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土蜘蛛紀行 肥後編
其之壱、益城・健軍─ロ、健軍神社
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狭山田女:おおっ、デッカイ門だ。大きな神社だねえ。鳥居も横長でちょっと変わってるな。
大山田女:熊本市内の健軍本町(けんぐんほんまち)にある健軍神社です。県内有数の大きな神社であり、「熊本市最古の神社」とも言われています。阿蘇系の四大神社「阿蘇四社」の一社でもあるとか。後ろを振り返って見て下さい。

狭山田女:石に神様が祀ってあるみたいだね。
大山田女:「石立(いわたて)大神」と呼ばれるもので、今から約千五百年くらい前、二十九代欽明天皇の頃、この石の上に阿蘇の神が童子の姿となって現れたのだとか。それが健軍神社の創建由来なのだそうです。また、景行天皇が腰掛けた石という伝説もあるそうです。

狭山田女:景行天皇の伝説もあるんだ。土蜘蛛と関係ありそうだね。
大山田女:景行天皇の時代に、先程見た朝来山(あさこやま、またはちょうらいさん)の土蜘蛛を征伐した、健緒組命(タケオクミノミコト)を祭った事を、創建の由来とする社伝もあるそうです。ここにはそれらの創建伝承が列挙されていますね。祭神は、その健緒組命です。

狭山田女:立派な参道だなあ。あれ?でも健緒組命を派遣したのは崇神天皇なんじゃなかったっけ。
大山田女:風土記ではそうです。九州での土蜘蛛討伐伝承が多い景行天皇ですから、混ざってしまったか、あるいはこちらが本当なのか……。風土記には、社伝にある「阿蘇大神の子孫」という記述もなく、尊称である「命」もついていません。

狭山田女:でも阿蘇の神様と深い関係があるのは間違いなさそうだね。
大山田女:この神社は阿蘇神社との縁があまりにも深く、また健緒組命を祭った大きな神社というのも、他にはないようですからね。健緒組命は阿蘇と何らかの深い関わりのある人物だったと思います。さて、それでは拝殿でお参りしましょう。

狭山田女:それにしても「健軍」てのはちょっと変わった名前だね。
大山田女:先程見た由緒よると、西方の「賊」、殊に古代の一時期対立関係あった新羅に対する「霊的防衛」の意味があるようです。かつては「たけみや」と呼ばれていました。祭神の健緒組命や、阿蘇の祖神・健磐龍命(タケイワタツノミコト)の名と関係ありそうですね。

狭山田女:こっちが本殿だね。「霊的防衛」って、つまり軍神って事か。賊に対してって事は、土蜘蛛とも関係ありそうだね。
大山田女:土蜘蛛を討ったという古代の人物を祭っている訳ですからね。元々土蜘蛛の「怨念」を鎮める為の社なのかもしれません。土蜘蛛の子孫が再び背いたり、それに続く者を抑えるという意味も含めて。

狭山田女:そういや討たれた土蜘蛛の「ウチサル」さんと同じ名前の土蜘蛛が阿蘇山の反対側、豊後にいた訳だけど、そこは南の日向との境界でもあったよね。日向ってのは、もっと後の時代にもなかなか朝廷に従わなかった隼人の地で、景行天皇の頃の大和の勢力圏が、ギリギリ豊後あたりまでだった、って話を豊後でしてたけど、やっぱりこのへんもギリギリの勢力圏だったのかな。
大山田女:まさにそうでしょう。肥後の南部から薩摩・大隈、今の鹿児島県ですが、南東の日向、今の宮崎県も合わせた南九州こそが、なかなか大和王権・朝廷に従わなかった熊襲・隼人の領域です。健軍神社の位置は、間違いなく古代の大和王権にとっての最前線。隼人の反乱は時代がずっと下った奈良時代にも起きている程で、大和にとってはかなり後の時代まで統治が及びにくい場所だった訳です。

狭山田女:つまり、南の熊襲・隼人に睨みをきかせる意味があったんじゃないかって事だよね。
大山田女:ええ、そちらが本来の趣旨ではないかと思うのですけどね。先程の由緒をもう一度よく見てみましょうか。これによると、社殿が西向きに建っているのは、新羅に対する防衛の意味があると書いてあります。また健軍神社が創建されたのは欽明天皇の時代という事ですが、その数十年前に、「筑紫の君磐井の乱」が起きています。北部九州に拠点を持つ磐井は、新羅と結んで大和に反旗を翻したとされています。
狭山田女:そう考えると、新羅に対する防衛の意味が強くなってくるね。

大山田女:そうですね。以前からこの地で土蜘蛛を討った将軍として祭られていた健緒組命を、磐井の乱平定後、改めて新羅に対する軍神として祭ったのかもしれません。もっとも磐井は本来「九州の大王」であり、磐井の乱は大和に対する北部九州最後のまとまった抵抗、とする見方もありますが……いずれにせよ、新羅に対する防衛という性格は、磐井の乱以降のものでしょう。あるいは、もっと後の、白村江の戦い以後かも知れませんけどね。このときは朝廷が北部九州のあちこちに防塁を築く程、警戒していますので。
狭山田女:確かに、健緒組命自身は新羅とは何の関係もないからなあ。

