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紅葉伝説考
三、反逆の民・紅葉

 ・紅葉の出自
 ・紅葉は蝦夷か
 ・蝦夷=鬼
 ・東北の巫女
 ・やはり紅葉は鬼である
 ・紅葉の実像
 ・紅葉は「まつろわぬ民」である
 ・土着民の女首領達
 ・女首領と女性シャーマン
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紅葉の出自
 さて、ここで紅葉の出自について考えてみたい。紅葉は、陸奥、会津の出身である。陸奥とは、当時どういう場所だったか。
 延暦二十一(802)年、胆沢城築城。元慶二(878)年、元慶の乱勃発。天喜四(1056)年、前九年の役勃発。これらは何かといえば、陸奥における蝦夷、俘囚(ふしゅう。朝廷側に服属した蝦夷の呼称)の反乱である(乱の前までは朝廷の勢力圏外であったことからすれば、「乱」ではなくて朝廷の外征に対する防戦である)。陸奥、出羽、即ち東北地方は、平安時代当時、まだ朝廷の勢力圏外だった。そして平安時代とは、皇朝による対蝦夷東北征服戦争の時代だったのである。先に挙げた平安遷都間もない時期の胆沢城築城は、かの征夷大将軍・坂上田村麻呂が行ったもので、その築城中に、数十年に渡って朝廷軍を撃退し続けた岩手中央部の蝦夷の長・阿弖流爲(アテルイ、以下カタカナ表記)が降伏する(それより少し前の宝亀十一(780)年には朝廷に仕え官位を授与されていた蝦夷・伊治呰麻呂(これはりあざまろ)が宝亀の乱を起こし、陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)を討って、国府多賀城が炎上。それから田村麻呂の胆沢城築城まで蝦夷と朝廷の緊張関係が続いた)。当地の蝦夷は、その後服属して俘囚となる。一方、出羽の蝦夷が蜂起して、朝廷の秋田城を落城させたのが元慶の乱である。この乱は同年中と短期間で終息するものの、津軽や北海道の蝦夷も支援に回り、派遣された鎮守府将軍・小野春風が武力制圧ではなく統治を緩めることでようやく沈静化をみる。そして、岩手の俘囚の長であった安倍頼時(あべのよりとき)とその息子貞任(さだとう)の反乱が前九年の役であり、源頼義(みなもとのよりよし)とその息子義家(よしいえ)によって鎮圧された。なお、このとき朝廷の官人だったにも関わらず、婚姻関係から蝦夷側についた藤原経清(ふじわらのつねきよ)と安倍頼時の娘の間の子が、後三年の役を経て、東北全土をその影響下に置き、平泉に金色堂を建てた奥州藤原氏初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)である。
 紅葉が生きた937年~969年というのは、上の元慶の乱と前九年の役のちょうど中間に当たる。つまり、当時の陸奥は一応は朝廷の勢力圏になったとはいえ、まだまだ政情不安定な場所だったのだ。もっとも、会津は陸奥の中でも南端に位置しているから、かなり早くに朝廷の勢力圏に入っていた(古事記の十代崇神天皇の段に、四道将軍大彦命(おおひこのみこと)と武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)がそれそれ日本海側、太平洋側を行軍しそこでお互い出会ったので「会津」と命名したとの記述がある)が、それでも陸奥は陸奥、服属したとはいえ蝦夷という異文化、異民族の民が住む地には違いなかった。

紅葉は蝦夷か
 紅葉の父笹丸は大伴氏の末裔となっており、朝廷側の人間である。しかし、もはや中央政界から追放された人間であり、場合によっては追手がかかるような立場にいる訳で、その意味では蝦夷と変わらない。中央を追われた人間は古来より陸奥に逃れてくるという、史実・伝説も豊富にある。古くは、神武天皇に敗れた長脛彦。蘇我氏に敗れた物部氏。平将門の残党。源義経一行。時代が下れば、北畠氏など南朝方。伴善男が住み着いたというのもこうした史実・伝承の一環と見ることができる。まして、大伴氏は陸奥との結びつきが強かった。その子孫が落ちのびてくるならば、岩手のような紛争地域ではなく、早いうちから朝廷に恭順した会津あたりであれば、政情的にも言語などの環境的にも(北方の蝦夷ほど言葉が通じにくくなるという日本書紀の記述もある)、生活しやすかったのではないだろうか。そして、「貧しい暮らしを送っていた」笹丸の代には、すっかり現地に土着し、蝦夷の娘も娶って、蝦夷に同化してしまっていただろう。
 これは、史実かどうかは問題ではない。伝承上の意味を探るものである。中央を追われ土着化し蝦夷と一体となっている者の血を引いている、という伝承上の意味を問題としている。紅葉の出自をこのように説明しているということは、紅葉に、追われた者、追われている者、まつろわぬ者ども(朝廷に服属しない蛮族)、という宿命を背負わせ、そこに意味を持たせているということである。これは紅葉伝説のほとんどに共通の事柄なのだから。

