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紅葉伝説考
二、巫女・紅葉とその霊能

 ・平安時代の宗教
 ・在野の平安呪術
 ・紅葉と平安呪術
 ・古代シャーマンの末裔
 ・注目すべき歩き巫女
 ・紅葉は歩き巫女だった
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平安時代の宗教
 そうなると、問題になるのは、紅葉の守護神第六天魔王である。これについては伝説の冒頭で述べた通り、仏教世界の悪魔なのだが、日本土着の信仰ではないし、当然鬼無里の神でも荒倉山の神でもない。
 ここでまず当時の主流の宗教観を考えてみる。平安時代には、既に仏教が普及して主流の宗教といえば当然仏教であった。そして、当時仏教といえば天台か真言か、どちらにしても密教であった。また仏教とともに当時隆盛を極めていたのが、安倍晴明で有名な陰陽道である。いずれにしろ、当時の支配的な宗教は、呪術的宗教であった。
 これらはあくまで宮廷というか中央の話だが、しかし、実は密教や陰陽道などの外来の呪術的宗教は朝廷が正式に導入するよりも早く民間に流布していた。修験道の開祖と言われる役小角(えんのおづぬ)は既に飛鳥時代に雑密(ぞうみつ)という未整理な密教を体得している。役小角は修験道の開祖といわれるように山林で修行したのであり、密教は朝廷に導入されるよりも先に古来の山岳信仰と結びついて流布していった。日本密教の確立者空海も入唐して本格的に密教を学ぶ以前に山林を彷徨って雑密を身に付けている。
 陰陽道も、その基盤となる道教は中国の民間信仰が起源だけにどれぐらい昔から入っているのか不明なぐらいである。奈良時代には、陰陽道の前身といわれた呪禁道(じゅごんどう)が確立されており、呪禁師という官職まで置かれている。だが呪禁道でも陰陽道でも民間に流布し各地で「勝手に」まじないを行っており、民間の呪禁師や陰陽師を何度か取り締まっている。密教にして役小角は流刑に遭っているし、そもそも僧侶となるには朝廷の認可が必要で、勝手に僧侶となることを禁じている。

在野の平安呪術
 中央でこうした外来の呪術を勝手に行うことを禁じたのは、まずそれが外来の先進技術を伴う、あるいは先進技術そのものであったことが一つ。もう一つは、その呪力を恐れたからで、民間に強力な呪術があふれれば朝廷が危ういと考えたからだろう。そういう先進技術であり、また危険だが強力なものを、国家の統制下に置きたいというのは自然な発想である。だが、実際にはそうした呪術は取締りの対象となるほど巷にあふれた。
 そうやって民間に広まる中でも、役小角に見られるように、山岳信仰とは早くから結びついた。日本古来の信仰を、中央で呪術的要素を切り捨てて天津神中心の国家祭祀へと変容させたものが神道だったが、その切り捨てられた呪術的要素や辺境での信仰も、外来の呪術を取り込んで変容していったのである。国家という後ろ盾もなく、ともすれば弾圧されかねないそういった信仰は、そうしなければ生き延びられなかったのかもしれない。また、そういう信仰と結びついたために、民間の外来呪術を禁止したのかもしれない。
 平安時代には、そういう妖しげな呪術が民間で跋扈していた。紅葉が使った呪術というのも、そういう流れを汲む呪術であった可能性はかなりある。紅葉が経基の奥方を呪うのに護摩壇を設けたという伝承もある。護摩壇とは言うまでもなく密教や修験道で用いられるものである。平安時代も中期となれば修験道もかなり普及してきており、まして修験の聖地戸隠ともなれば、鬼無里や荒倉山の信仰もそういった呪術と習合しつつあったかもしれないし、紅葉が外来呪術を持ち込んで土着の神をともに祀ったのかもしれない。

