古代土蜘蛛一覧(豊後国風土記)
■豊後国風土記
●土蜘蛛
○掲載箇所:日田(ひた)郡
○登場地:石井(いしゐ)の郷
○比定地:大分県日田市石井(いしい)
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昔、この村に土蜘蛛の砦があった。石を使わず、土で築いていた。そのために「石なしの砦」といった。後世の人が石井の郷というのは、誤っているのである、という地名由来。
土蜘蛛が砦を築く話は肥前国風土記にある(詳細は
こちら)が、ここも同じような説話となっている。ただしいつの時代のことで、どういう争いが起きたというようなことは書かれていない。
大分県日田市は北部九州中央の山間部に開けた盆地で、石井は九州一の大河、筑後川に面している。ここにはガヤンドラ古墳をはじめいくつかの古墳や古代遺跡があり、古代には栄えていた地域である。ここの地の繁栄の礎を築いたのであろう。ここでいう土塁は、地の利を生かして筑後川の河畔に築いたか、川の背後に控える山にでも築いたのであろうか。筑後川は氾濫を繰り返し何度も流れを変えているが、特に日田には中ノ島という人が住むほどの大きな中州があるほどで、この川は防衛に十分生かすことができたろう。
この土蜘蛛の話の前には、日田郡名の由来が書いてある。景行天皇が熊襲征伐後凱旋し、この郡にやってきたとき、久津媛(ヒサヅヒメ)という神が人の姿をして出迎え、地域の状態を明瞭に報告し、それによって久津媛の郡というようになり、訛って日田郡というようになった、と。この久津媛は土着のシャーマン的女性首長で、地域の状態を明瞭に報告するという行為は、天皇への服従を意味すると言われる。だとすれば、「人の姿をした神」とまで称えられた久津媛は余程の貢献をしたのであろう。土塁を築いた土蜘蛛との関係は不明だが、おそらく近い関係なのだと思われる。いずれにしても古代、日田には一定の勢力があったことは間違いない。
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●五馬媛(イツマヒメ)
○掲載箇所:日田郡
○登場地:五馬山
○比定地:大分県日田市天瀬町五馬市(いつまいち)
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昔、五馬山に土蜘蛛がいて、名を五馬媛といった。だから五馬山という、と、簡単に地名由来が記されている。
風土記の内容からは、特に詳細な情報は伝わってこないが、筑後川の支流、玖珠(くす)川畔にある名湯・天ヶ瀬温泉の南方の台地上に、五馬高原と呼ばれる場所がある。ここには、五馬媛を祭る神社や墳墓など、伝説を伝える様々な場所があり、今も五馬の氏神様として敬われている。この地域には宇土古墳群という古墳もあり、二基の石室から計五人分の人骨が出土して、これら全て血縁関係にあったことが分かっている。しかも、五人のうち三人は女性で、両石室とも最も高齢なのは女性であり、最初に葬られたのも女性である。つまり、一番初めは女性のために造られた古墳であり、古代、この辺りでは女性が権力者として重要視されていたということが分かる。そういった理由もあり、この古墳こそ五馬媛の墓ではないか、という人もいる(墳墓といわれるものは別に存在する)。
また、五馬媛を祭る神社の社伝では、何と景行天皇が五馬媛を祭ったことになっており、謎が深まる。いずれにしても、前項の久津媛と並んで、この地域の有力な女性シャーマンであったことは間違いないだろう。豊後は肥前と並んで女性シャーマン、首長が目立つ土地である。卑弥呼がいたとも言われる九州だけのことはある。
風土記自体の記述は少ない五馬媛だが、このように今も地元で独自の伝承を持ち、敬われてるというところに最大の特徴があると言えるだろう。
なお、五馬山というのが具体的にどの山を指すのかは不明だが、五馬高原は谷底の天瀬から見れば急峻な山であり、いまもその名を冠する「五馬」地域そのものを指すのではないかと思われる。
五馬媛に続いて、同じ五馬山の記事として、天武天皇の時代、大地震で山が崩れ、あちこちに温泉が湧いたと書かれている。湯の噴出に「いかり」という言葉を用い、神威を感じさせている。また、ご飯を炊くのに使えば早く炊けるとか、水の色は濃い藍色であるとか、突然泥を高く噴き上げるなど、細かな描写が続いている。日本書紀にも天武七年に九州で大地震があり、大地が裂け、家が崩れたと書かれており、これは史実と見られている。五馬から上述の天ヶ瀬温泉までは二キロの近さであり、今も豊富に谷底から湯が湧く有名な温泉で、他に近くに有力な温泉もないので、天ヶ瀬温泉こそが風土記に記された温泉ではないかと言われている。ただし、温泉は地殻変動により噴出場所が移動するので、確かではない。ただ、同じ温泉脈ではあるだろう。五馬媛は、こうした大地の神威を人々に伝えるシャーマンであったのだろう。