大山田女:防衛の為に西を向く、というのは、単に大和から見て西の方向を防御する、という意味かもしれませんけどね。九州は大和の西に位置しますから。そもそも新羅はここから見れば北の方角ですしね。その意味では見当違いの方角を向いています。
狭山田女:方角っていえば、土蜘蛛を討った朝来山は、むしろ社殿の後ろの方だね。ん?て事は、西に向かってるってより、東の朝来山を拝む形になってるんじゃないの?人が神社に向かい合うと、朝来山の方向を向くことになるよね?
大山田女:ええ、ぴったり山頂の方を向いている訳ではないですが、この社殿の後ろの方向には、朝来山に続く山並みがありますね。朝来山の麓を背にしているような感じです。
狭山田女:神社って、近くのご神体の山を拝むようになってる事が多いよね。神様のいる山を拝むようになってる。
大山田女:いわゆる「神体山」というものですね。古代から存在する神社には非常に多いパターンです。この神社と関係のある山は、阿蘇山と朝来山しかありません。阿蘇山も確かに東にありますが、方向はかなりズレています。朝来山にしても少しはズレているんですが……方向としてかなり高い精度で一致するのは、朝来山の東隣にある、城山という山です。
狭山田女:すると、もしかして風土記にある朝来名(あさくな)の峰ってのは、その城山なのかな。
大山田女:朝来山と城山は、間に谷があるとは言え、山脈として一続きの山ですからね。ひょっとすると朝来名の峰というのは、その一帯の山並みを指したものなのかもしれません。このように方角にこだわるのは、神社が西向きに建てられるというのは、あまりない珍しい例だからです。南向きか東向きが圧倒的です。そうでない場合は、何かしら理由がある事が多いのです。ここでは新羅に対するという由緒がある訳ですが……健緒組命というあまり例のない特殊な祭神と、その祭神の事績を合わせて考えるなら、「朝来名(あさくな)の峰」を拝むためだったと考える方が、自然な気がしますね。
狭山田女:なるほど……今はこの神社の周りも市街地になっちゃったけど、昔だったら山もよく見えただろうね。
大山田女:健軍神社から、朝来山や城山の麓までは、全く山がなく、平地が続いていますからね。この方向では一番近くに見える山のはずです。はるか太古からあった、その山を拝むための礼拝所が、健軍神社のルーツなのかもしれません。朝来名の峰の麓に住んでいた部族が、健軍神社の方向にある平野に向かって広がっていったのかもしれませんね。そして朝来名の峰にいたという土蜘蛛の首長は、その聖なる祖先の山で祭祀を行っていた事でしょう。また土蜘蛛が討たれた後も、引き続きその同族の土地の人々によって拝まれていたでしょう。その聖地の朝来名の峰に土蜘蛛を討った健緒組命を祭り、それを拝むという意味を加えれば、この土地の安定的な統治にもつながります。土地の信仰を奪う事なく、信仰を融合させる事で、支配下に組み入れる事が出来ますからね。
狭山田女:土地の人にとっては、朝来名の峰を拝むのは、討たれた土蜘蛛を追悼する意味にもなるよね。ご先祖様を拝むって意味にもなる。
大山田女:はい。それは支配する側にとっても、討たれた土蜘蛛の「怨念」を鎮めるするという事にもなります。全ては地域の安定という意義に集約される訳ですが。
狭山田女:う~んなるほど。この神社は討たれた打猴(ウチサル)さん頸猴(クビサル)さんの鎮魂の社かもしれないんだ。
大山田女:その可能性はかなりあるのではないかと思いますけどね。その上で、阿蘇との関係も気になるところですが。
狭山田女:朝来山の麓で言ってたように、討たれた土蜘蛛の方にまで阿蘇との関係がありそうなんだもんね。阿蘇山を挟んで向かい合わせの、阿蘇山からほぼ同じ距離の場所に、同じ名前の「ウチサル」て名前の土蜘蛛がいたって訳でしょ。しかも、反対側の豊後のその場所には、阿蘇の神様を祭る神社があったよね。
大山田女:ええ、全く不思議な事ですが、討った側はもちろんの事、討たれた側も阿蘇に関係がありそうなのです。どうにも奇妙な話ですね。「朝来名」と「阿蘇」も似たような名前ですしね。もしかしたら、朝来名の峰自体、阿蘇山を遥拝する場所だったのかもしれません。聖地とされる場所がさらなる聖地を拝むための場所というのも、特に山岳系の信仰ではよくある事ですからね。さて、推測はこれくらいにして、もう少し境内を散策してみましょうか。

狭山田女:こっちの神社も立派だね。
大山田女:こちらは境内社の雨宮神社です。その名の通り雨乞いの神様です。神社の近くに雨乞いに霊験のある石があったそうで、後に健軍神社の境内に祭ったそうです。これに由来する「神水(くわみず)」という地名が、今も近くにありますよ。

狭山田女:大きな神社だけあって、他にも境内社がいっぱい建ってるね。
大山田女:一つ一つが大きな社殿ですね。一番奥の赤い屋根の神社は、美和神社というのですが、こちらには独自の由緒があります。ほら、神社の左前に大きな石があるでしょう。
狭山田女:あっほんとだ、ゴツゴツした石に注連縄が張ってある。

大山田女:疱瘡、つまり天然痘にかかった人の肌のようなので、疱瘡石と呼ばれています。これをなでて病気平癒を祈るのだとか。美和神社の祭神は、大和の大神(おおみわ)神社と同じ大物主神(オオモノヌシノカミ)。崇神天皇の時代、疫病鎮めに霊験があった事から、病気平癒の神とされています。それで疱瘡石が関係ある訳です。


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狭山田女:それにしても、結構お参りする人が多いね。
大山田女:熊本市の市街地ですからね。近くには路面電車の停車場もあり、交通の便も良いのですよ。健軍神社への行き方は、左の地図を参照して下さい。



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