5th.DAY-3rd. 2005/1/2 国立考古学博物館、シンタグマ広場など(アテネ市街)

ディオニュソス劇場を出て、近くのアクロポリ駅からメトロLine 2に乗り、国立考古学博物館へ向かう。左はメトロLine 2の車両。外国に限った話ではないが、地下鉄はホームの先端ギリギリに停車することが多いので、撮影が難しい。

 メトロをオモニア駅で降りて、国立考古学博物館に向かって歩いていく。ビルが建ち並び車も行き交う市街地だが、人通りは極めて少ない。大学などに面した通りだが、時期的に休みの期間だったからだろう。

国立考古学博物館の外観。ここまで来るとさすがに観光客も何人かいて、写真を撮っていた。ここもアテネ屈指の観光スポットで、クレタ島を除くギリシア全土の主要な出土品を収蔵・展示している(クレタ島の出土品はイラクリオ考古学博物館で収蔵・展示)

 遺跡の国・ギリシア最大の博物館だけあって、相当な規模で、内部は時代別・テーマ別の部屋に分かれている。ゆっくり見ていたら一日以上かかるのだが、博物館に着いたのが既に14時半。その上、1月2日ということもあって、いつもより開館時間が短いので、駆け足で見て回らざるを得なかった。ただ、アクロポリス等と同じく今日は無料開館日だったので、入館料は浮いた。

ミケーネ文明の黄金の品々。ミケーネ文明の豊かさを窺わせる。中央上の黄金のマスクは「アガメムノンのマスク」。 「アガメムノンのマスク」は、シュリーマンが発見したもので、彼はこれをアガメムノン(トロイア戦争時のギリシア軍の総大将)のものだと主張したため、この名がある。しかし、その後の調査で、実際には紀元前16世紀のものだと判明した(トロイア戦争は紀元前13世紀頃とされる)。

アテネの南東、アッティカ半島の南端スニオン岬のポセイドン神殿から出土したクーロス(裸体の青年像)。アルカイック期、B.C.600年頃の作品。 アッティカのメレンダで発見されたコレー(着衣の少女像)。B.C550年頃の作で、作者はパロス島の彫刻家、アリスティオン。

「アルテミシオンのポセイドン」または「アルテミシオンのゼウス」。アテネの北東、エヴィア島のアルテミシオン岬沖で発見されたブロンズ像で、三叉の鉾を投げようとしているポセイドンと言われていたが、近年では雷電を投げようとしているゼウスとする説が有力。古代ギリシア彫刻の最高傑作の一つである。B.C.460〜B.C450年頃の作。

ブロンズ像の後ろ側。筋肉といい、姿勢といい、今にも動き出しそうな素晴らしい造形だ。 このブロンズ像は、高さ2m9cm、指先から指先までの長さ2m10cmと、かなり巨大なものである。

この壺の由来は忘れてしまったが、生き生きとした動きが描かれている見事な作品。保存状態もてとても良い。 アナペ島で見つかった墓標の石柱の一部。人間の足元にいる犬が人間を見上げている構図だが、人の右足と犬の部分しか残っていない。犬の造形が見事だ。B.C.460年頃の作。

ブロンズ像の近くに展示されているミノタウロス像。「円盤投げ」(ミュンヘンのグリュプトテーク所蔵)で有名な、アテネで活躍した彫刻家ミュロン(B.C.480年頃〜B.C.445年)の作。 こんなところでミノタウロスに会えるとは思ってもみなかった(笑)

 かなりの駆け足で見て回ったのだが、ここから先は閉鎖されていた。もう閉館時間が間近だったので、エントランスに近い部屋しか開けていなかったのだろう。この先にはパルテノン神殿に祀られていたものと同タイプのアテナ像や、言い寄る牧神パンをサンダルではたこうとする女神アフロディーテの像など、名品が目白押しなのだが、時間切れでは致し方ない。ミュージアム・カフェも閉まっている。辛うじて開いていたミュージアム・ショップをちょっとだけ冷やかして、追い出されるようにして考古学博物館を後にした。

 国立考古学博物館を出て、再びオモニア広場へと向かう。時間は午後3時、遺跡とか、博物館とかいった施設はもう閉まってしまったが、日はまだまだ高い。今度は現代アテネの街の様相を眺めてみることにした。

