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紅葉伝説考
四、土蜘蛛及び紅葉異伝

 ・紅葉と土蜘蛛
 ・大伴氏と土蜘蛛
 ・夷を以って夷を制す
 ・紅葉と大伴氏と土蜘蛛と
 ・紅葉鬼人の伝承
 ・紅葉と山姥、山の民
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紅葉と土蜘蛛
 それは紅葉の会津時代の最後に出てくる、地元の豪農の息子源吉に対して行った「一人両身」の術の顛末である。紅葉の分身は庭の蜘蛛の巣を払ったところ、蜘蛛の糸が巨大化して雲になり、分身はそれに乗って飛び去ってしまったという話だ。ただの蜘蛛と雲の語呂合わせでもあるのだが、土蜘蛛はまた土雲と記したことを思い起こさせられる。またここで蜘蛛が突如として出てくることも、不可思議なことなのだが、それも紅葉が土蜘蛛の末裔であることを示唆するものとも取れるのである。もちろんこれは暗示的要素であって、魔的存在の紅葉に同じく魔的属性を持つ蜘蛛がイメージ的に重なっただけかもしれない。
 しかし、紅葉と土蜘蛛との関係を暗示するものは他にも見られる。聖地戸隠には様々な神が祀られるが、そのうちでも最も古い土着神とされるのが九頭竜権現である。これは中国の風水思想に基づく一種の竜神信仰だが、日本ではもっと複雑な事情があるようだ。それは「クズ」という音にあって、それは土蜘蛛の別称でもあるのだ(国巣、国栖、国主、国津、などいう字を当てる)。即ち日本において九頭竜を祀る場所というのは、「クズ」の活動拠点だったというのである。確かに、奈良盆地周辺では九頭竜を祀る神社も多く、中には「国津神社」というものまである。奈良盆地といえば神武東征以前は土蜘蛛の根拠地だった。その九頭竜を祀る神社や「クズ」の名を関する神社が全国にあって、それは土蜘蛛の根拠地を示すものだというのだが、戸隠もその痕跡を留めるものだというのだ。奈良盆地での祀られ方を見るならば、これもあながち異説と退ける訳にもいかない。
 ほかに、紅葉伝説の故郷、鬼無里には、山中に巨大な蜘蛛が住んでいた淵があったという民話も残されている。その場所は紅葉が住んだという内裏屋敷の上流に当たる。また、紅葉伝説を再現した歌舞伎の中には、紅葉の配下に赤蜘蛛、白蜘蛛という蜘蛛の妖魔がいたとするものもある。これも紅葉と土蜘蛛の関係を示唆するものであろう。

大伴氏と土蜘蛛
 もっと言及すれば、大伴氏と土蜘蛛の関係というものもある。大伴氏と親類関係にあった氏族に佐伯氏というのがある。この氏族中最も活躍したのは佐伯真魚(さえきのまお)だが、彼こそ真言宗の開祖弘法大師空海である。
 この佐伯氏、大伴の配下にあってそれを支えたというのだが、日本書紀には佐伯とは帰属した蝦夷だとはっきり書かれている。また常陸国風土記では、佐伯という名の土蜘蛛が悪さをして朝廷の軍に誅されている。佐伯とは間違いなく蝦夷、土蜘蛛であり、先住土着民なのだが、これと大伴氏が縁戚関係にあるというのはどういうことだろうか。
 大伴氏とは古代の軍事豪族だが、その歴史は古い。その祖は天孫降臨で皇孫とともに天下ったという。その子孫は神武東征において紀伊半島での戦闘に大いに活躍した。その後も天皇に刃向かう諸豪族を次々と平らげ、朝鮮半島にも赴いた天皇の側近中の側近である。大伴、とは大いなる伴、即ちしもべなのである。土蜘蛛を最前線で斬り殺した一族であるはずなのだ。おかしなことなのだが、このあたりの事情が複雑なのが日本の古代史なのである。
 天孫降臨の際、皇孫を武力によって守る役目を担ったのが、大伴氏祖の天忍日命(アメノオシヒノミコト)と天津久米命(アマツクメノミコト)だった。天久米命は天忍日命の部下とも言われ、その後の神武東征でも大伴氏の祖は久米部という部族を率いて土着民と戦う。このとき久米部が歌ったとされるのが「撃ちてしやまむ」でいう久米歌なのだが、その久米歌の内容などから久米部というのは狩猟・漁労民で九州南方の土着民・隼人と同族であろうといわれる。その久米というのは佐伯とともに大伴氏の軍事力を担っていたわけだが、大伴家持の歌では自らの祖を大来米主(オオクメヌシ。古事記において久米部の首領として神武東征で戦った)としていたりして、久米と大伴とは同一なのではないかとも思われる。大伴というのはあくまで天皇の大いなるしもべという尊称であるから、久米の首領を大伴といったのかもしれない。

