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土蜘蛛紀行一覧 



土蜘蛛紀行 豊後編
其之弐、石井
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狭山田女:ここはどこかの交差点だね。
大山田女:天ヶ瀬から玖珠川を下って来た、石井というところです。五馬市の北西約十五キロ、現在では同じ日田市内になっています。
狭山田女:同じ日田市内って事は、五馬媛さんに関係あるのかな?

大山田女:いえ、五馬媛さんとはまた別ですが、やはり風土記に土蜘蛛がいたと書いてある場所です。詳しくは詳細はこちらに。
狭山田女:どれどれ……昔、この村に土蜘蛛の砦があった。石を使わず、土で築いていた。そのために「石なしの砦」といった。後世の人が石井の郷というのは、誤っているのである、と。

大山田女:この話を聞いて、何か思い出すことはありませんか?
狭山田女:う~ん、どっかで聞いた話だけど……あ、思い出した、あたし達の隣の里の「小城」だ。肥前国風土記に、同じように土蜘蛛が砦を築いたって話があったね。
大山田女:そうです、そうです。砦の事を古語で「をき」と言い、それで地名も「をき」と言うと。今も「小城」という地名が残っていましたね。今では「おぎ」と読みますが。実は豊後国風土記でも、砦の事を「をき」と書いています。
狭山田女:すると全く同じ話だね。地名の由来だし。
大山田女:違うところとしては、ここでは「石なしの砦」というところですね。
狭山田女:土の砦だと書いてあるね。
大山田女:いわゆる「土塁」というものですね。土を盛ったものです。古代から近世まで、日本の城郭や集落などによく作られました。現代の人は、川の堤防のようなものをイメージすると、分かりやすいかもしれません。あるいは石のない石垣とか……石のない石垣というのも変ですが、風土記の「石のない砦」も似たような観点で書かれています。石垣というのも、土盛りの表面を石で覆ったもので、原点は土塁ですね。
狭山田女:何にしても砦だし、防御用のものだよね。吉野ヶ里で見た環濠みたいなものかな。
大山田女:上に盛るか、下に掘るか、という違いはありますが、目的は同じですね。ちなみに先に堀を作り、そのときに掘った土を盛って土塁を作るというパターンも結構多いようで、土塁と堀がセットになっている事もよくあります。
狭山田女:すると、ここにも吉野ヶ里みたいな環濠があったかもしれないんだ。
大山田女:あるいはそうかもしれません。もっとも、今のところそういった遺跡は発掘されていないようですが……ただ、これに関しては、私に少し思うところがあります。ちょっとあちらに行ってみましょう。

狭山田女:大きな川が流れてるねえ。
大山田女:石井の北側を流れる、九州一の大河、筑後川です。このあたりでは三隅(みくま)川と呼ばれます。天ヶ瀬の方から流れてきた玖珠川や、五馬の西を流れる大山川、その他様々な川が、この日田盆地で合流して、巨大な筑後川となります。