国立考古学博物館の前の28is Oktovriou通りを走るトロリーバス。日本ではもうほとんど見ることが出来なくなってしまったが、アテネではバリバリ現役。もっとも、トロリーバスとか路面電車とかは、地球環境や都市環境の観点から世界では見直されつつある。

 このあたりの市街地は、(アテネ市街はどこも概ねそうだが)それほど高いビルもなく、日本の地方都市の中心街のような昭和後期のビル街に、西洋テイストを混ぜてその上ギリシア語の看板や表記で味付けされた、不思議な中にもどこか懐かしい光景が続く。人通りは少ないが、オモニア広場に近づくにつれ段々と人通りが多くなっていく。

アテネの中枢の一つ、オモニア広場。良く言えば下町的、悪く言えば治安が悪い(特に夜)とかよく言われるが、別段変わったところはなかった。人が行き交って賑やかではある。夜どうなのかは分からないが、それなりに治安が悪いというなら、東京で言えば新宿のコマ劇前くらいに当たるのだろうか。大きなクリスマスツリーが飾られている。ちなみに「オモニア」とは「調和」の意。英語の「ハーモニー」に当たる言葉だ。

 オモニア広場から、パネピスティミウ通りを歩いて、シンタグマ広場へ向かう。また人通りが少なくなった。だが、この通りにはアテネの隠れた(実は結構メジャーなのだが)名所がある。それは隣接する三つの建物、国立図書館、アテネ大学、アカデミー(学士院)だ。

国立図書館。デンマークの建築家、ハンセン兄弟によって1902年に建てられた。モデルは古代アゴラのヘファイストス神殿。 アテネ大学。同じくハンセン兄弟によって1864年に建てられた。モデルはアクロポリスのプロピュライア(前門)。

そして、三つの建物の中で最も素晴らしかったのがアカデミーだ。


これにはさすがに圧倒された。正面階段の左にソクラテス、右にプラトン、左の柱の上にアテナ、右の柱の上にアポロンの像が立つ。1885年、やはりハンセン兄弟によって建てられた。モデルはアクロポリスのエレクテイオン神殿。ちなみに国立考古学博物館もハンセン兄弟によるもの。しかし、これほど見事に古代の意匠を生かした近代建築が、いかに優れた建築家とはいえ外国人の手になるものというはなぜだろう。当時のギリシアは独立して半世紀程度、国家としてはまだまだ不安定で、これ程のものを建てられる建築家を輩出できなかったからだろうか。当時の国王がデンマーク王家の出身だったことも大いに関係あるだろう。

左の柱の上に立つアテナ像。 右の柱の上に立つアポロン像。

 シンタグマ広場へ近づくにつれ、また人通りが増してくる。シンタグマ広場はアテネの一番の中心と言っていいだろう。アクロポリスにも近く、プラカ地区はシンタグマ広場も含んでいる。地下鉄もここで交差し、トラム(路面電車)の始発駅ともなっている。そして、何よりも国会議事堂があることからも、まさしくアテネの中枢と言っていいだろう。しかし、世界屈指の遺跡と、観光スポットと、交通の要衝と、市民の憩いの場と、政治の中心とが隣接している首都というのも珍しいのではないだろうか。下の写真を見れば分かるが、シンタグマ広場にはメリーゴーランドまである。また国会議事堂のすぐ前には無名戦士の碑もある。日本で言えば、永田町の国会議事堂の前に戦没者慰霊碑があり、隣の公園で市民が露天で買ったたこ焼きを頬張ったりメリーゴーランドに乗ったりしていて、見上げれば金閣寺がある、というような構図になるのだろうか。全くもって不思議な光景である。

人でごった返すシンタグマ広場。ちなみにシンタグマとは「憲法」の意で、1844年、ここで憲法が発布されたことにちなむ。 大人気のメリーゴーランド。この様子を見る限り、オモニア広場よりもはるかにカオスな感じがする。

シンタグマ広場はどこもかしこも大混雑。クリスマスツリーの向こうに見えるのが国会議事堂。左右のカラフルな建物は、スナック等を売る売店。
シンタグマ広場と国会議事堂の間の通り(アマリアス大通り)に、トラムの始発駅がある。トラムはアテネオリンピックのための交通手段として2004年に開通したばかり。シンタグマと海岸部を結んでいる。