蝦夷=鬼
 さて、ここで先に紅葉が「鬼」であることの意義を再び考えてみたい。「鬼」とは、先に述べたように皇朝に対する反社会分子、脱社会分子である。それは律令体制に組み込まれようとしない山の民、漂泊の民などであるが、体制に組み込まれていないという点では蝦夷などはその最たるものであった。服属し「俘囚」となった蝦夷にしても、いつ反乱を起こすか分からない不穏分子であったし、そもそも習俗が大きく異なる。「鬼」とは異界の存在であるが、俘囚、蝦夷という存在は異界の存在そのものであった。そういうことで、都の貴族にとっては蝦夷は鬼も同然だったのである。そうした思考を受け継ぐ地方の官吏や、場合によってはその体制に組み込まれている里の民からしても蝦夷とは鬼で有り得た。そういう中央の発想が持ち込まれた結果、蝦夷は鬼と見なされた。平安時代の絵画には蝦夷を角のある者として描いたものがあるし、前九年の役の安倍貞任を鬼とする伝承もある。また岩手の平泉近くで田村麻呂に討たれたという鬼の王・悪路王(あくろおう)は、先のアテルイが変化して伝わったものともされる。蝦夷が鬼と見なされるようなことはようなことはいくらでもあったのである。青森の岩木山には鬼を祀る神社もあるが、これなどは、蝦夷が古来より崇めた当地の神が朝廷視点で鬼と堕とされつつも、当地での信仰が絶えることはなかった結果かもしれない。平安時代にあってはほとんど朝廷の影響を受けずに終わった地であれば、そういったこともあり得る。
 先に、歩き巫女のような漂泊のシャーマンは、中央の宗教政策とその観念の普及により、古来の女性シャーマンが権威を失い弾圧されることもあり得るようになって、地元での活動が制限された結果、零落して生まれたものだと述べた。それは陸奥でも同じだった。もちろん、未だ体制に組み込まれていない北東北では古来の宗教が自由に行われていたろうが、早くに体制に組み込まれた南東北などでは場合によっては厳しいものがあったはずだ。あまり頭ごなしに地元の信仰を弾圧したのではかえって反乱を招くが、さりとて全く放っておいても反乱の種となる。古来より続く女性シャーマンなどは、間違いなく活動の制限を受けたろう。

東北の巫女
 先に出たきたイタコのように、東北は女性シャーマンの信仰が強い場所だ。彼女達が活動の制限を受け、地元では生計が立てられなくなったとき、やはり漂泊のシャーマンとなったろう。朝廷の対蝦夷政策が強硬化した平安時代には、東北出身の漂泊シャーマンがかなり増えたのではないか。もしかしたら、平安末期に白拍子などの漂泊シャーマンの活動が活発化したのは、東北が朝廷の勢力下に置かれ、職を失った東北の女性シャーマンやその子孫が漂泊シャーマン化した結果なのかもしれない。最も有名な白拍子・静御前は奥州とつながりがあり、静御前の伝説もある。また、三重県と滋賀県の境にある鈴鹿峠に住み、坂上田村麻呂に討たれたという鬼女・女賊の鈴鹿御前は、先のアテルイをモデルとするという悪路王の婚約者だったというが、その伝えられる姿は白拍子そのものである(鈴鹿御前の別名である立烏帽子は白拍子のまとう装束の一。鈴鹿御前は第四天魔王の娘と伝えられていて、紅葉との共通点も多く興味深い)。
 東北における歩き巫女は、イタコが祀る神「オシラ様」を祀り、イタコが唱える「オシラ祭文」を唱える、ということもあったようだ。歩き巫女の中でも東北にルーツを持つ者は、東北以外の地で別の神を祀りながらも、自らのルーツの神を祀ることを忘れはしなかっただろう。あるいは、東北以外の地での公共の場でも、ルーツの神々を祀ることもあったかもしれない。そのようなとき、周囲には理解に苦しんだり、難色を示す者もあったろう。
 ただ、東北の女性シャーマンが漂泊シャーマンと化すにしても、あまりに習俗が違いすぎては生業が成り立たない。ある程度中央の文化が流入し交流もある場所に生まれた者でないと、蝦夷の女性シャーマンも東北以外の他地域に出入りする漂泊シャーマンと化すことはできなかったであろう。まして白拍子のように都に上ることも稀でないのであれば。そういうことであれば、南東北などは漂泊シャーマンを輩出するには最適の地であったかもしれない。