夷を以って夷を制す
 そういう土着民の痕跡を持つ大伴氏が、やはり土着民である佐伯を率いている。そうしてみると大伴氏というのは一方で土着民を征服させていく急先鋒でありながら、また一方で土着民とも強いつながりがあったようだ。最前線に立ったからこそ、相手の土着民とも関係が深かったとも言える。征服した土着民を取り込むことによって、大伴氏の軍事力が保ち得た可能性もある。「夷を以って夷を制す」という皇朝がよく取った戦法の一つである。蝦夷に対するには同じく蝦夷を用いるという戦法だ。戦略、戦術上、相手の出方も分かる訳だし、和平の道も開きやすい。また土着民との深いつながりによって皇朝内での権力を維持するという意味合いもあったろう。戦乱を引き起こすも平和な世を保つも彼ら次第ということになるのだから。
 同じく軍事氏族であった物部氏なども同様であったかもしれない。物部氏の祖は神武天皇最大の敵・長脛彦と血縁関係にあった。物部氏も各地で皇朝の征服戦争に従事し、蘇我氏に敗北した後、多くは陸奥に逃れ長脛彦の末裔達と合同したという。なお古代、大伴氏を失脚に追い込んだのは物部氏だった。
 以上のように大伴氏は土着民を倒しつつも土着民と深い関係にあったのだが、土着民と皇朝とて必ずしも常に対立関係にあったとは限らないのだ。佐伯のように帰属した土着民も多くいるし、大伴氏自身や物部氏もその類かもしれない。古代に遡っていくとそのあたりは明瞭でなくなる。
 それは、そもそも皇室とて同じなのである。どのような出自があるにせよ、皇室とて支配権を確立するまでは一部族だったのだ。遡れば遡るほど征服被征服という関係が曖昧なのは当たり前なのである。皇室の支配権が確立されるに従い文化・民族も融合されて、より古い時代に一体となったものは区別が曖昧となっていくのだが、それでも固有の民族性を色濃く残すものはあった。佐伯というのはその典型なのではなかろうか。
 記紀編纂の時代に至ってもはっきりと土蜘蛛と書かれるからには、佐伯氏、佐伯部というのは皇朝同化後も固有の民族性や文化を明瞭に保持していた一族なのであろう。何の後ろ盾もないはずの空海があっさりと入唐できたり、拠出先不明の莫大な資金を持っていたりするのは、山の民による援助があったからだともいう。空海と水銀鉱脈の関係が指摘されるのもその向きに着目したものが多い。佐伯部は皇朝同化後も同化していない土蜘蛛達と関係を持っていた集団だった思われる。

紅葉と大伴氏と土蜘蛛と
 そういう集団と、大伴氏は深い関係にあった。土蜘蛛達にとっても、大伴氏というのは時に自らを討ちに来る敵であると同時に、皇朝へのパイプでもあったろう。大伴氏が佐伯部を通じて土蜘蛛の情報を入手し、時には戦を有利に進め、時には和平の道筋としたのなら、土蜘蛛の方でも事情は同じはずである。単なる敵ではなかったはずだ。日本史の陰に隠された複雑な部分だが、ともかくも大伴氏と土蜘蛛はつながりがあった。やがて末裔たる伴氏が落ちのびるようなことになれば、土蜘蛛を頼ったであろう。征服戦争を前線で戦った物部氏が、蝦夷と合同したといわれるように。
 紅葉伝説における伴笹丸の話が実話であるなら、そこに土蜘蛛との関係も見出せることになる。しかも、紅葉には蜘蛛にまつわる話もある。伴笹丸が実在したかどうかは分からないが、紅葉伝説が形成される上で重要な要素ではあるのだろう。紅葉が陸奥に落ちてきた大伴氏の末裔であるというのは。現在の我々には別になくとも話は成り立つように思えるような事柄だが、だからこそ重要なのかもしれない。当時や少し後世の人々にとっては意味のある事柄だったのではないだろうか。笹丸紅葉親子の上京は伴氏の中央復帰活動の一環だったかもしれないし、あるいは蝦夷と合同した伴氏のスパイ活動だったのかもしれない。いずれにしても明るみに出ればただでは済まされない活動だ。結局その上京が悲惨な結果に終わったのも、そうした因果のあることなのかもしれないのである。だがとにかく、紅葉が陸奥に落ちた大伴の末裔であるということは、土蜘蛛との関係を暗示するものであるのは確かである。
 ところで、清和源氏は地歩を固めるのに鉱産資源を求め、山の民に近づいたという。佐伯真魚、即ち空海のところで述べたように山の民は鉱産資源と深いかかわりがあったからだ(鉱産資源は山から採掘するもので山に詳しくなくては採り出せない)。武士なのだから刀の原料となる鉄を求めるのは当然なのだが、その地歩を固めたというのが源経基の子、満仲(みつなか)なのである。経基と紅葉の関係というのも、このあたりの事情と無関係ではないのかもしれない。

