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風土記に見る「土蜘蛛」 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
大山田女:「風土記」は日本書紀と同じ頃~その二十年後くらいまでに完成した書物で、天皇の命令で、各国の国司(長官)が国内の産物や地理、伝承についてまとめて提出した報告書です。そういう趣旨で書かれていますので、古事記と日本書紀が基本的に時間軸に従って書かれているの対し、風土記は国内の各郡や郷ごと、つまり空間軸に従って書かれています。
狭山田女:風土記には、古事記や日本書紀に載ってない神話や伝承もいっぱい書かれてるんだよね。
大山田女:地域色豊かな古文書ですからね。ローカルな内容であふれています。なお各国風土記のうち、現在までほぼ完全な形で残っているのは出雲国(現在の島根県東部)風土記のみ。一部が欠落した状態で残っているのが播磨国(現在の兵庫県南部)風土記、常陸国(現在の茨城県)風土記、豊後国(現在の大分県)風土記、肥前国(現在の佐賀・長崎県)風土記で、これらを合わせて五風土記とも言われます。
狭山田女:あたし達のことは、肥前国風土記に載ってるんだよね!
大山田女:はい。五風土記の中でも肥前国風土記と豊後国風土記は特に土蜘蛛の伝承が多く、読んでみるとまるで土蜘蛛の伝承のために書かれたのかとも思えるほどです。
狭山田女:肥前も豊後も九州だね。
大山田女:だから土蜘蛛という言葉や概念は九州発祥ではないかという説もあるほどです。
狭山田女:そうするとあたし達は土蜘蛛の「本家本元」だね! あと肥前国風土記にはあたし達みたいな女の土蜘蛛が沢山出てくるんだっけ。海松橿ちゃんのことも描いてあるもんね。
大山田女:豊後国風土記や日本書紀にも土蜘蛛の女性指導者の具体的な人名が出てくるのですが、女性が多いことも土蜘蛛の大きな特徴の一つとなっています。これは女性シャーマン、つまり巫女のような存在だったのではないかと言われています。
狭山田女:あたし達もヨドヒメ様に仕える巫女だもんね。そのことも風土記に書かれてるし。
大山田女:その点も考えると、土蜘蛛は女性の鬼「鬼女」のルーツだともいえますね。「鬼女」にはシャーマン的な要素が強いですから。この神宮にも祭られている鬼女紅葉さんとか。
狭山田女:紅葉ちゃんはあたし達の遠い子孫なのかもしれないね。
大山田女:きっとそうだと思います。だから迫害されたのかもしれません。五風土記では、他に常陸国風土記にも土蜘蛛について書かれています。
狭山田女:常陸といったら、肥前から見たら日本の反対側だねえ。そんな遠くにもいたんだ。
大山田女:そうですね。常陸は現在の茨城県ですが、この「茨城」という地名の由来として、この土地に穴に住む狂暴な土蜘蛛達がいたので、土蜘蛛の留守中に穴の中に茨(イバラ)を敷いて、騎馬兵で穴の中に追って殺したとか、土蜘蛛を倒すために茨の砦を造ったという話が出てきます。だから「茨城」というのだと。
狭山田女:それって、日本書紀にあった「葛城」の地名由来とそっくりだね! つる草みたいなものと土蜘蛛は何か関係があるなかな? あたしにはあまり思い当たらないけど。
大山田女:二ヶ所の土蜘蛛だけの話ですから。しかし不思議な共通点ですね。古代に実際にそういう戦術があったのか、何かの象徴だったのか……。
狭山田女:ここでも土蜘蛛は穴に住んでることになってるね。
大山田女:はい。それから常陸国風土記では、土蜘蛛の色々な呼ばれ方が書かれています。八束脛(ヤツカハギ)とか、国巣(クズ)とか、佐伯(サエキ)とか。
狭山田女:八束脛っていうのは、足が長いってことだよね。長脛彦さんと一緒だよね。
大山田女:国巣に関しては、先に話した古事記に出てくる「尾の生えた」国津神の一柱が、吉野の「国巣」の先祖だと書かれています。これは日本書紀にも書かれています。なお、今も吉野には国巣という地名があります。
狭山田女:するとやっぱり土蜘蛛と同族だったんだろうね。そういえば、吉野で「クズ」といえば、「吉野葛」が有名だね。葛湯とか葛切りの。あ、そうか! 「葛城」の「葛」は「クズ」とも読むんだっけ。「クズ」もつる草だもんね。何だか深いつながりがありそうだね……。