狭山田女:なるほど。日田って場所は山に囲まれた、川だらけの土地なんだ。
大山田女:はい。川が沢山あるという事は、それだけ生活に使える水があるという事で、人が住むには良い場所です。舟を使えば遠方への移動も容易です。その上、合流地点を上手く使えば、敵に対する防御にもなりますね。
狭山田女:そうだね、周りを川で囲まれてる場所は攻めにくいもんね……って、それ、吉野ヶ里の環濠みたいだね。あそこは、人工的に作った堀で、街を囲ってたもんね。自然の川も利用しながら。川を使って交易して、市も開いてた。
大山田女:そうなのですよ。同時に、川がいくつも合流して、このような大河になる場所は、洪水にも悩まされます。そうなると、堤防も必要になってきますね。先程土塁と堀はセットになる事が多いという話をしましたが、ここの場合は、川の堤防を作ると、そのまま堀と土塁が出来る事になります。
狭山田女:そっか!堤防も必要だもんね。それはそのまま砦になるよ。
大山田女:しかも、石井のすぐ近くには、中ノ島という、旅館や老人ホームなどが建っている、巨大な中洲もあります。例えばそういう中洲に集落を作れば、川と堤防に囲まれて、生活や農耕のための水も自由に使える、優れたものになりますね。しかも、この中洲には井戸水もあり、今も汲み上げられて「日田天領水」というブランドで売られています。この井戸はそんなに古いものではないでしょうが、昔から掘れば水が湧く事は知られていたかもしれません。
狭山田女:うん、確かに。そんなに大きな中洲なら、まるごと集落に出来るよ。
大山田女:ただ、これだけ大きな川で、しかもいくつもの川の合流点となると、度々氾濫も起きて、川の流れもよく変わりますので、古代の地形が今と同じということはないでしょう。洪水で一夜にして流域が荒廃してしまうという意味で、「一夜川」とも呼ばれるような川ですからね。そういう意味では、中洲に集落を作るのは、危険でもあります。
狭山田女:う~ん、確かに。防御どころか、自滅しちゃうね。
大山田女:ですから、さすがに中洲に集落を作ったかどうかは疑問ですけれど、もし、「土蜘蛛」と呼ばれる人々が防御地点を築いたのなら、何らかの形で筑後川を利用したのではないかとは思うのです。
狭山田女:どうせ堤防を作る必要はあるもんね。むしろ堤防が、結果的に砦になったのかもしれないし。
大山田女:あるいは、川のすぐ近くまで山が迫っていますので、そちらに砦を築いたのかも知れませんけどね。しかし、川と山に挟まれた若干の平地があるのが、この石井という場所の特徴です。北に大河があって、他は全て山です。これはこれで防御に都合の良い場所です。大河の側に堤防兼用の土塁を築けば、防御度はより高くなります。これが答えかもしれませんね。
狭山田女:そう言われると、中洲なんかよりはよっぽどいい気がするよ。洪水が起きたら、山に逃げ込めばいいし。
大山田女:もう一つ注目しておきたい事は、この川と山に挟まれたわずかな平地に、古代の遺跡もあるのです。それも見てみましょう。
狭山田女:えっ、遺跡があるの。それは見なきゃ。

大山田女:こちらがその「ガランドヤ古墳」です。
狭山田女:あのブルーシートがかぶせてあるのは?
大山田女:古墳の石室でしょう。ガランドヤ古墳は、石室の上を覆っていた土、封土と言いますが、これが完全になくなってしまっていて、石室が露出しているのです。シートがかぶせてあるのは、調査の途中か何かなのでしょうね。

狭山田女:折角石室が露出しているのに見れないのは残念だけど、石室の形は分かるね。
大山田女:ええ。石室に彩色が施された、装飾古墳だったようですね。これだけの石室でしたら、墳丘自体もそれなりの大きさがあったことでしょう。全部で三基の古墳があるようですね。

