邪神大神宮 道先案内(ナビゲーション)
鳥居(TOP)斎庭(総合メニュー)万邪神殿土蜘蛛宮土蜘蛛御由緒>時間軸・空間軸

時間軸から見る古代の「土蜘蛛」 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
狭山田女:これで古代の書物に書いてある、あたし達「土蜘蛛」の内容をざっと見て来た訳だね。
大山田女:「土蜘蛛」を語る上では、古事記・日本書紀・風土記はほとんど同時期に書かれた日本最古の神話・歴史書として一括りにして良いと思います。「逸文」も風土記と同じものと見なして良いでしょう。「残欠」も、「土蜘蛛」についての内容は古事記・日本書紀・風土記・風土記逸文と基本的には共通性を持っていますから、同時代の伝承と見て良いのではないでしょうか。
狭山田女:こうやって一通り見てみると、「大和」側の人々が名付けた「土蜘蛛」っていうのがどんなもんなのか、分かって来た気がするよ。。
大山田女:そうですね。ここで一度整理してみましょう。まず「土蜘蛛」がいつの時代に現れたのか、並べてみましょう。古事記・日本書紀・風土記は時代を表すのに、基本的に「~天皇の時代」という風に書いていますから、それに従いましょう。
・瓊々杵尊(天より下った天照大神の孫)
・神武天皇(初代)
・崇神天皇(十代)
・景行天皇(十二代)
・神功皇后(十四代仲哀天皇の皇后)
その他、いつの時代なのか不明な記事もありますが、確かなものに関してはこれだけに絞られていると言えます。

狭山田女:土蜘蛛が出てくる箇所はいっぱいあるのに、時代はこれだけに絞られて来るというのは、何か理由があるのかな。
大山田女:これらの天皇について共通しているのは、積極的に何らかの軍事行動を起こしている、ということです。土蜘蛛の記事の多くは朝廷によって征伐されるものですから、当然といえば当然ですが。土蜘蛛のような反逆者がいるから軍事行動を起こしたのか、軍事行動の結果として反逆者「土蜘蛛」が生まれたのか、どちらとも言えませんが、要するにこれらの天皇の時代は朝廷の勢力圏拡大のときだったと言えるでしょう。
狭山田女:勢力を拡大すれば衝突が起きるもんね。その衝突の相手が土蜘蛛だったってことだね。
大山田女:概ねそう言えると思います。一件だけ瓊々杵尊という例外がありますが、瓊々杵尊というのは天上から地上の統治のために降りてきた神です。つまり、天上の地上への勢力拡大ですね。瓊々杵尊と土蜘蛛は争ってはいませんが、地上への勢力拡大の過程で、はじめて「土蜘蛛」が認識されたとも言えます。また日本の神話というのは、神の子孫が人へと移行していく物語ですが、瓊々杵尊という存在ははまさに神が人へと移る第一歩を象徴しています。
狭山田女:そこではじめて土蜘蛛が出てくるってことは、土蜘蛛も「神から人へ」移る時代を象徴しているってことなんだろうか。
大山田女:土蜘蛛は人として書かれていますけど、蔑む形とはいえ、人ではない「化物」としての側面を持たされています。先程挙げた天皇も、人ではありながら神がかり的な力を発揮していたり、神がかり的な事象に取り囲まれたりしています。これは古事記・日本書紀・風土記が書かれた時代から見ても、大昔のことで、半ば神話の時代だからでしょう。土蜘蛛もまた、半ば神話の時代の存在なのです。
狭山田女:半ば神話かあ。そう言えば古事記の「尾の生えている」土蜘蛛と同族っぽい人達は、「国津神」と名乗ってたね。確かに半ば神話の時代だね。