大山田女:「佐伯」とは、現代でも使われる「遮る」という言葉と同じ語源を持つ言葉で、「朝廷の命令を遮る者」の意味です。日本書紀には、日本武尊(ヤマトタケルノミコト、景行天皇の皇子)が東国征伐で捕虜にした蝦夷を、西日本の諸国に分けて住ませ、彼らが「佐伯部(サエキベ)」の先祖になった書かれています。また「佐伯部」を管轄する「佐伯氏」という豪族もいました。佐伯氏は佐伯部を率いて宮廷の警護を務めています。また大伴氏、これは神武東征の時にも前線で戦った古代の最も有力な軍事氏族ですが、佐伯氏はその同族ともされています。朝廷に従わない者が「佐伯」と呼ばれ、佐伯と戦いその捕虜を管理し率いるのが「佐伯氏」ということですね。ちなみに真言宗の開祖として有名な弘法大師空海、本名を佐伯真魚(サエキノマオ)と言いますが、その名の通り彼は佐伯氏の出身です。
狭山田女:八束脛、国巣、佐伯。土蜘蛛は具体的な人名がいっぱい残ってるけど、それだけじゃなく、色んな呼び方をされてて、それも残ってるんだね。
大山田女:私達もそう呼ばれた土蜘蛛というのは、本当に幅広い概念だったみたいですね。次は、五風土記以外の、「風土記逸文」についても見てみましょう。

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狭山田女:「逸文」っていうのは何?
大山田女:「逸文」というのは、かつて存在していたけれども、現在では失われてしまった文章のことですが、原本が失われてしまったけれども、他の書物に引用されるなどして残っている文章のことでもあります。ここでは、後者ですね。
狭山田女:つまり、他の本に引用されて残っている、失われてしまった風土記の一部っていうことだね。
大山田女:その通りです。その中には、五風土記の伝わっている原本の、失われた箇所を補うものもありますし、原本が全く伝わっていない国の風土記のものもあります。
狭山田女:その中には土蜘蛛のことが書いてあるのもある訳だね!
大山田女:「逸文」は、五風土記に比べ、かなり多くの国のものが残されていますが、土蜘蛛について書いてあるのは、日向国(現在の宮崎県)、肥後国(現在の熊本県)、摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県の南東部)、越後国(現在の新潟県)、陸奥国(現在の東北地方の太平洋側、風土記が書かれた頃は福島県と宮城県南部あたり)です。
狭山田女:日向と肥後は九州だね。
大山田女:肥後国風土記逸文に書かれているのは日本書紀や豊後国・肥前国風土記に書かれている内容とあまり変わりませんが、日向の土蜘蛛は、天照大神の孫、瓊々杵尊が高千穂の峰に降臨した際、瓊々杵尊に助言し、助言の通りにすると暗かった空が明るくなった、と書かれています。
狭山田女:天皇の祖神に対して功績があったんだね。でも土蜘蛛と呼ばれているんだねえ。
大山田女:そうです。全ての土蜘蛛が朝廷の敵、という訳ではないのです。私達もそうだったでしょう。
狭山田女:そうだね。それにこの話は今まで話してきた中で、時代が一番古いね。今までは古くても神武天皇の頃だったけど、これは神話の時代の話だもんね。
大山田女:時代設定で言えば、この日向国風土記逸文の土蜘蛛が最も古いものになります。次に摂津。摂津国風土記逸文では、神武天皇の時代に悪賊である土蜘蛛がいたが、穴の中で生活しているので、天皇が「土蜘蛛」という蔑称を与えた、と書かれています。
狭山田女:また穴かあ。ここでは穴の中に住んでいるから土蜘蛛という名がついた、とはっきり書いてるんだね。これだけいろんなところに書かれていると、本当に穴の中に住んでいた土蜘蛛もいたのかなあ。
大山田女:あるいは、一部そういうことも本当にあったのかもしれません。そして越後国風土記逸文。ここには、十代崇神天皇の頃、越(こし、現在の北陸地方のほぼ全域)に八掬脛という名前の人がいたが、これは土蜘蛛の子孫で、その八掬脛の一族は大勢いる、と書かれています。
