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ゼウスドールは、左手に雷電、左手に王笏を持っていて、なかなか神話に忠実。王笏は天を支えるアトラスをデザインしたものだろうか。 | こちらはアクロポリスをバックに撮影。 |
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ゼウス神殿のパンフレット(表)。さすがにしっかり作り込まれている。 | ゼウス神殿のパンフレット(裏)。さすがにしっかりと解説されている。他の施設でもこれがあればもっと理解が深まったのだが……無料だったので仕方がない。 |
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神殿の全体像。幅43.68m、奥行き110.3m、柱の高さ17.25m(ファザードの高さは27.4m程だったと言われる)。神殿の前後には8本の柱が3列、側面には20本の柱が2列並び、中央の柱のない空間にはゼウス像が安置されていた。 |
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最も保存状態の良い東南の角。13本の柱が残る。 |
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同じく東南の角。右の写真の左下に人が写っているが、その比較で神殿の大きさが分かるだろう。 |
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西側から東方向を望む。 |
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神殿西南。立ったまま残っている2本の柱の間に、倒壊したままの柱が1本ある。これは1852年の嵐で倒れたもの。左の写真にはアクロポリスが、右の写真にはアセンズ・ゲート・ホテル(真ん中に写っている柱の右、高さが柱の3分の2ほどの割と大きな建物)が写っている。 |
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同じく西南。柱1本だけ見てもかなり巨大なものである。柱の影も半端な大きさではない。 |
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東南の角の上部拡大。 |
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柱頭部分の拡大。コリント式の緻密な装飾がよく分かる。左は西南の柱、右は東南の柱。 |
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左右どちらの写真も倒壊した柱の一部。一部分でもかなりの大きさだ。 |
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これらは全て帝政ローマ時代の公衆浴場の跡。ハドリアヌス門とともに、A.D.124年〜A.D.132年に造られ、7世紀まで使われたらしい。位置的にも、ハドリアヌス門に近い。ハドリアヌス帝はギリシア文化に傾倒し、アテネに様々な建造物を築いたようだが、これまで見てきたハドリアヌス門、ハドリアヌスの図書館、ゼウス神殿、そしてこの浴場と、今もアテネの見所として数多く残っているものを見ても、その様子がよく分かる。 |
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パナティナイコ・スタジアムは、幅83m、奥行き204mで、最大6万人の観客を収容できる。建材は大理石。2004年のアテネ・オリンピックでは、マラソン競技のゴールとして使われ、女子マラソンでは日本の野口みずきが金メダルを獲得した。 |
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パナティナイコ・スタジアム前の広場にある、ゲオルギオン・アヴェロフの像。アレキサンドリアの富豪で、彼の援助によってパナティナイコ・スタジアムが復元された。 | 同じく広場にある円盤投げの像。台座には「アテネ人 オディモス・エスティセン 1927年」と書いてある。オディモス・エスティセンは人名だと思うが、円盤投げの選手だろうか?それとも像の彫刻家か? |