紅葉と平安呪術
 そういう外来呪術においても第六天魔王とはやはり魔王なのだが、日本の怨霊信仰と同じように恐ろしく力があるからこそ祀って強力な力を得る、という発想が密教にもある。特にヒンドゥー教から取り込まれた神々に関する呪術はそういったものが多い。まして、山岳修験は修行により霊力を得ようというものである。時に恐ろしい神を祀ることも大いにあり得る。実際第六天魔王の起源シヴァを祀る自在天法や大黒天法、シヴァの息子ガネーシャを祀る歓喜天法などは、危険だが上手くやれば強力な力を得られる呪法ということで大いに用いられた。
 紅葉伝説においても第六天魔王にすがることで伴笹丸はようやく子を得たのである。そして一時は栄華を得た。しかしそれがために最終的には悲惨な結果を招いた。これはこういった神が強力で頼りがいがあるが危険であると認識されていた、伝承の上での証左であろう。実際に、第六天魔王の信仰というものもある。
 紅葉は山岳系の非公式的な呪術を行っていた── 一応はこう考えることはできるだろう。しかし、そこで一つ重大な問題が生じる。修験道は女人禁制だということだ。現在でも、女性が踏み込むことのできない山や場所がいくつかあるくらい、修験道では女性を忌避している。当時、まだ修験道は成立過程にあったかもしれないが、それでも女の山伏の話などは聞いたことがない。陰陽師についても同様で、官職としての陰陽師に女性はいない。平安時代の呪術宗教で女性が関与できそうなものは、修験道ではない密教か、民間の陰陽道ということになるだろう。しかし、女性が関与できる整備された純密(天台・真言ともに尼僧はいる)は、国家あるいは宗派によってしっかり管理されている。
 結果として、当時女性の呪い師が身に付けていそうな呪術といえば、日本古来の民間信仰と雑密や呪禁、陰陽道などが渾然一体となった妖しいもの、と言えるだろう。紅葉の使った術は邪術、妖術と言われているぐらいだから、こうしたいかがわしい呪術であった可能性は十分にある。その中に、修験道とは袂を分かってしまった山岳信仰が含まれていることもあったろう。紅葉が使用した護摩壇にしても別に密教に特有のものではなく、名称は別として呪術に火を用いるのは普遍的なことである。これが修験道やその他民間呪術に取り込まれた際に、以前から使用していたものの形式と名称が護摩壇になったのだということもできる。

古代シャーマンの末裔
 しかし、かつて古代世界で活躍した女性シャーマンはどこに行ってしまったのだろうか。古代では霊力や神と交信する能力は女性の方が高いと確実に信じられていた。古代日本の祭祀王は卑弥呼だし、神道の最高神天照大神、シャーマン神天鈿女命はともに女神である。だが、整備された後の神道では、実際に神に一番近いところで祭祀を行う神職は戦後まで男性に限られていた。巫女は存続したものの、整備された神道の下ではシャーマンとしての能力を失っている。神道とは呪術的要素を大きく切り捨てて成立したものなのだから当然といえば当然であろう。南北朝期までは存続した斎宮の制度(皇室の女性が伊勢に赴いて一定期間神宮の祭祀を行うという制度)に、その名残を見るぐらいである。
 事情は、既に見てきたように仏教や陰陽道でも変わらない。奈良時代くらいから、女性が呪術の世界から締め出されていった。それは女性シャーマンとは古代から世界的に見られただけに古代を意識させるものであって、未開の土俗文化と見られたのだ。中国の官制を取り入れ中央集権化をはかり当時の近代国家・法治国家を目指す皇朝としては、できるだけ排除したいものであった。また、古代国家が卑弥呼の如き神権政治から専制政治あるいは法治主義へと移ってゆく過程で、母権社会から父権社会への移行もともになされ、女性の社会的地位が堕ちていったということも大きい。呪術的・土俗的要素の価値の低下と、女性の社会的価値の低下は、表裏一体、シンクロしているのである。
 では女性シャーマンの文化は死滅してしまったのかというと、そんなこともなかった。それこそ民間呪術に溶け込んでいったのである。その後も女性シャーマンは民衆に支持された。現代に残る典型的な例は、青森のイタコなどがそうである。イタコは神や死者と交信し霊媒となってそれらを自らに憑依させるが、そのイタコは基本的に女性である(男性イタコもいることはいるが女性に比べて相当に小規模である)。
 これが千年も昔の平安時代であれば、女性シャーマンはまだまだ民間で十分に健在であった。体制に組み込まれた「神道」の巫女とは別に、「歩き巫女」などと呼ばれる漂泊の女性シャーマンや、「口寄巫女」などと呼ばれるいわゆる霊媒(まさしくイタコのようなものである)が日本各地で見られた。彼女らは、場合によっては寺社で祈祷することもあったようである。また神社の中には国家の体制に組み込まれていない小社もたくさんあって、そこでは古来からの「土俗的な」祭祀や外来の民間呪術がかなり好きなように行われていた。だからこそ、現在でも地方によって、しかもわずかな距離間でも大きな差異が生じるような、その土地特有の祭祀や信仰が残されているのである。