やはり紅葉は鬼である
 さて、紅葉は蝦夷の血を引くか、少なくとも蝦夷の地の出身であった。そして、漂泊のシャーマンとしての属性も強く持っている。つまり、陸奥出身の漂泊シャーマンと見ることができるのである。しかも、漂泊シャーマンを輩出するに適した地、南東北、会津の出身なのである。ちなみに、会津にはオシラ様の信仰やそれを祀る巫女の存在が確認されている。
 蝦夷、漂泊民。これはどちらも当時、あるいは後世、鬼と見なされても全くおかしくない存在であった。そんな属性を持つ紅葉が霊力を発揮するとき、ルーツたる陸奥の神に祈ることも大いにあったに違いない。それが京でのことであれば、周囲は理解に苦しんだことだろう。あるいは「鬼」や「悪魔」を祀る者と映ったかもしれない。仏教世界から見ればそれは魔王の力を借りた業であったろうし、紅葉の霊能にどこか神道でも仏教でもない土俗的な呪術の雰囲気があるのは、そのせいではないか。紅葉が実在の人物だったとして、これら全ての事柄を鑑みれば、鬼の女と見なされるのも然るべきことなのである。
 ずっと前に、紅葉は物の怪としての「鬼」の属性に乏しいと述べた。しかし伝承上はれっきとした鬼であって、それならば鬼であらねばならない理由があったとも。その理由こそ、皇朝の体制に組み込まれよとしない「蝦夷」「漂泊民」、さらには古来から続く女性シャーマン、それももしかすると蝦夷の神々を奉じたかもしれない「異端的宗教者」といった属性を持っていることなのである。限りなく人間の女性であるのに、やはり鬼であるのは、こうした属性によるものなのだ。

紅葉の実像
 紅葉伝説は、つまるところ鬼退治の話であるにも関わらず、主人公は鬼自身で、その上とても物悲しい。それは、漂泊の身を余儀なくされ、時に都での栄達を手にすることがあっても、結局は鬼とされて迫害されてしまう、悲しい辺境の女性シャーマンの身の上がその原像にあるからではなかろうか。あるいは、紅葉という人物は実際にはいなかったかもしれない。記紀の日本武尊が当時朝廷の最前線で戦った幾人もの将軍達の反映だといわれるように、紅葉も幾人もの辺境の漂泊女性シャーマンの反映と見ることもできる。
 しかし、日本武尊にしても、全ての武勲を一人で立てた訳ではなくとも、それらの話の核となった、群を抜いて功のあった皇子は実在したであろう。同様に、紅葉についてもそれに相当するそれなりに世を騒がせた実在の漂泊女性シャーマンがいて、それに幾人もの同じような境遇の人間達の話が重ね合わさって伝説が形成されたのだと思われる。
 もちろん、本当に紅葉伝説の話は全て紅葉という一人の女性の話なのかもしれないが、ともかく、紅葉のような女性は全く突飛な存在であったのではなく、似たような境遇の女性はいたであろうということで、逆に全くの架空の話ではあり得ないということである。いずれにしても当時の時代状況を反映した話なのである。

