

ゼウス神殿の入口に着き、入場料を支払う。今日はもう無料開放日ではない。しかしその分、パンフレットをもらうことが出来た。ゼウス神殿のみの入場料は2ユーロ。左の写真はゼウス神殿の入場券。

ゼウス神殿のパンフレット(表)。さすがにしっかり作り込まれている。 ゼウス神殿のパンフレット(裏)。さすがにしっかりと解説されている。他の施設でもこれがあればもっと理解が深まったのだが……無料だったので仕方がない。

 そして、いよいよゼウス神殿にッ……!!


これがオリンピアン・ゼウス神殿。目の前に立つと、その威容に圧倒される。何しろこの神殿はギリシア最大の神殿なのだ。もちろんパルテノンよりも巨大である。かつてはコリント式の柱が104本も並んでいたが、現在は東南に13本、西南に3本(うち1本は倒壊)の、計16本が残るのみ。上の写真の東南の柱と西南の柱の間から、アクロポリスとパルテノン神殿が見える。
この神殿の下にはB.C.590年〜B.C.560年のドーリス式の神殿が見つかっており、元々別の神殿があったようだ。B.C.520年頃、僭主ペイシストラトス(?〜B.C.527年)によって、元の神殿の倍の大きさを持つこの神殿の建造が始められた。以後、何度も工事が中断されたが、ヘレニズム時代にはかなりの部分が出来上がった。最終的に完成させたのはハドリアヌス帝で、A.D.131年のこと。建造開始から完成まで実に約650年かかった訳だ。
ハドリアヌス帝は、この神殿に、オリンピア(古代オリンピックが開かれた場所)のゼウス神殿にあった金と象牙のゼウス像を模したものを安置した。それゆえにこの神殿は「オリンピアン・ゼウス神殿」と呼ばれる。

神殿の全体像。幅43.68m、奥行き110.3m、柱の高さ17.25m(ファザードの高さは27.4m程だったと言われる)。神殿の前後には8本の柱が3列、側面には20本の柱が2列並び、中央の柱のない空間にはゼウス像が安置されていた。

最も保存状態の良い東南の角。13本の柱が残る。

同じく東南の角。右の写真の左下に人が写っているが、その比較で神殿の大きさが分かるだろう。

西側から東方向を望む。

神殿西南。立ったまま残っている2本の柱の間に、倒壊したままの柱が1本ある。これは1852年の嵐で倒れたもの。左の写真にはアクロポリスが、右の写真にはアセンズ・ゲート・ホテル(真ん中に写っている柱の右、高さが柱の3分の2ほどの割と大きな建物)が写っている。

同じく西南。柱1本だけ見てもかなり巨大なものである。柱の影も半端な大きさではない。

東南の角の上部拡大。

柱頭部分の拡大。コリント式の緻密な装飾がよく分かる。左は西南の柱、右は東南の柱。

左右どちらの写真も倒壊した柱の一部。一部分でもかなりの大きさだ。

 入場料を支払って入るゼウス神殿の敷地内には、他にもいくつかの遺跡がある。

政治家・軍人であったテミストクレス(B.C.524年から520年頃〜B.C.459年から455年頃。サラミスの海戦でギリシア軍を率いてペルシア軍を撃退した名将)が築いた壁の入口の跡。B.C.479年〜B.C.478年の建造。

これらは全て帝政ローマ時代の公衆浴場の跡。ハドリアヌス門とともに、A.D.124年〜A.D.132年に造られ、7世紀まで使われたらしい。位置的にも、ハドリアヌス門に近い。ハドリアヌス帝はギリシア文化に傾倒し、アテネに様々な建造物を築いたようだが、これまで見てきたハドリアヌス門、ハドリアヌスの図書館、ゼウス神殿、そしてこの浴場と、今もアテネの見所として数多く残っているものを見ても、その様子がよく分かる。

 オリンピアン・ゼウス神殿を見終わったところで午前10時半。まだ多少時間に余裕がある。最後に隣にある第一回近代オリンピックの会場、パナティナイコ・スタジアムを見ることにした。
 しかし、隣といっても結構な距離がある。そもそもオリンピアン・ゼウス神殿の敷地自体がかなりのものなので当然だ。それでも500mはないはずなのだが……たどり着くのに随分歩いた記憶があるのは、背中の大理石と石膏のせいだろうか。写真の撮影時間によると、実際に歩いた時間は10分弱なのだが、30分は歩いたような気がした。


