邪神大神宮 道先案内(ナビゲーション)
鳥居(TOP)斎庭(総合メニュー)万邪神殿土蜘蛛宮土蜘蛛紀行 肥後編 其之壱、益城・健軍
>イ、朝来山
土蜘蛛紀行一覧 



土蜘蛛紀行 肥後編
其之壱、益城・健軍─イ、朝来山
 八束脛門へ戻る



狭山田女:のどかな景色だねえ。向こうにちょっと立派な山が見えるよ。
大山田女:熊本市の南東の益城町(ましきまち)です。あの山は南の御船町(みふねまち)との間にそびえる朝来山(あさこやま)です。「ちょうらいさん」とも言うそうですね。肥前国風土記や肥後国風土記逸文に益城郡の朝来名峰(あさくなのみね)として登場します。

狭山田女:ここは肥後国だからそっちは分かるけど、あたし達の肥前国の風土記にまで出てくるの?まあ、元は肥の国、火の国だけど。
大山田女:肥前国風土記に載っているのは、まさに元は一つの国だったからですよ。各国の風土記の巻頭には、「総記」といってその国全体の概要や由来などが書いてあります。肥前国風土記の場合は、国名由来が書いてあるのですが、それは肥前と肥後が一つであった火の国、肥の国の名の由来です。もちろん、肥後国風土記逸文にも登場します。当然ながら、内容はほとんど同じですが。
狭山田女:なるほど。で、その国の名前の由来と、あの朝来山が関係してるんだね。
大山田女:はい。崇神天皇の時代、朝来山に土蜘蛛の打猴(ウチサル)・頸猴(クビサル)がいて、部下百八十余人を率いて天皇に従いませんでした。そこで天皇の命により肥君(ひのきみ)の先祖である健緒組(タケオクミ)を派遣して征伐させました。健緒組は彼らを全て滅ぼしました、という話です。
狭山田女:火の国の名前の由来に土蜘蛛が出てくるんだ。さすがは土蜘蛛が一番沢山出て来る国だけの事はあるね。まあ土蜘蛛が沢山出てくるのは肥前の方だけど。でも、今の話には火の国の由来がなかったよ。
大山田女:話はまだ続きます。健緒組は土蜘蛛を討伐した後、国内を巡って、八代郡の白髪山(しらかみやま)に着いて宿泊しました。その夜大空に火があり、自然に燃えていて、段々と降りてきて、白髪山に近づきました。健緒組はそれを見て驚き、不思議に思いました。そして天皇に土蜘蛛討伐の完了とともに、この不思議な現象を報告します。すると天皇は、その前代未聞の現象に感嘆し、火の国という名を与えます。そして、健緒組には「火の君」という姓を与え、この国を治めさせます。そういう由来です。こちらこちらに詳しく書いてあります。
狭山田女:夜中に不思議な火が見えたから火の国って訳か。
大山田女:これは阿蘇山の噴火の事ではないかとも言われています。夜中に見たら、火が空中を降りてくるように見えますからね。また、さらに続いて、景行天皇が海上に不思議な火を見て、火の国という名の意味が分かった、と述べる話もあります。いわゆる「不知火」ですね。現在でも見られる自然現象として知られています。日本書紀では、健緒組の話はなく、こちらを火の国の名の由来としています。
狭山田女:景行天皇か。肥前国や豊後国のあちこちで土蜘蛛討伐をした天皇だね。
大山田女:景行天皇は九州を一周したと日本書紀書かれていますからね。もっとも健緒組の土蜘蛛討伐の話は、景行天皇より二代前の崇神天皇の時代ですが。ところで、肥前国風土記では、健緒組が天皇に土蜘蛛討伐の様子を報告するとき、「刀を血で濡らす事なく自然に滅びた」と、不思議な事を言っています。
狭山田女:斬らなくても勝手に滅びた?それこそ神話みたいな話だね。
大山田女:健緒組はそれを「天皇の霊威によるものに違いない」と天皇に報告していますけどね。土蜘蛛のような大和王権から見た「賊」が、戦わずして降伏するという例ならしばしば見受けられますが、自然に滅びるという話はあまり聞いた事がありません。後の「空中の火」に呼応して、神秘性を深めるための表現なのでしょうが、どうしてここでそういった表現が用いられたのか、気になるところではありますね。ちなみに肥後国風土記逸文では報告の内容自体が省略されています。
狭山田女:ふ~ん、謎だね。まあ、朝来山が昔から不思議な事が起こる山と思われていた可能性くらいはあるかな。
大山田女:そうですね。風土記の話とは別に、朝来山には鬼に関する民話もあります。