大山田女:先程も話しましたが「国津神」は天上の神々や「大和」側の人達と対立したり滅ぼされることもあったのです。その顕著な例は、瓊々杵尊の天孫降臨の前に行われた「国譲り」。地上の「国津神」に対して天上の「天津神」が勢力拡大を図り、様々な衝突や工作を経て、「国津神」が「天津神」に地上を譲渡する話です。
狭山田女:そう思うと、「国津神」と「土蜘蛛」は同じような立場だね。戦ったり、滅ぼされたり、降伏したり、争いを避けたり。
大山田女:その通りです。天孫降臨の前に、「天津神」と「国津神」の時代があったのです。
狭山田女:天孫降臨の後、「天津神」の子孫は天皇や朝廷の人達になっていく訳でしょ。じゃあ私達土蜘蛛は「国津神」の子孫ってことかあ。
大山田女:天津神と天皇のようにはっきりとした親子関係があるとは言い切れませんが、物語の中心を成す「天津神」が超人的とはいえ「人」になっていくとともに、それに反抗する者も「国津神」から化物のような「人」に概念が変わっていったのだと思います。
狭山田女:「天津神」対「国津神」の世界が「超人」対「魔人」の世界に移っていくんだね。
大山田女:その分岐点が、天孫降臨ということでしょう。時間の観念を軸に私達「土蜘蛛」の存在を分析すると、こういった事が言えますね。次に空間の観念を軸に考えてみましょう。

空間軸から見る古代の「土蜘蛛」 其之壱・周辺部 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
狭山田女:「空間」というと、土蜘蛛が現れる場所のことかな?
大山田女:はい。土蜘蛛が現れたと書かれている場所を列挙していってみましょう。これまでのお話で出てこなかった場所も含めて。
狭山田女:あたし達がいたのは九州だから、南、西の方からがいいかな。
大山田女:そうですね、では概ね南、西の方から。
・日向(宮崎県)
・肥後(熊本県)
・肥前(佐賀・長崎県)
・筑後(福岡県南部)
・豊後(大分県南部)
・大和(奈良県)
・摂津(大阪府北西部・兵庫県南東部)
・但馬(兵庫県北部)
・丹後(京都府北部)
・越(北陸地方)
・常陸(茨城県)
・陸奥(東北地方南東部)
時代と違って場所はかなりはっきりしています。風土記記載のものが多いですから。

狭山田女:もっと日本中に散らばってるかと思ったけど、かなり偏ってるね。ざっと言っちゃえば、九州の北半分、近畿の北半分、北陸・東北・関東の北東。ほぼ三つに分かれるよ。
大山田女:いいところに気が付きました。近畿というのは朝廷のあった「中央」です。
狭山田女:九州の北半分と、北陸・東北・関東の北東は、日本の端と端だあ。
大山田女:そうです。つまり「辺境」であり、朝廷の勢力が辛うじて届く「国境地帯」です。
狭山田女:東北地方の南東部や北陸地方の北側は、勢力圏外だもんね。「蝦夷」の世界だね。常陸は東北地方の南東部の隣だし。
大山田女:その「勢力圏外」、つまり東北地方の北の端の津軽まで勢力圏になるのは、平安時代の末期頃、今から八百年くらい前です。
狭山田女:あたし達土蜘蛛の時代が千五百~千七百年くらい前だから、それから千年くらいも経ってるんだ。古事記とかが出来たのが千三百年くらい前だから、それからでも五百年。古事記とかが出来たのが、土蜘蛛の時代と、東北地方が全部朝廷の勢力圏になる、真ん中くらいになるのかな。
大山田女:大体そんなところです。平安時代には、朝廷と蝦夷の大戦争がありました。戦争と和平を繰り返しながら、少しずつ朝廷の勢力圏が北へ北へと広がっていったのです。土蜘蛛は、時間的にその前のお話になります。
狭山田女:そうだね。今は空間の話と言ったけど……そうか、空間的にも「前」なんだね!
