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紅葉伝説考
一、紅葉とは何者か

 ・紅葉は鬼=異類である
 ・異類である条件
 ・紅葉は鬼なのか?
 ・紅葉の呪術
 ・シャーマンとしての紅葉
 ・シャーマンと芸能
 ・紅葉の神とは
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 ここでは、先に紹介した紅葉の伝承をもとに、鬼女・紅葉とは一体何なのかということを考えてみたい。

紅葉は鬼=異類である
 まず、重要なのは、紅葉が「鬼」であるということである。一部の伝承では女の妄執、あるいは我が子の障害となるものは全て排除する鬼子母神的な「暗黒の母性愛」による、「心の鬼」が人であった紅葉を鬼と成さしめた、というものもあるが、ほとんどの伝承が第六天魔王の申し子という「生まれながらの鬼」であると規定している。もとより異能を持った存在でなければ、話の筋のほとんどが死んでしまう。それは確かに、地方の才色兼備の娘が、都で貴人の家に迎えられて寵愛を受け、けれども身分の賤しさゆえに後宮的闘争に敗れて追放され、鬼と化し神仏の力を受けた英雄討たれるという話は、典型的なものではある。しかし、この紅葉伝説の基本形においては、生来的な霊力に非常に重点が置かれている。京での栄達と転落も、里人への施しも、盗賊行為も、維茂との戦闘も、全て霊力あってのことである。人が鬼となったという伝承をベースに、後世話を盛り上げるため、異常な出生譚をつけ加えたということもあるだろう。だが、それにしては生来の異能ぶりにウェイトが置かれ過ぎている。はじめからそうした要素がないのならこれほどまでに異能を強調する必要はない。人であったものが鬼と化す話ならいくらもあり、その類の話では鬼と成さしめた因果にこそ重点が置かれるからだ。だが、紅葉伝説は違う。もともと異類であるがゆえに後の転落を招いたのだという見方が大勢であり、全体的に見ても人の因果を超越した存在あるような描かれ方をしている。紅葉伝説は人が妖魔になる話ではなく、妖魔が人の姿を取ったという異類譚なのである。

異類である条件
 紅葉は妖魔であり「鬼」である。では、「鬼」とは何か。人でない、異類のものであることはもちろんであるが、その異類とは。それは既に「『邪神』とは何か」で述べた通り、反社会、脱社会的分子である。政治的には、中央という支配的な社会構造に対する辺境。空間的には、農耕という支配的な生活様式を営む里に対する山。時間的には、現支配体制が現支配体制を築くにあたって制圧してきた敗北者達、その残党。精神(宗教)的には皇室の祖先神天津神を奉じる「神道」や、国家鎮護を祈る「仏教」に与しないもの。端的に言えば、皇朝とその人民に害成す者、国家の社会体制に組み込まれようとしない逸脱者、つまり「皇朝への反逆者」である。
 紅葉が皇朝への反逆者であることは明らかだ。紅葉征伐は勅命によるものだと伝えられているからだ。たとえそのような歴史的事実がなくとも、皇朝に対する反逆者と認識されているからこそ「勅命」という発想が出てくるのである。詳細に考えれば、中央に対する辺境ということではそもそも紅葉は陸奥という最辺境の出自であって申し分ない。また流された先も当然ながら山岳に囲まれた辺境である。里に対する山ということでは、紅葉が立て籠もって鬼としての力を最大限に発揮したのは険しい山岳だ。鬼無里という里にしても農耕だけでは生計が立たない里と山とのギリギリの境界線上である。敗北者ということでは、伴氏という中央政界から追放された紛れもない敗北者であり、朝廷からすればできるだけ排除したい残党である。さらに、盗賊団として配下に加わったのは、「新皇」を名乗り真っ向から皇朝に反旗を翻して敗れた、平将門軍の残党だ。精神、宗教的には第六天魔王という仏敵の申し子であり、神道にも仏教にも属さない妖しい呪術の使い手である。

紅葉は鬼なのか?
 紅葉が皇朝への反逆者という「異類」であることは既に明らかになった。その異類ぶりをもっとも発揮しているのは、呪術という精神世界的な側面において最も顕著であるのも既に先に述べた通り。そこをもう少し掘り下げてみたい。
 異類譚、鬼伝説は数限りないが、大概は身体的な要素に伴う怪力を頼みとするもの(一般的に、鬼は巨大である)がほとんであり、せいぜい邪視や邪眼を使う程度である。だが、紅葉は身体的にはどこまでも人並みであり、物理的な力を行使する場面は皆無である。だからこそ呪術に頼るのである。もちろん、異類譚というか、妖魔譚の中には妖術に重点が置かれているものも非常に多い。が、邪仙や邪法師、あるいは天狗や妖狐など、もともとその異常性の基盤を呪力に持っているものならば当然なのだが、紅葉はあくまでも「鬼」である。鬼であると規定されながらもあまり一般的な鬼の条件は満たしていない。女だからというのも当てはまらない。配下のお万はどうだろう。女ではあってもその頼みとするところは怪力であり、呪術を行使する場面はほとんどない。お万などは典型的な鬼の例だろう。
 そうなると、紅葉はあくまでも人ではない妖魔であって、しかも同じ妖魔でも「鬼」でなければならない何かの理由があるように思えてくる。鬼でなければならないのだけれども、鬼の性質には比較的乏しい。これは矛盾である。あえて矛盾を肯定しようとするなら、そこに何か理由がなくてはならない。