紅葉は「まつろわぬ民」である
 紅葉は、皇朝に征服された古代日本の土着民の血と文化を受け継ぐ者ととれる。「勅命」により討伐されたという、明らかに皇朝に仇なす存在であったこと。皇朝に仇なす者がそう呼ばれたように「鬼」であったこと。皇朝に征服された、あるいは服属しない「蝦夷」の地の出身であり、その血を受け継いでいたかもしれないということ。皇朝の体制に組み込まれない「漂泊民」であった可能性があること。皇朝の組み立てた国家宗教に漏れた古来からの「女性シャーマン」であること。「蝦夷」の神々を祀ったか、そうでなくとも「漂泊民」「女性シャーマン」が祀った「妖しげな神々」を祀った可能性があること。紅葉という山に関係ある名、険しい山の岩屋に籠ったなど、山の神を祀ったことを示唆する部分はいくらもあるが、「山」は異界の領域であり「鬼」「漂泊民」の活動の場で、狩猟採集を生業とした縄文系の土着民との関係も大いにありそうだということ。このように、紅葉が古代日本の土着民の血と文化を受け継ぐ者だということを暗示する要素がいくらもあるのである。
 しかしさらに、紅葉が古代日本の土着民の末裔を思わせる要素がある。それが、皇朝に手向かった「女賊」であるということだ。

土着民の女首領達
 実は、皇朝に手向かって討伐された賊徒というのは、女性を首領とするものがかなりあるのである。それも、土着民の首領か、それとつながりがあるものが非常に多い。
 近い時代の伝承としては、先に出た鈴鹿峠の鬼女、鈴鹿御前。立烏帽子の別称を持ち白拍子の如き少女の姿で描かれ、悪路王の婚約者にして坂上田村麻呂に討たれたというこの女賊は、第四天魔王の娘でもあり紅葉と共通点の多いものだと述べた。
 時代を遡ると、記紀において反逆の土着民とされた「土蜘蛛」の首領は女性が多い。殊に日本書紀では、名草戸畔 (ナグサトベ)、丹敷戸畔(ニシキトベ)、新城戸畔(ニキトベ) などといった女賊が紀伊半島の山中で神武東征軍に立ちはだかって誅されている。「戸畔」という名称は、女賊を表すという説があり、それならば土着民の首領に女性が多かったことを示すことになる。他にも神功皇后が手を焼いた九州は筑紫の土蜘蛛の首領・田油津姫(タブラツヒメ)、同じく九州の、皇朝に恭順した神夏磯姫(カムナツソヒメ)など多くの女首領が出てくる。
 肥前国風土記には海松橿姫(ミルカシヒメ)、大山田女(オオヤマダメ)、狭山田女(サヤマダメ)、八十女(ヤソメ)、速来津姫(ハヤキツヒメ)など多くの土蜘蛛の女首領が出てくるし、近隣の豊後国風土記には五馬姫(イツマヒメ)という首領が出てくる。丹後国風土記残欠(いわゆる古風土記とは異なる)には匹女(ヒキメ)というこれまた土蜘蛛の女首領が出てくる。そしてまつろわぬ民の本場、陸奥国の風土記逸文でも土蜘蛛の首領として神衣姫(カムミゾヒメ)、阿邪爾那姫(アザニナヒメ)の名がある。その舞台も福島県の南部、陸奥の国の最南端である。

女首領と女性シャーマン
 上に列挙したように、かなりの数の土蜘蛛の首領が女性なのである。土蜘蛛の首領で具体的に名が挙げられているものはそう多くはない。その中でもはっきりと女性と分かるものは半分近くあるし、それ以外でも女性のものもあったろう。土蜘蛛とは女性を首領に頂くという習俗があった言っても言い過ぎではないほどである。
 しかも、これらの多くが女性シャーマンであった言われており、巫女集団の長であったと言われている。中には、卑弥呼の末裔だとか、卑弥呼そのものではないかと言われているものもあるのだ。土蜘蛛とは皇朝がそれに服属しない民を十把一絡げにしてつけた呼称だが、そういう土着民には女性を首領とするものが非常に多く、しかも巫女集団の長であることもしばしばだったようである。であればこそ、女性シャーマンというものは国家宗教の枠組みに漏れ、弾圧の対象ともなったのかもしれない。
 紅葉も、こうした土蜘蛛の女首領の系譜に連なる、最後の末裔である可能性も高いのだ。それはこれまで見て来た通りだが、別に紅葉と土蜘蛛のつながりを示唆する要素もあるのである。



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