狭山田女:また「ヤツカハギ」が出て来るんだ。しかもここでは具体的な人名なんだね。
大山田女:はい。八掬脛さんは朝廷に味方したとも敵対したとも書かれていないですが、崇神天皇といえば歴史学の定説では初代の天皇ともされるくらいで、その時代、越は辛うじて「大和」の勢力圏だった地域です。まして越後ともなると、下手をすれば勢力圏外。この話は越後国風土記に書かれていると書いてありますが、越のどのあたりとは明記していません。が、もし越後のこととすれば、「辺境の民」ということになりますね。「土蜘蛛の子孫」と書かれていますので、かつて勢力圏外にあり「土蜘蛛」と呼ばれた人々の子孫が、今は勢力下に置かれている、という話なのかもしれません。
狭山田女:あたし達みたいな微妙な立場だったのかな。
大山田女:そうかもしれませんね。「一族が大勢いる」というのは、「大和」側が少し脅威を感じている、という風にも受け取れないこともありませんね。越後には「城柵」という、朝廷支配のための行政・防御施設が設置されたことが日本書紀に載っていますが、それも崇神天皇からずっと時代が下った大化改新以降のこと。その時代ですら現在の新潟県は「国境地帯」だった訳ですから、八掬脛さんとその一族は国境地帯の統治を左右する重要な人達だったのでしょう。敵にすれば、国境地帯の外側の人々とも連帯して攻めてくる可能性もあります。逆に味方にすれば国境地帯の安定統治と勢力圏の拡大につながります。
狭山田女:その国境地帯や国境の外側の人々を、「蝦夷」と呼んだんだね。前にも話した通り、土蜘蛛と蝦夷は親戚みたいな関係なんだねえ。捕虜にした蝦夷の子孫が「佐伯部」だったし。
大山田女:その蝦夷の本拠地、陸奥国の風土記逸文では、生々しい戦いの様子が描かれています。景行天皇の頃、今の福島県南部に八人の首長に率いられた八部族の土蜘蛛がいて、朝廷に従わなかったのですが、国造(くにのみやつこ、国司以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の軍を敗走させる程の強さを誇り、ついに日本武尊が派遣されてきました。しかし土蜘蛛は津軽(現在の青森県西部)の蝦夷と共謀し、朝廷軍は進めませんでした。最終的には日本武尊に討たれてしまいますが、八人のうち二人の首長は許されて、今も子孫がいる、というお話です。
狭山田女:でっかいスケールだあ。福島の南部と津軽といったら東北地方の南と北の端だもんねえ。まるで東北全域と朝廷との戦いみたいに思えるよ。
大山田女:これは朝廷が東北に勢力を伸ばし始めた頃の戦いの伝承なのでしょう。
狭山田女:でも、ここでは「土蜘蛛」と「蝦夷」は別なんだね。
大山田女:そうですね。それは大きな特徴です。また途中で降参でもしたのでしょうか、戦いのあと、二人は許されていますね。その二人だけが、名前の最初に「神」がついているのです。
狭山田女:さっき、古事記の話のときに、敵になれば蜘蛛、味方になれば神、って言ったけど、それと同じだね。
大山田女:日本書紀にも、九州で、先に帰順した土地の首長の名の最初に「神」がつき、近隣の反逆者が賊として討たれる話があります。この陸奥の「神」の名を持つ許されたうちの一人と、討たれたうちの一人は、「媛(ひめ)」の名を持つ、女性首長です。
狭山田女:へえぇ、陸奥にも女の土蜘蛛がいたんだ。
大山田女:九州と東北では日本の端と端、当時は別の国程に違う場所だったと思いますが、「土蜘蛛」としての共通性は持っているのです。さて、風土記逸文の土蜘蛛は大体こんなところですが、最後に「丹後国風土記残欠(ざんけつ)」という書物を紹介しましょう。

丹後国風土記残欠に見る「土蜘蛛」 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
狭山田女:「残欠」? 「逸文」とは違うんだね。
大山田女:「逸文」は原本の引用と認められているものです。実は丹後国(現在の京都府北部)風土記逸文は別に存在します。「残欠」は「逸文」に比べるとちょっと疑わしい書物で、成り立ちなどもよく分かりません。ですがこの書物の中で土蜘蛛について大きく取り上げています。
狭山田女:それは見逃すわけにはいかないね!