紅葉の呪術
 それを解く鍵はやはり呪術にあるだろう。鬼である前に妖魔たらしめているのは呪術に他ならない。そしてそもそもこの伝説を全編に渡って支えているのは、紅葉が人並み外れた呪術使いであるということも先に述べた。その呪術も、修行によって得たものではない。生来備わった霊力なのである。これは、第六天魔王という仏教世界の存在によるものとはいえ、真言を唱えるでもなし、印を結ぶわけでもなし、仏教的呪術とは縁遠い。どちらかというと神道的、日本古来の呪術的要素の方が濃いように思われるが、かといって神道の神に祈っている訳でもない。そもそも日本古来の信仰が神道として整備された段階で、神道は多分に呪術的要素を切り捨てた国家祭祀へと変容していて、厳密な意味では神道的とは思われない。まるで自然、超自然の力をそのまま行使する──神話の神々のようである。先天的霊力、ということであればこれは神に等しい領域であろう。しかし一方で、重要な局面では第六天魔王に祈ったり、占いをしたりと、神というよりはやはり呪術師としての側面が強い。戸隠流刑後お札を売って生計を立てたという話まである。最も、神話の神々というものは、霊力を発揮する際より高位の神に祈る、あるいは何にかは分からないがとにかく祈る、もしくは祈念の結果神が「神憑り」になるということがままある。それは世界の神話に見られることだが、そうした神々は古代のシャーマンが神格化されたものとされることが非常に多い。「祈る」ことによって霊力を得るのは、シャーマン以外の何者でもないのだ。そして、そういう神は、大概が女神である。力のあるシャーマンというものは女であることが圧倒的に多いからである。つまりは、巫女だ。女性は先天的霊力に恵まれていることが多いと思われていて、その中でも抜きん出た者が巫女となるのである。なお、シャーマン的な女神といえば、日本で代表的なのは岩戸の前で踊った天鈿女命(アメノウズメノミコト)。最高神天照大神でさえ、太陽神に仕える巫女の神格化という説もある(卑弥呼=「日の巫女」の反映であるとするなど)。

シャーマンとしての紅葉
 紅葉は、多分にシャーマン的要素を持っている。「祈る」べき対象を持ち、「祈り」によって霊力を発揮する。しかも、その呪術は、仏教とも神道ともつかぬ妖しい呪術。そして何より、紅葉は先天的霊力の異常に強い、妖しい魅力を持つ女性である。巫女としての条件は十分過ぎるほどに満たしているだろう。古代において、強力なシャーマンは神格化された。ならば、紅葉も、その伝説の元になるような実在のシャーマンがいて、それが伝説化したものと考えても、差し支えはないだろう。
 生涯その霊力を発揮し続けた紅葉のシャーマン的な側面はいくらでも見つかるが、最も顕著なのは戸隠に流されて、鬼無里で生活していた頃の伝承である。ここで紅葉は、人々のために祈祷し、呪術を行い、占いもした。檜扇によって病や傷も癒した。あるいはお札を作って売っていたとも。それに人々は感謝し、慕い、尊敬したという。実はこの「人々のために」というのが極めて重要である。祈ることによって霊力を発揮するのがシャーマンなのだが、ただ個人のために霊力を行使し、人を欺いたり攻撃したりするものではない。共同体のために、神の託宣を下し、神聖な呪力によって、人々を助け、奉仕し、崇められるのがシャーマンなのである。先の例で卑弥呼が出たが、彼女は国家という巨大な共同体のために霊力を行使し、その尊敬によって王にまでなっている。神話の天鈿女命とて、困り果てた神々という共同体において、神憑りとなって神々を助けた。愉快な踊りによって神々の心を慰めてもいる。その尊敬によって、天孫降臨につき従うことを命ぜられ、そこでもまたその呪力によって障害を取り除いた。
 こうした例と同じように、紅葉もシャーマンとして人々のために霊力を行使し、共同体に奉仕して尊敬を得ているのである。しかも、檜扇の例にあるように、そこで揮われた霊力は、治癒という生産的な働きを成している。人をだましたり呪ったり傷つけたりするのが黒魔術的な力であるなら、これは白魔術的な霊力である。シャーマンとは本来、そういう白魔術を行使する呪医として共同体を守るものである。黒魔術を行使するのは戦争や飢餓の際、やはり共同体を守るため、仕方なしに、だ。その呪医とはシャーマンそのものであるが、伝説のところで記したように、紅葉は鬼無里でまさに呪医としての役目を果たしたのである。これがシャーマンでなくて何であろう。
 お札を売って生計を立てたという伝承も見逃せない。共同体のために護符を作るのもシャーマンの仕事である。しかも、売っていたというからには、職業的シャーマンであったのだろう。これは時代が下った後のシャーマンの姿だが、紅葉伝説の時代は古代末期というそれに最もふさわしい時代である。また古代のシャーマンの本来の仕事として最も重要な託宣であるが、紅葉が行った占いはこれに相当する。占いとは神意を伺って指針とするものに他ならないからである。これは託宣の意義と全く同一である。