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●打サル(ウチサル、「サル」は「けものへん」に「爰」)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)
○掲載箇所:直入(なほり)郡(及び速見(はやみ)郡)
○登場地:禰疑野(ねぎの)
○比定地:大分県竹田市今(いま)の禰疑野神社周辺
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日本書紀の景行天皇による征伐の話(詳細は
こちら)と大筋では同じだが、細部で多少異なるところがある。順を追って風土記の伝承を見ていこう。
禰疑野という地名の由来。ここにいた打サル・八田・国摩侶を自ら討とうと思ってこの野に来て、言葉をかけて兵士全員をねぎらったので、禰疑野という。
神意を問うて石を蹴り、柏の葉のように舞い上がるというのは、日本書紀と同じで、地名由来が付いているくらいの違いのみ。
その次に、球覃(くたみ)の郷というところで、料理人に泉の水を汲ませたが、そこにはオカミ(=水神)がいて、天皇が「きっと臭いにおいがするはずだ。決して使うな」と言った。だから球覃という、といった、直接土蜘蛛には関係ないが、やはり神秘的事象にまつわる話が出てくる。
球覃の郷には宮処野(みやこの)という場所があり、天皇が土蜘蛛を討つ時にここに仮宮を建てたので、宮処野という、という話がある。日本書紀では、来田見邑(くたみのむら)に仮宮を建て、土蜘蛛を討つための群臣と協議した事が記されている。
直入郡の景行天皇、土蜘蛛にまつわる記述は以上だが、速見郡では、日本書紀と同じく、到着した景行天皇を首長の速津媛が迎え、青・白と打サル・八田・国摩侶の五人の土蜘蛛が天皇に従わない、という報告をする記事がある。続いて、天皇は兵を派遣し、敵の拠点の交通を遮り、全て罰し滅ぼした、こういうことによって速津媛の国といい、後世の人が改めて速見郡という、と書かれている。
以上の通り、大筋は同じで話だが、風土記独自の伝承は上の通り。逆に風土記にないところを拾えば、一旦退却する程の激戦の模様や、まず八田が破られ、打サルが降伏し命乞いしたが、許されず谷に身を投げたという、戦いの顛末の詳細ということになる。こうして比較してみると、互いにない箇所もあるが、それほど矛盾するところもない。時系列で書くか、地理に焦点を当てて書くかという、書物の性格の違いから来るもののように思われる。強いて言えば、日本書紀では激戦の模様を描いて、天皇の力強さを強調したようにも取れるが、それならば退却の話は不要だろう。結論としては、両者を合わせ補完して読むのがいいのではないかと思う。
遺称地としては、上に挙げた通り、竹田市に禰疑野神社があるが、近くに、蜘蛛塚と呼ばれる、土蜘蛛の墓と伝えられる小古墳がある。また、同じく竹田市に宮処野神社、一旦退却したという城原(日本書紀では「きはら」、現在の地名は「きばる」、竹田市)には城原八幡宮があるが、三社はいずれも遺称地として景行天皇を祭神としている。このように今も数多くの伝承地を持つ土蜘蛛伝承である。根拠地となった禰疑野の近くには、国指定史跡の七ツ森古墳群があり、この地域に古代、一定の勢力があることを物語っている(七ツ森古墳群は、土蜘蛛との戦闘で戦死した皇軍の兵士の墓とも、土蜘蛛自身の墓とも言われている)。
なお、禰疑野は、大分方面から阿蘇山へ向かっていくメインルート上にある。阿蘇を挟んだ西側にも打猴という同名の土蜘蛛が討伐された伝承(詳細は
こちら)を考えると、朝廷に従わない九州の勢力の中心地は、阿蘇山にあったのではないか、という気もしてくる。熊襲は熊本から鹿児島・宮崎に掛けて勢力を張っていたようなので、それもあながち間違いではないかもしれない。
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●青(アヲ)・白(シロ)
○掲載箇所:大野(おほの)郡(及び速見(はやみ)郡)
○登場地:鼠石窟(ねずみのいはや)、血田(ちだ)
○比定地:鼠石窟=不明
血田=大分県豊後大野市緒方町知田(ちだ)
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日本書紀と同じく(詳細は