大山田女:崇神天皇の時代、丹後と若狭(現在の福井県西部)の境にある青葉山に、陸耳御笠(クガミミノミカサ)という土蜘蛛の首長がいて、討伐のための軍が派遣されるのですが、その戦いの様子を細かく書いてあります。陸耳御笠さんは青葉山を追われますが、そこで討たれず丹後各地を転戦して、最後は大江山に登ってしまい、結局朝廷軍は討つことができなかったようです。
狭山田女:大江山というと、もっと後の時代だけど、「酒呑童子」が有名だね。
大山田女:聖徳太子が生きていた頃にも、大江山を根拠地にした三人の鬼の伝説があります。彼らも朝廷軍に討たれるのですが、そのうちの一人は「土熊(ツチグマ)」という名前でした。
狭山田女:土熊! 土蜘蛛とほとんど同じ音の言葉だね。それしても大江山っていうのは、朝廷と戦う人や鬼ばかりが集まる場所なんだね。もしかすると三人の鬼や酒呑童子は陸耳御笠の子孫なのかも。
大山田女:そうかもしれません。さて、この書物には陸耳御笠さんともう一人土蜘蛛の首長の名があげられていますが、その名を匹女(ヒキメ)といいます。匹女さんは、途中で朝廷軍に殺されています。
狭山田女:女の土蜘蛛だね。
大山田女:ここでも土蜘蛛の特徴の一つが現れていますね。ただ他の書物にはない特徴もあります。転戦の途中、陸耳御笠さんは雲を起こして空を飛んで逃げたりするのです。
狭山田女:うーん、人間離れしてるね。そりゃあ簡単には倒せないよねえ。
大山田女:これまで見てきた中では、手足が長いとか、小人のようだとか、尾が生えているとか、身体的特徴について書いたものはありました。尾が生えているというのは人間では有り得ない事ですが、あくまでただの外観です。しかし雲を起こして空を飛ぶとなると、もう神の領域ですね。ちょっと近いのは、天孫に助言したら空が明るくなった、というものくらいでしょうか。なかば神話の時代の話とは言え、土蜘蛛にまつわる話はリアルな人間世界の事象として描かれていることが特徴ですから。もっとも陸耳御笠さんが超人的な存在として描かれるのはここくらいで、他はリアルな戦闘の描写ですから、概ね古事記や日本書紀、風土記と共通しています。
狭山田女:戦った後、降参もせず、討たれもしない、というのも今まで見た中にはなかったんじゃない?
大山田女:古事記や日本書紀、風土記では、従うか、討たれるか、降参して許されるか、そもそも戦闘状態にないかの、どれかでしたからね。ただ、丹後の隣、但馬(現在の兵庫県北部)について書かれた「但馬国司文書」「但馬世継記」といった書物にも陸耳御笠さんのことが書かれていて、それによれば陸耳御笠さんは但馬の海岸でついに討ち取られた、とのことです。もっとも、「但馬国司文書」「但馬世継記」といった書物は、「丹後国風土記残欠」よりももっともっと疑わしいものではあるのですが。
狭山田女:じゃあ、陸耳御笠さんの存在も疑わしいのかなあ。
大山田女:ところが、土蜘蛛とは書かれておらず、丹波(丹後の南、現在の京都府北部から兵庫県中東部にあたるが元は丹後も含めて丹波といった)に軍を派遣し殺した、と簡単に書かれているだけですが、古事記に「玖賀耳之御笠」という人の名が記されています。ですから陸耳御笠さんの存在自体は確かなようです。



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