狭山田女:こんな古墳が残ってるって事は、古代、石井にそれなりの勢力があったって事だね。それに古墳があるって事は、この「川と山に囲まれた小さな平地」が、昔からあったって事だ。
大山田女:ええ、そうです。風土記にある土蜘蛛のお墓かどうかは分かりませんが、少なくとも古代に栄えた場所である事は間違いありません。封土がなくなってしまったのは、度重なる洪水のせいかもしれませんが、それでも、ここに古墳を築いたという事は、多少の洪水では水の乗らない場所であったのでしょう。そうでなくては古墳を作ろうとは思いませんからね。
狭山田女:もしかして、この石室を覆ってた「土盛り」自体が、風土記にある「砦」だったのかな。三つも連なってたんだもんね。言い伝えが変わって「砦」と言われるようになったとか。
大山田女:その可能性もありますね。ただ、「石なしの砦」としては妙ですが。少なくとも石室に石は使われている訳ですから。
狭山田女:そういやそうだね。でも、風土記に土蜘蛛について書いてある場所に、こうやってピンポイントに古墳があるってのは、何か関係あるんだろうね。五馬と同じだもんね。
大山田女:はい。まさにピンポイントの場所ですし、関係ないという事はないでしょう。なお、この日田全体に関して言えば、古代から栄えていた事が、他の遺跡からも窺えます。弥生時代に日本にもたらされた、中国の鉄の鏡なども出土しています。銅鏡ですら貴重だった当時、鉄鏡と言えば至高の宝物、神器と言えるものだった事でしょう。しかも、この鏡には金や宝石まで使われているのです。
狭山田女:鉄の鏡に金や宝石!ただ事じゃないね。そんな鏡がその時代に日本にあった事自体が驚きだよ。
大山田女:並の権力者ではないでしょうね。卑弥呼が使った鏡という説もある程です。日田に邪馬台国があったと言う人もいます。
狭山田女:何だか大きな話になってきたなあ。確かに、そんな鏡が出てきたなら、邪馬台国だと言われても不思議じゃないけど。
大山田女:日田という場所は、筑後川を水路として活用して発展してきた歴史があり、古代にも同じ事が言えるでしょう。筑後川を降って行けば、はるか私達の故郷の近くまで行く事もできます。筑後川の河口は、現代では佐賀市と福岡県柳川市の境界になっています。
狭山田女:確かに東の大きな川は昔から有名だったけど、こんなところを流れていたんだ。
大山田女:何と言っても「九州一の大河」ですから。流域は古代から栄えています。吉野ヶ里遺跡も筑後川流域ですからね。ここで風土記に話を戻しますが、「日田」という地名の由来として、久津媛(ヒサヅヒメ)という神が登場します。九州各地で土蜘蛛等を討伐したと日本書紀や風土記に書かれる景行天皇が、日田にやって来たとき、久津媛が人となって現れ、天皇を出迎え、この土地についての情報を提供したと。
狭山田女:女神と景行天皇かあ。まるで五馬媛さんの話みたいだ。
大山田女:そうですね。久津媛の場合は、仮に人の姿をとった神として描かれていて、土蜘蛛と呼ばれている五馬媛さんとは扱いがまるで違いますし、五馬媛さんを景行天皇が祭ったという話は、あくまで地元の言い伝えで、風土記に書かれている訳ではありませんが、土蜘蛛と女性が出てくるという点は、五馬と同じです。
狭山田女:久津媛も、巫女だったんだろうね。
大山田女:ええ、女性シャーマンを神格化したものだと思います。ただ、わざわざ人に化身した神と書かれる理由は、何かしらあると思いますが。出土した金と宝石を使った鉄鏡の持ち主は、久津媛だったのかもしれませんね。並の権力者でなかったのならば、化身した神という丁重な扱いにも納得できます。卑弥呼の事ではないかと言う人もいますが、故なき事ではないですね。久津媛を祭る會所(よそ)神社が、石井の東三キロほど、筑後川の対岸に、今も鎮座しています。
狭山田女:なんだか、あたし達のヨドヒメ様に似てるような気もするなあ。
大山田女:川の側に祭られていますしね。もっとも、ヨドヒメ様は、荒ぶる神として風土記に書かれていますけど。
狭山田女:それにしても、女神や巫女の言い伝えが多いところだね。肥前と同じだ。
大山田女:豊後も肥前に負けず劣らず、女神や巫女が風土記に登場しますからね。そして、土蜘蛛の伝承のあるところには、女性シャーマン、首長の影がちらつく事が多いのです。まるで卑弥呼のように……。


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狭山田女:あたし達自身が「土蜘蛛の巫女」だからなあ。大和の人達が「土蜘蛛」って呼んだのは、巫女を中心にした古い習わしを守る人達の事なのかもしれないね。五馬なんかは、古墳からもそれが分かったし。
大山田女:そうですね。肥前や豊後の土蜘蛛伝承地を巡って行くと、そうした土地によく行き着きます。石井への行き方は、左の地図を参照して下さい。



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