大山田女:そうなのです。大和を中心にしたら、常陸や越、風土記の時代の陸奥は、空間的に手前になります。奥には、その後広げられた陸奥と、出羽があるのです。さて、次に、私達の故郷、九州はどうでしょうか。
狭山田女:九州は東北と同じで日本の端だね。あたし達土蜘蛛がいたのは九州の北半分。南半分は……確かに大和の人達と激しく戦ってたね。南の人達は強かったもんねえ。
大山田女:そうですね。大和の人々が、勢力圏外の東北の人達を「蝦夷」と呼んだように、南九州の人達を「熊襲(クマソ)」と呼びました。日本武尊が女装して屈強な熊襲をだまし討ちにする神話は有名です。南九州も、大和の勢力圏外だったのです。
狭山田女:熊襲って言葉は、動物の熊と関係あるのかな。
大山田女:熊襲の「クマ」は、地域名とか、「勇猛な」という意味だとか言われていますが、土蜘蛛や蝦夷のような侮蔑の意味も込められてはいるでしょう。南九州は、東北に比べたら早くに朝廷の勢力圏になりました。大体千四、五百年くらい前ですね。
狭山田女:すると、土蜘蛛の時代のすぐ後だね。
大山田女:ですが、繰り返し反乱が起きて、大和の人達は手を焼いています。九州本島全域が完全に朝廷の勢力圏になるのは千三百年くらい前。ちょうど古事記・日本書紀・風土記が出来た頃です。
狭山田女:そう言えば南九州の人達は「隼人(はやと)」とも呼ばれてるんだよね。
大山田女:隼人と呼ばれるようになるのは、熊襲よりも少し後の時代と言っていいですね。「隼人の乱」が最終的に鎮圧されたのが、日本書紀が出来た頃です。
狭山田女:「隼人」っていうのも動物と関係あるのかなあ。文字だけ見れば。
大山田女:「隼」ですね。それはどうだか分かりません。ただ「隼人」は蔑称という趣はあまりないようです。今でも使われる「薩摩隼人」という言葉は、強さを誇りにしている自称です。もともと「隼人」は自称なのかもしれませんね。なお「隼人」は、「佐伯」と同じように、その一部は宮廷警護の任に就いています。
狭山田女:「隼人」も「土蜘蛛」と親戚のような関係なのかもね。「蝦夷」と同じように。
大山田女:ちなみに私達のことが書かれている肥前国風土記には、今は五島列島と呼ばれる東の海上の島々の土蜘蛛について書いてありますが、同じ五島列島の別の記事に、その住民が隼人に似ていて、言葉も世間の人とは異なると書いてあります。
狭山田女:東の島にあたし達の遠い知り合いがいたのは覚えてるけど、その子孫が隼人に似ていると、後で書かれてるんだね。隼人っていうのは、土蜘蛛の子孫なのかも……。
大山田女:何にせよ、日本の北東の「蝦夷」の、時間的・空間的「前」に土蜘蛛がいたように、日本の南西の「熊襲・隼人」の時間的・空間的「前」にも、土蜘蛛がいるのです。もっとも、今は失われてしまった他の国の風土記に、土蜘蛛の記事があった可能性もありますが、ほぼ完全な形で残る出雲国風土記には全く記載がありませんし、現代まで残された資料で見ると、九州と北関東・南東北・北陸の辺境部、そして中央の近畿と明らかに偏っているのは確かですから、そこにはそれなりの意味があるでしょう。その意味とは、「蝦夷・熊襲・隼人」の「前」に土蜘蛛がいるということだと思います。

空間軸から見る古代の「土蜘蛛」 其之弐・中心部 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
狭山田女:土蜘蛛の「前」に「国津神」がいたのと同じような感じだね。ところで近畿の土蜘蛛は? 近畿は東北や九州と違って国境地帯じゃないよね。
大山田女:これまでの「辺境」の話で、空間とともに時間も同時に考えてきましたが、ここでも同じように考えましょう。近畿のうち大和・摂津のまさしく「中央」に当たる場所の土蜘蛛は、全て神武天皇の時代です。朝廷、正しくは「朝廷」という言葉は国家の体制が整う、古事記などが書かれたくらいから後について言う言葉ですが、その前の「大和王権」、これを建てたのが神武天皇です。現在の歴史学では実在を怪しんでいますが、神話ではそうです。また仮に十代の崇神天皇から「大和王権」がはじまったのだとしても、崇神天皇にも先祖はおり、また「大和王権」も崇神天皇のときに突然出来たものでもないでしょうから、「プレ大和王権」として基礎の基礎を作った人と考えていいのではないでしょうか。
狭山田女:つまり、時代的には、崇神天皇より昔のことだってことだよね。