パナティナイコ・スタジアム。1896年、ここで第一回近代オリンピックが開かれた。1895年、破壊されてしまった古代のパナティナイコ・スタジアムを復元して造られた。古代のパナティナイコ・スタジアムは、B.C.330年頃、「パンアテナ祭」(「パナティナイコ」とは「パンアテナの」という意味)の競技場として、政治家・弁論家のリュクルゴス(B.C.390年〜B.C.324年。ディオニュソス劇場の再建も彼が指揮した)によって建てられた。「パン・アテナ祭」とは、当時のアテネで最も重要だった宗教行事で、アテネの守護神アテナを讃えるための祭り。4年に1度の大祭では行列や競技、聖衣の奉納などがあったという。ここはその大祭で行われる競技のための競技場だった訳だ。

パナティナイコ・スタジアムは、幅83m、奥行き204mで、最大6万人の観客を収容できる。建材は大理石。2004年のアテネ・オリンピックでは、マラソン競技のゴールとして使われ、女子マラソンでは日本の野口みずきが金メダルを獲得した。

パナティナイコ・スタジアム前の広場にある、ゲオルギオン・アヴェロフの像。アレキサンドリアの富豪で、彼の援助によってパナティナイコ・スタジアムが復元された。 同じく広場にある円盤投げの像。台座には「アテネ人 オディモス・エスティセン 1927年」と書いてある。オディモス・エスティセンは人名だと思うが、円盤投げの選手だろうか?それとも像の彫刻家か?

 ここで時計を見ると、午前11時前。そろそろ空港に向かわなければならない。あまり時間もないし、荷物も重いので、流しのタクシーをつかまえてシンタグマ広場へ向かった。シンタグマ広場までは約1キロで6ユーロほど。アテネのタクシーに乗るとよくボラれるとのことだったが、東京の初乗り運賃程度なのでそんな気はしない(もっと安いのかもしれんが)。
 シンタグマ駅の改札を通りホームに出ると、運良くすぐに空港行きの列車が来た。座席もそこそこ空いている。座席に座ったとき、向かいの座席のオッサンの携帯電話が鳴った。
「ネ、ネ」
 オッサンは携帯を取るなり「ネ」を連呼する。実はギリシア語で「ネ(ναι)」は英語の「yes」に当たる言葉で、オッサンは電話に出て「yes,yes」と答えていた訳である。
 シンタグマの次のエヴァンゲリスモス駅で、真っ黒な法衣をまとい、真っ黒の大きな帽子をかぶって、銀色の髭を長く生やした、初老の正教会の神父が乗り込んできた。神父は私の隣の席を指差して、
「パラカロー?」
 と聞いて来る。既に書いたと思うが「パラカロー」はギリシアで頻繁に使われる言葉で、英語の「プリーズ」に当たる言葉だが、「もしもし」とか「どういたしまして」とか色々な意味で使われる。ここでは「この席空いてますか?」という意味だ。
「ネ」
 と答えて席を詰めた。ギリシア語で話し掛けられた二度目の経験(一度目はイラクリオのラト・ホテルで、これから考古学博物館に出掛けようというときに、掃除のお姉さんに「ヤ サス(こんにちは)」と挨拶された)であった。正教会の神父を見ることもできて、ちょっと感動。先方は知る由もないが、アテネの地下鉄で正教会の神父と日本の元神職が隣同士で座るという偶然が発生していた事になる。神父と携帯で話していたオッサンは、何駅かで降りていった。

 ドゥキシス・プラケンティアス駅も過ぎ、地上の乗り入れ区間に入る頃には、車内もガラガラに。11:40分頃、エレフテリオス・ヴェニゼロス空港着。飛行機は12:15発で、結構ギリギリだったが、空港はそれほど混雑しておらず、搭乗手続きも荷物検査もスムースに終わった。
 はじめの方で書いたように、日本とギリシアの間には直行便がない。その為、往きはフランクフルトで乗り継ぎとなった。帰りは、チケット購入の都合で、ミラノ経由だ。航空会社はアリタリア航空。イタリアの航空会社だ。順調に搭乗する。機内は結構混雑していた。若いアテンダントのお兄さんが親切にも自分のカバンを座席上の収納箱に入れてくれたが、
「ン、ンーンーッ!」
 と眉間に皺を寄せて唸っていた。何しろ大理石と石膏が入ったカバンだからなあ。すまんねお兄さん。
 飛行機は問題もなく、ほぼ時間通りに離陸。見る見るうちに大地が小さくなっていき、すぐにアッティカ半島全体が分かるような大きさになった。機はギリシアを離れ、アドリア海を渡りイタリアへと向かう。さらば、ギリシア。忘れ得ぬ美しき国よ、またやって来る日まで。

 ギリシア旅行自体は、ここで終わり。次は、北イタリアの中心都市、ミラノだ。

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