紅葉鬼人の伝承
 さて、今度は全く別の観点から紅葉がまつろわぬ民の系譜であることを述べてみたい。これまで、蝦夷との関連や、鈴鹿御前のところで出てきた坂上田村麻呂。彼は蝦夷を平らげた名実ともに「征夷大将軍」であり、蝦夷征服の代名詞と言っても過言ではない。また鈴鹿御前に見られるように別の鬼や賊も討ったという伝承もある。しかし、紅葉には直接関係はない。ないのだが、もう少し近づくような話がある。
それは坂田金時(さかたのきんとき)、いわゆる金太郎の出生譚である。金太郎といえば神奈川県の足柄山が有名だが、同じような場所が全国にいくつかある。そのうちの一つが、鬼無里村の約15キロ南方、八坂村の大姥山に伝わるものである。この山に荒倉山の岩屋のような洞窟がある。金太郎はここで生まれ育ったというのだが、その母が紅葉鬼人という赤い顔をした女だったというのだ。紅葉鬼人は西の安曇野の八面大王と恋仲になり、金太郎を生んだ。この八面大王とは、大姥山のさらに西南15キロほど、穂高町の有明山の岩屋に住んだ大鬼だという。強大な魔力を持ち、天候を操り、天地を飛び歩いて、多くの手下の鬼とともに付近の村々を荒らし回っていた。その噂はやがて京へ伝わり、八面大王は坂上田村麻呂により討たれる。悲しみにくれた紅葉鬼人は鬼無里へ去って自害したという。
 この伝承に出てくる紅葉鬼人とは紅葉伝説にある紅葉と同一の存在を指すものと思ってよいだろう。八面大王は、土着の豪族、安曇族の首領ではないかとも言われているが、いずれ朝廷に逆らった者であることは間違いない。田村麻呂に討たれているというのが何よりの証拠だ。田村麻呂に討たれた、という伝承の意味は、その真偽はどうあれ朝廷からすれば蝦夷と同類ということなのである。その蝦夷と同類を夫に持ち、子を設け、夫の死を追って自殺したという紅葉の伝承がある。これは紅葉もまた蝦夷と同類ということを意味するものである。つまり、紅葉は「鬼」であらねばならないような存在であった、ということなのだ。
 この伝承は紅葉の異伝ともいうべきものだが、伝承だけあって時代の整合性には乏しい。田村麻呂の時代と戸隠の紅葉が愛された源経基の時代とは同じ平安時代とはいっても若干の隔たりがある。しかし伝承にそうした整合性を求めても詮無きことである。そこから伝承に込められた意味を読み解いていかねばならない。
 この話の主眼は紅葉が金太郎の母親だということである。この金太郎、先に出た源経基の子、満仲の子の、さらにまた子である頼光に仕えて、頼光四天王と呼ばれる名将となる。紅葉が経基の子を宿したというのが真実なら、筋の通った話ではある。金太郎がもとより源氏の血を引く者ということになるのだから。いずれにしても清和源氏との浅からぬ因縁があるのは間違いない。また金太郎の人並み外れた怪力も、鬼の子ということなら納得のいく話ということになる。ただ皮肉なのは、その鬼の子金太郎は頼光に従い鬼の王酒呑童子を討伐しているということである。これは皇朝の「夷をもって夷を制す」というやり方を反映したものなのかもしれない。

紅葉と山姥、山の民
 さて、その紅葉鬼人が住んだという大姥山だが、その名の通りこの山には大姥様という山姥が住んでいたという。山姥というのは、山中に住んで人を食うとされる鬼の一種だが、八坂村の大姥様は、犯せば祟るような禁忌こそあれ、基本的には人々に恩恵を与える存在として信仰されている。金太郎はまたこの大姥様の子ともされていて、はっきりとはしないが、おそらくは大姥様というのは紅葉鬼人の別称、あるいは尊称であろう。そして鬼無里に行って自害したという伝承からして、この紅葉鬼人と戸隠の鬼女紅葉とは同一の存在に対する別伝承だと思われる。大姥様が住んだ洞窟は大姥山と、もう一つは戸隠にもあったという伝承もある。異なるのは夫と、追われたのが夫か本人か、他殺か自殺かということだけである。山に住んで霊力を発揮し、人々から畏怖と尊崇の念を抱かれる女性であった点はもちろん、中央からの迫害、源氏との深い関係という点など、大きな共通点が見られる。
 そもそも、戸隠の紅葉も、山に籠って妖しげな術を行い悪さをし鬼と呼ばれるという点で、非常に山姥に近い存在である。紅葉とは山姥という存在のより原型に近い存在だということもできよう。山姥は人を食う鬼とされているが、元来は山の民の女性シャーマンであろうといわれる。山の民は生活・行動様式の違いから里人に理解されず鬼と呼ばれることもしばしばだし、そのシャーマンとなればますますもって理解不能である。人を食う鬼と解されても不思議ではない。山の民の女性シャーマンとしての山姥、紅葉はその原型としての要素も多分に持っているようである。
 なお戸隠、鬼無里と境を接する中条村の虫倉山には、優しい子育ての神様としての山姥の伝承もある。このあたり一帯には、中央や里ではとうに忘れられた太古の女性シャーマンの信仰が、長く息づいていたようだ。険しい山岳地帯でもあるから、山の民の主要な活動拠点でもあったのだろう。大姥山の洞窟は越後の別の洞窟までつながっていると言われているが、その真偽はともかくとしても、鉱産資源を糧とし鉱業を生業とした山の民とのつながりを示唆するものとも受け取ることができる。



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