 ちなみに、このトラムの駅(というよりも「停車場」だが)のあたりにペリプテロがあり、ギリシアの国旗をデザインしたマフラーが吊るして売られていたので購入。青地に白文字で大きく「ΕΛΛΑΣ」(エラス、ギリシアのこと)と書かれていた。プラカの土産屋などでは売られていなかったので、観光客向けではないのかもしれない。オリンピックの応援用(の売れ残り)かと思ったが、どうもサッカーのサポーターが身に着けているもののようだ。考えてみたらアテネオリンピックは夏に開かれたのだからマフラーもないだろう。

国会議事堂。元々は王宮だったもので、1842年、ドイツ・バイエルンの建築家ガルトナーによって建てられた(ちなみに当時の初代国王はバイエルン王家出身)。1933年以降、国会議事堂として使われている。 国会議事堂の前にある無名戦士の碑。独立戦争以来の戦没者を追悼するための記念碑で、1923年に建てられた。横たわる兵士のレリーフの横に、古代アテネの歴史家トゥキディデスの言葉が彫られている。

無名戦士の碑は、常時左右に一人ずつの衛兵が守っている。フスタネーラという民族衣装をまとい、直立不動の姿勢を保つ。自分を被写体にして見物客が絶え間なく記念撮影をしていても、眉一つ動かさない。

無名戦士の碑を守る衛兵は、30分毎に交代式を行う。丁度午後4時の交代式を見ることできた。独特の手足の上げ下げを、一糸乱れることなく行う様は流石。日曜の午前11時には、大規模な交代式が行われ、かなりの兵士が動員されるようだ。交代式の動画はこちら:動画1 動画2

 衛兵の交代式を見た後、シンタグマ広場の近くにあるミトロポレオス大聖堂へ向かった。

ミトロポレオス大聖堂正面。1855年に完成したアテネ最大の教会。プラカ地区の街中にある。 ミトロポレオス大聖堂後部。大統領就任時の宣誓式など、重要な国家行事の多くが行われる権威ある教会である。

ミトロポレオス大聖堂の脇にあるミクリミトロポリ教会。アテネ主教座が置かれていた教会(現在主教座はミトロポレオス大聖堂)で、12世紀末〜13世紀初めに建てられた。

 アテネの土地と人々に敬意を表して、一応ミトロポレオス大聖堂の中に入り礼拝する。ここは観光スポットではなく、純粋な市民の礼拝場所の雰囲気だったので、内部の撮影は止めておいた。

 シンタグマ広場やミトロポレオス教会を見たときのことを改めて思い返してみると、随分オープンというか、敷居が低い、という感じがある。国会議事堂の近くに民衆の集まる娯楽の場があったり、路地が入り組んでいてどこか猥雑なところもあるプラカ地区に大聖堂があったりと、民衆から隔絶していない感がある。政治や伝統的宗教が民衆から隔絶したものでないのは良い事ではあるのだろうが、一方では権威に乏しいとも言える。これは19世紀に独立を果たした新興国であること、独立後も列国の介入や内乱で政体が不安定であったこと、ビザンツ帝国の滅亡で正教会が「ローマ帝国」という大いなる権威を失ったことなど、歴史的背景とは無関係ではないのかもしれない。あるいは、ラテン的(ギリシア語はラテン系言語ではないが)、南欧的カオスやオープンさを窺わせるものかもしれない。
 一方で、アテネ中心部のどこからでも「見上げる」ことのできるアクロポリス、パルテノン神殿は、圧倒的な権威を持っている。しかし今やそこには政治家や宗教家といった実際に権威を持つ「人間」はいない。こちらは良くも悪くも民衆とは隔絶しているのだ。実際、「栄光の」古代ギリシアと現代ギリシアでは血統的にも文化的にも連続性に乏しい。
 こうして旅の情景を振り返るとき、つながりの少ない「ヨーロッパ文化の源流」という栄光をその地に抱え、心の故郷である「東欧の盟主」ビザンツは既になく、気候的には南欧で、政治的には西欧(EC時代からのEU加盟国)という、ギリシアという国の複雑さに思いを致さずにはいられない。

 午後4時を過ぎ、少しずつ日も傾いてきた。リュカヴィトスの丘に向かい、夕焼けに染まるアテネの街を見下ろすことにする。

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