大山田女:そうです。崇神天皇の時代には、「辺境」にも土蜘蛛が現れます。先に大和と摂津の土蜘蛛は全て神武天皇の時代と言いましたが、逆に神武天皇の時代には大和と摂津にしか、土蜘蛛は現れていません。
狭山田女:なるほど……あっ、そうか! 神武天皇の時代には、近畿の中央部くらいだけが、「大和王権」の勢力圏だったってことかな?! そりゃま、そうだよね。出来たばかりなんだもの。
大山田女:それよりずっと前、神話の時代に出雲で国譲りが行われたりしているので一概には言えませんが、少なくとも、「プレ大和王権」を建てるのに、近畿中南部で戦闘があったのは確かだと思います。そのとき同族や兄弟が敵味方に分かれることもあったのでしょう。
狭山田女:そうかあ、そのとき敵になったのが長脛彦さんや、土蜘蛛なんだね。
大山田女:「プレ大和王権」の勢力圏が神武天皇のとき、どのくらいの広さだったのかは分かりません。ですが、東北地方は完全に勢力圏外、九州も天孫降臨の地で神武天皇の出身地である日向以外は勢力圏外でしょうね。完全な勢力圏外では「土蜘蛛」が現れ得るはずはありません。「土蜘蛛」という名は大和王権が付けたものですから。大和王権の手の届く範囲にしか、土蜘蛛は現れないのです。
狭山田女:つまり、神武天皇のとき手の届く範囲にあったのが、近畿中南部って訳だね。大和王権が勢力争いをする場所に、あまり従順じゃない人達として、土蜘蛛が現れるってことか。勢力争いをするってことは、そこが「国境地帯」だってことだね。
大山田女:神武天皇の時代は大和王権が出来たか出来ないかの時代ですから、出来る前に国境も何もないのですが、出来るときに戦いがあったのでしょう。神武東征の話をそのまま事実として取れば、突如近畿中南部に攻め入って王権を建てたのですから、元々その場所にあった勢力との間に突然「国境地帯」が生まれたようなものです。そういう意味では、土蜘蛛とは、大和王権の国境地帯に現れる反王権勢力、という定義をしてもいいかもしれません。
狭山田女:その場所が最初は「中心」の大和で、後では「辺境」かあ。時間とともに空間が遠くへ移っていくんだ。ああ、そういえば北近畿の丹後や但馬は?
大山田女:同じ近畿でも、このあたりは「プレ大和王権」の勢力圏外だったのではないでしょうか。南近畿からは山を隔てた向こうですし、神武天皇が紀伊半島を回りこんだように、船で行くことも現実的ではありません。関門海峡か津軽海峡まで行くことになりますから。
狭山田女:大和から簡単に行ける場所じゃないってことだ。
大山田女:それからここには既に一定の勢力があったのだと思います。このあたりは古くから船で大陸と交流があったようですから、文化レベルも高かったでしょう。古代では、日本海側は朝鮮半島と直接船で行き来が出来る分、いち早く進んだ文化が入って来るのです。出雲もそうですし、稲作が最初に始まった北部九州、日本で唯一ヒスイが取れる越、神話・歴史・考古学、どの観点からもそう言えます。実際、丹後で最も有力な神社には、漢の時代の鏡や日本最古の家系図などが伝わっているのです。このあたりに大きな勢力があったのは間違いないと思います。
狭山田女:簡単に行けないだけじゃなく簡単には倒せないってことだね。
大山田女:それが崇神天皇の時代に、勢力圏になったということでしょう。そのときに支配を受け入れない人達もいました。
狭山田女:それが陸耳御笠さん達なんだね。
大山田女:その後の大江山の鬼の伝承などからして、このあたりは火種がくすぶり続ける、紛争地帯だったのではないでしょうか。内側にある国境地帯のようなものです。
狭山田女:大和王権ともめる場所に土蜘蛛が現れる訳だ。
大山田女:衝突まで行かなくとも摩擦が起きて緊張が高まったり……常に戦いになる訳ではありませんが、土蜘蛛というのは大和王権と緊張関係にあった勢力、といえば全ての土蜘蛛に当てはまるかもしれません。
狭山田女:あたし達もそんなようなもんだしね。でも崇神天皇の時代にはもっと遠くでも土蜘蛛が現れてるから、この頃に勢力が一気に広がったのかな。
大山田女:そうでしょうね。「プレ大和王権」が本格的な「大和王権」になるような、大きな動きがあったのだと思います。王朝が替わったのではないかという説もあります。
狭山田女:王朝が替わった? 神武天皇と崇神天皇は別の勢力ってこと?