狭山田女:鬼!土蜘蛛と何か関係ありそうだね。
大山田女:もっとも、その鬼の話は、昔話によくある鬼退治ものではありません。このあたりにあった福田寺(ふくでんじ)というお寺に、鬼が自主的に弟子入りし、色々といざこざを起こしつつも、寺の為に働くというものです。「来年の事を言うと鬼が笑う」ということわざの由来にもなっています。この鬼はなかなか誠実で、話もユーモラスなものです。昔話にはこういったパターンの鬼の話もよくありますけどね。その鬼が住んでいたのが、朝来山のようです。詳しい事はこちら(熊本ポータルサイト みなっせくまもと 肥後むかし話)に書かれています。
狭山田女:割とほのぼのした話ではあるけど……でも、鬼の住むような山だっていう意識は、地元の人にもあったって事だね。
大山田女:はい。朝来山の麓には、鬼の窟古墳という古墳もあります。民話とも関係していると思います。地元の人々がこの山に「鬼がいる」という認識を持っていたことは間違いないですね。
狭山田女:古墳もあるんだあ。豊後では、土蜘蛛の伝説があるところに古墳があるのをいくつか見たけど。五馬媛さんや打サル(サルは「けものへん」に「爰」)さん達のお墓だって言われてるのもあったね。前方後円墳もあった。
大山田女:もしかすると、豊後のものがそうである可能性があるように、鬼の窟古墳も討たれた打猴さん頸猴さんのものかもしれません。
狭山田女:あっ!そういや朝来山の土蜘蛛も「ウチサル」さんなんだ!
大山田女:音は全く同じですね。漢字が若干違いますが、同じ人名でも書物によって異なる漢字を用いるのは古代ではよくある事ですから、同じ名前と言ってしまっていいでしょう。他にこのような名前の人物は古事記や日本書紀、風土記には登場しませんし。
狭山田女:う~ん、偶然って事はないよね。違う場所だから同じ人じゃあないだろうけどさ。
大山田女:朝来山から、豊後の打サルさんがいたという竹田の禰疑野(ねぎの)までは、北東へ約四十五キロもありますからね。間に阿蘇山もあります。しかし不思議な事に、阿蘇山からは両者ともほぼ等距離なのです。そして、朝来山、阿蘇山、禰疑野がほぼ一直線上に並んでいます。阿蘇山を挟んで、北東と南西で向かい合っているような感じですね。
狭山田女:そういえば禰疑野神社には阿蘇の神様が祭られていたっけ。どっちの「ウチサル」さんも阿蘇に関係あるんじゃないかって言ってたね。
大山田女:はい、私の推測でしかない事ですが、「古代阿蘇文化圏」に属する勢力だったのではないかというお話をしました。詳しい事は豊後での旅の記録に書いてあります。
狭山田女:でも、向こうの神社には、打サルさん達を討った景行天皇と一緒に、はっきり阿蘇の神様が祭られていたけど、こっちには何か具体的に阿蘇とつながりがあるものはあるの?
大山田女:実はこちらの打猴さん頸猴さんを討った健緒組という人は、阿蘇の祖神・健磐龍命(タケイワタツノミコト)の子孫という事になっています。
狭山田女:健磐龍命は、禰疑野神社にも祭られていたね。こっちはその子孫の人が討った事になってるんだ。何だか名前も似てるもんね。そうか、ちゃんとここでも阿蘇とつながってるんだ。確かにここまで来ると、偶然とは思えないや。
大山田女:どちらも阿蘇山を信仰対象にしている地域ですから、阿蘇の神と関連がある事は全く不思議ではないのですが、阿蘇を挟んで同じくらいの距離のところに、同じ名前の土蜘蛛が討たれたという話があるのは、偶然では片付けられないでしょう。
狭山田女:なるほど、どちらも「阿蘇の王」に従うムラの長達で、「阿蘇の民」として大和の人達と戦った、ていう大山田ちゃんの話もよく分かるよ。どっちも大勢の部下がいたって話だし。
大山田女:もっとも話の通り解釈すれば、こちらの土蜘蛛を討ったのは「阿蘇の王」の一族なのですけどね。しかし、どちらの土蜘蛛も「阿蘇の王」が束ねていたとするくらいしか、この不思議には答えが出せない気がします。豊後と肥後の「ウチサル」さんは、もしかしたら親戚だったのかもしれませんね。あるいは、「ウチサル」というのが、「阿蘇の王」から与えられた地方の長としての称号のようなものだったのかもしれません。いずれにしても、禰疑野で言った通り、私の推測に過ぎませんが。