シャーマンと芸能
 また、霊的才能とは別に、紅葉は和歌、琴にも秀でていたというが、これもまた重要である。先の巫女神の例にあげた天鈿女命は、芸能の神であり、始祖ともされている。岩戸開きの際の踊りとは芸能に他ならないからだ。シャーマンとは歌舞音曲によって神の心をなだめ、また共同体の楽しみを作り出す踊り子でもあった。神憑りの状態が歌と踊りを生み出し、また心を打つ歌や踊りとは神憑るものである。和歌とて、記紀において最初に詠んだのは神とされているのを見ても分かるように、神聖なものであった。そもそも古代日本には言葉に霊力が宿るとする「言霊」の思想があるぐらいだ。
 実際、世の芸能というものは、本を質せば神事だった。神の心を慰めるものであり、また神憑りは後になると神話の再現という形を取った。代表的なものは神楽である。神楽は後に能・狂言や歌舞伎へと発展した。能の真髄は神になりきり神と一体化することにあるというし、歌舞伎の始祖である出雲の阿国は巫女だった。後々の世になっても神事と芸能は切っても切れない関係だったのである。
 それを思えば、シャーマンであった紅葉が和歌や琴を得意としたのも当然であろう。特に琴の腕前は都の貴人をも酔わせるほどのものであったという。人を酔わせる、というのは、人をトランス状態にし、神憑りの場を作り出すことである。またそれを人々が楽しみにした、というのも芸能者として共同体に奉仕する、というシャーマンの役目と合致している。
 お万に注目して紅葉をシャーマンとする向きもある。お万の伝承ではその髪が重要となるのだが、古代、長い髪は霊力の象徴であった。またそれが髪ではなく陰毛だったする説があることも重要だという。先の天鈿女命は岩戸の前で踊るうちに全裸になった。その際その陰毛が長く垂れ下がっていたことを思わせる描写がある。ほかにも、巫女の陰毛は長いという伝承が日本各地に少なからずあるようで、髪だけではなく陰毛の長さも霊力の象徴とみなされていたようだ。これは天鈿女命が天孫降臨の際、立ちはだかった猿田彦命の呪力を、全裸になるいう呪術によって打ち破ったいうことと無縁ではないだろう。全裸になり性器を露出するという行為も立派な呪術なのである。こうしたことを背景にお万にシャーマンの姿を認め、その首長だったのが紅葉であるというものである。

紅葉の神とは
 こうしてみると、紅葉がシャーマンであったことには疑う余地がないようだ。そのシャーマンとしての姿を最も強く顕現させるのが、鬼無里においてであった。地元で語られる紅葉伝説では、この部分が最も重要であり核となる部分だろう。里に恩恵をもたらしてくれた場面なのだから。伝承の発祥地において最も重視される部分、そこには伝承の原型がある。つまり「鬼無里に恩恵をもたらしたシャーマン」であることが最も重要なのであり、紅葉の原像とは間違いなくこれであろう。
 しかし、紅葉は鬼無里土着のシャーマンではない。多くの伝承において会津の出身となっており、京からやってきた女なのである。ただ、流刑後の伝承では第六天魔王に祈る場面が極端に減る。紅葉は鬼無里でシャーマンとなるにあたって、鬼無里土着の神に祈ったのかもしれない。その神とは、荒倉山の山神であろう。紅葉が立て籠もった岩屋というのが今も荒倉山の中腹に残されているが、それは巨大な岩であり、洞窟である。はるか太古において、巨石は信仰の対象であり、神道でも磐座(イワクラ)と呼ばれる。また洞窟は母なる大地の胎内であって、死と再生を象徴する至聖所、礼拝所だった。鬼無里土着の古来からの信仰において、荒倉山も大地と山の神を祀る至聖所であったのではないか。荒倉山という名も磐座を想起させるものがある。実際、荒倉山の主峰砂鉢山の山頂は雨乞いの場所だった。おそらく討伐される前から紅葉は土着の神に礼拝するため時折荒倉山の岩屋に籠ったのであろう。  また紅葉という名も山にまつわるものである。百人一首にも採られた有名な菅原道真の歌に、「このたびは 幣(ぬさ)も取り合えず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」というのがある。意は道真が手向山の神を拝むにあたり、急いで来てしまったので神に捧げる幣(神への捧げもの。布など)がない。しかしこの美しい山の紅葉を神に捧げよう、というほどのものだが、これからしても紅葉というのは山の神と深く関わるものだという古代の認識が窺われる。その名を冠する鬼女紅葉はもとより山の神を祀るシャーマンであった可能性が高い。



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