大山田女:何らかのつながりはあるのでしょうけどね。神武天皇、つまりは大和王権の故郷・日向を含めた南九州に、繰り返し征伐を行わなければならなくなったことと、もしかしたら関係しているかもしれませんね。日向は隼人も現れるくらい、勢力の及びにくかった土地でもあります。
狭山田女:でも、兄弟でも敵味方に分かれることもあるし。
大山田女:そうですね。先祖は一緒でも、遠い昔に分かれてしまって、ついには戦い合ったのかもしれません。神話では、瓊々杵尊の子供同士が、戦争にも等しい大規模な兄弟喧嘩をしていますし、そのときの兄のほうは隼人の先祖だと書かれています。
狭山田女:隼人?! 国津神の後継者の土蜘蛛の、そのまた後継者のかもしれない隼人が、天津神の子孫なの? 複雑だなあ。
大山田女:そもそも神話では天津神と国津神だってルーツは同じですからね。本当は全然別だった神同士が、政治的な都合などで、血縁関係を持っていることにされてしまう、というようなことが神話が作られていく過程ではよくあります。特に古事記・日本書紀・風土記などが書かれたときにそういうことが起きたことは、現代でも指摘されています。日本というのは海の向こうの色々な場所から人がやって来て出来た国ですから、今は兄弟になっている神同士でも、実は元々全然別の民族の神だった、ということもあるでしょう。
狭山田女:さっきの東の島の隼人に似た人も、違う言葉をしゃべる、ってことだったもんね。
大山田女:北の方の蝦夷とは何人か通訳を介しても言葉が通じない、という話が朝廷の記録にあります。これも同じようなものですね。土蜘蛛には大和王権と人種の異なる人達もいたのでしょう。逆に、大和王権と親戚の関係にあった土蜘蛛もいたかもしれません。政略結婚などもあったでしょうし、王権の内部で勢力争いに敗れて逃げた一族などという可能性もあります。ただ土蜘蛛と呼ばれるからには、たとえ大和王権側の人々と親類だっとたとしても、一時的にせよ王権側と緊張関係にあった人達だと思います。
狭山田女:日向といえば、時代的には一番古い土蜘蛛が出てくる場所だったね。
大山田女:神武天皇が「プレ大和王権」の創始者とすれば、そのときの瓊々杵尊というのは、そのさらなるルーツとなる共同体を作った人かも知れません。「日向王権」とでも呼ぶような。そのとき、一時緊張関係が走った相手が、土蜘蛛なのかもしれません。ただ日向の例に限らず、土蜘蛛に対しては緊張関係以前に軽視しているようなところがありますね。今で言えば「田舎者」のような。
狭山田女:田舎モン?! うー、確かに大和から見たらあたし達田舎モンだけど。
大山田女:要するに「辺境の民」ということです。瓊々杵尊にとっても、神武天皇にとっても、「田舎者」に見えた人達を「土蜘蛛」と呼んだ……だとしたら、戦いにならない場合があるのも、蔑称だというのも納得できますね。
狭山田女:うー、別の意味で納得できないけど。
大山田女:話が脱線しましたけど、一応空間論に戻ってこれましたね。土蜘蛛の、他の特徴についても考えて見ましょう。



最初に戻る 次の項へ 八束脛門へ戻る