狭山田女:まあ、どっちの「ウチサル」さんも、何か阿蘇と関係はありそうだなあ。ところでさあ、この場所って何かあたし達の山田の里と似た雰囲気があると思わない?
大山田女:山の麓に平野が広がっているというところはよく似ていますね。山地と平野の境目です。ここは熊本平野の南西端に当たります。

狭山田女:山田の里は、佐賀平野の北端だもんね。今まで色んなところを見て来たけど、「土蜘蛛がいた」っていう土地はこういうところが多いね。
大山田女:もっと山の中とか、海沿いの険しい土地などもありますが、山から完全に離れた場所というのはありませんね。このへんは「土蜘蛛」という呼称と関わる問題かもしれません。

狭山田女:山や海の民か。大和の人達は平地の人達だからなあ。
大山田女:ちなみに肥後国風土記逸文では、報告を受けた崇神天皇が健緒組に対し、「海の民であるにも関わらずよく山の賊を討った」と功績を称えています。
狭山田女:えっ、阿蘇山の神様の子孫なのに?
大山田女:阿蘇の神の子孫というのは、風土記に書いてある訳ではないですからね。このあたりは少し気になります。もっとも、火の国、肥の国は、私達の肥前をも含んでいます。肥前は海に囲まれた国。ここから有明海を渡れば、肥前の島原半島もすぐそこ。近いところでは十数キロしかなく、今もいくつかの航路があります。肥後国に含まれる天草からは、五キロ程度しかありません。「阿蘇の王」の勢力圏は、有明海にもある程度及んでいた事でしょう。元々その中で海の地域を管轄していたのが、健緒組という人なのかもしれませんね。
狭山田女:そういやそうだ。有明海を挟んで肥前と肥後はすぐ隣だった。
大山田女:そうなると、「空中の火」は阿蘇ではなく島原の雲仙なのかもしれませんが。そちらの方が景行天皇も見た「不知火」の現れる海にも近いですし。
狭山田女:そういや地元の人の健緒組が夜に噴火を見て驚くってのも変だなあ。
大山田女:風土記では健緒組は大和から派遣されて来て、土蜘蛛を討伐し、火の国の統治を任された事になっていますけどね。大和から火の国の長官としてやって来た「海の民」が、地元の有力者である「阿蘇の王」の子孫と婚姻関係を結んだのかもしれません。それは双方にとって自然な事でしょう。
狭山田女:それで結果的に阿蘇の神様の子孫になったって事か。婿として阿蘇の一族に迎え入れられたのかもしれないね。
大山田女:もしかするとそれが「阿蘇の王」が大和に服属した瞬間だったのかもしれませんね。「阿蘇の王」にその決断をさせたのが、朝来山の戦いだったのかも。「何もせずに自然に滅びた」というのは、「阿蘇の王」が矛を収めて和解と服属に踏み切ったという事の象徴だったとか……想像に過ぎませんですけどね。


大きな地図で見る
狭山田女:打猴さん頸猴さんを討った、健緒組っていう人の事はちょっと気になるね。
大山田女:では次は、彼を祭る神社に行きましょう。
狭山田女:おっ、そんな神社もあるんだね。朝来山への行き方は左の地図を参照してね。



ロ、健軍神社へ 道先案内へ戻る