注目すべき歩き巫女
 特に「歩き巫女」は、シャーマンとして各地をさすらううち、その際に行う歌舞音曲に注目されるようになった。神事に臨む人々にとって、その歌舞音曲は一種の娯楽と映り始めたのである。また、安定した経済基盤を持たない歩き巫女の方でも、歌舞音曲がもてはやされることは収入の増加につながった。やがてこうした芸能が神事から離れて独り歩きし、歩き巫女は漂泊の芸能者も兼ねるようになった。時代を下ればさらに職業的に独り歩きさえして旅芸人ともなっていく。
 あるいは、歩き巫女は娼婦の役割も兼ねた。娼婦と巫女というと、対極にあるもののように思われるが、必ずしもそうではない。世界的に見れば、古代フェニキアの神殿には神聖娼婦というものが置かれていて、参拝にやってくる巡礼者に快楽を与えたという。そもそも、シャーマンとは神憑りにより能力を発揮するわけだが、その際にトランス状態に入らねばならない。これは恍惚、エクスタシーの状態でもある訳で、それは性行為によるエクスタシーに近いものがあると受け止められたのである。また神憑りとは神を自分に降ろし一体となる訳だが、それは男性を自らの体内に迎え入れ一体となることとある種通じるものがあるとも受け止められた。世界の宗教の中にはインドのタントラ密教など、男女の交合によって神との一体化を図ろうとするものさえある。古代バビロニアの大地母神イシュタルも大いなる娼婦と呼ばれ、バビロニアの王はイシュタルと一体化した巫女と交わることによって王位を継承したともいう。このように巫女と性交とは案外と近い関係にある訳だが、それは古代日本の巫女においてもあり得たことだろう。それが歩き巫女に受け継がれていたということもまた大いにあり得る。かくして漂泊の巫女が各地で儀式としての性交を行って、やがて性交だけが芸能と同じように独り歩きしていった。特に先にあげた経済的基盤ということであれば、芸能よりもはるかに簡便で多くの金銭を得ることができる。

紅葉は歩き巫女だった
 このように、歩き巫女は次第に漂泊の旅芸人、娼婦をも兼ねていった。これが平安後期となり、動乱の世の中になってくると、さらに顕著になる、それが「白拍子」と呼ばれるような存在である。彼女らは「今様」と呼ばれる歌と踊りを披露した。その今様の歌の内容は、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という本にまとめられて今に伝わっているが、それをまとめた後白河法皇はそれほどまでに白拍子に夢中になった。もちろん彼女らは遊女としての役割も担っていた。白拍子といえば義経の側室「静御前」が有名であるが、この二人などは貴人と遊女という間柄を越えて愛し合った稀有な例だろう。それだけに後世まで美談、秘話として語り継がれているのである。本来は、法皇のような究極的な貴人から寵愛を受けることがあっても、それは貴人の私的な愛に過ぎず、また一時的なものに過ぎなかった。そこに、白拍子の華やかさと同時に哀れさがある。この、華やかさと哀れさ、紅葉に非常によく通じるものがあると思うのは、筆者だけではあるまい。
 そう、紅葉は歩き巫女だったのではあるまいか。それも、歩き巫女が白拍子などに零落する前の、まだ呪術性を十分に保った、「漂泊のシャーマン」としての歩き巫女だったのではあるまいか。紅葉の生涯を追っていくとそれにもうなづける。まず、魔性の娘と言われほどの天性の霊力。しかも紅葉は鬼無里でそれを生業とした。そしてやはりそれを生業とできるほどの歌舞音曲の才能。また、会津に生まれ、京に上り、信濃に流されるという漂泊の生涯。まさに歩き巫女そのものであろう。さらに言えば、貴人からの一時の寵愛や、それが生む悲劇も、後の白拍子を髣髴とさせる。紅葉伝説とは、古代から続く女性シャーマン達が、漂泊の芸能者、娼婦に零落していく過程を象徴している物語なのかもしれない。紅葉という実在の人物の生涯に、その時代状況が重ねられて形成されたものと見ることができるのである。



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