こちら)、景行天皇を迎えた速津媛が打サル・八田・国摩侶とともに語る土蜘蛛である。郡記載の順番上、豊後国風土記では直入郡の打サル・八田・国摩侶が現れ、次に大野郡の青・白、それから二郡飛んで速見郡で速津媛の語り、と、時系列で書く日本書紀と順番が逆になるが、話の筋はやはり同じである。
大野郡では、海石榴市(つばきち)・血田(ちだ、日本書紀での読みは「ちた」)の地名由来として、景行天皇が鼠石窟の土蜘蛛を討つ話があるが、これは細部の表現まで日本書紀とよく似ている。ツバキで武器として木槌を作ったところが海石榴市、土蜘蛛を討って血が流れくるぶしが没する程になった場所が血田、という訳である。打サル・八田・国摩侶のように、どちらかで欠けている話もなく、全く同一といっていい内容だ。違うところは、打サル・八田・国摩侶と共通で、速見郡にある、景行天皇が着いて速津媛が出迎えた場所(日本書紀では単に速見の邑、風土記では海部郡の宮浦)と、景行天皇のここまでの経路である(日本書紀では山口県中部から福岡県北東部を経由して来るが、風土記では途中の経路は特になく、山口県中部から経由地がなく、直接宮浦まで渡航して来るような表現)。日本書紀の経路だと一旦南下して北に戻る形になるし、風土記では速見郡の地名説話にも関わらず別の郡が舞台になっているという問題もなくはない。が、土蜘蛛自体、特に青・白に関しては日本書紀でも風土記でも細部までほとんど同じ話なのは確かである。
ツバキの木槌を武器とするのは若干不思議な感じもするが、日本書紀・風土記とも、青・白を倒す前に「山に穴を開け草を払って」という表現が出て来るし、風土記には前項にも書いたように「交通の拠点を遮って」という表現があるので、木槌は味方の進路の確保と敵の通路遮断のための、土木作業のためのものとも思われる。
地理的なことで言えば、鼠石窟は不明だが、風土記では青・白を大野郡、打サル・八田・国摩侶を直入郡と書きか分けており、日本書紀では青・白を先に討伐している。大分市から大野川を遡れば直入郡のほうが奥地に当たるので、一致している。ただ、仮宮のあった球覃(くたみ)に戦に先立って入ったことを考えると、直入郡が先になってしまう。それを考えると、大分市から大分川・芹川を遡って球覃に入ったと考えるのが妥当か。同じ直入郡でも宮処野は芹川上流、禰疑野は大野川上流と水系が異なるのである。まず宮処野に入り、そこから南東に山を越えて豊後大野市で青・白を倒し、そこから大野川水系を遡って禰疑野に入ったか、再度宮処野に戻って、南下して禰疑野に至ったかというところだろう。さらに途中城原への撤退もあったようだ。石が柏の葉のように舞った場所を竹田市荻町柏原辺りとすると最も南西の奥地で、少し無理のある感もあるが、これがどのタイミングで行われたか(青・白討伐の前か後か)不明なので、青・白討伐後であれば、柏原に至り、南から禰疑野に攻め入ったということも考えられる。もっとも、石が舞ったという蹶石野(ふみいしの、又はくゑいしの)の比定地は、宮処野よりも北にも候補地がある。
日本最古級の書物に書かれた「伝説」なので、そこまで詳細に考察することにどれだけの意味があるかは分からないが、このような考察も可能なほど、戦の顛末が詳細に書かれている、珍しい記事なのである。土蜘蛛との戦いに関する記事では最も詳細と言える。青・白と打サル・八田・国摩侶の話は切り離さず一連のものとして捉えるべきだろうが、そうして捉えてもただの伝説とは思えない。実際に景行天皇が征伐したかどうかはともかく、古代、大分県南部で大和王権側と土着勢力の間で激しい勢力圏争いがあったのは確かだと思われる。
なお、景行天皇に皇命に従わない土蜘蛛の報告をした速津媛も、やはり日本書紀の「神夏磯媛」(詳細は
こちら)や肥前国風土記の「速来津姫」(詳細は
こちら)と同様、いち早く王権に服従した在地勢力で、元は土蜘蛛と同族だったのではないだろうか。彼女達は単に早々に王権に服従しただけでなく、在地勢力間にも争いがあって、その争いに勝つために王権側に組したとも考えられる。また、戦った後、子孫が許された場合にも、その祖となる土蜘蛛に「神」の名を冠す例が陸奥国風土記逸文(詳細は
こちら)にある。
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●小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)
○掲載箇所:大野郡
○登場地:網磯野(あみしの)
○比定地:大分県豊後大野市朝地町(あさじまち)綿田(わただ)阿志野(あじの)
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大野郡で、青・白討伐に続いて書かれる。景行天皇がこの里に来たとき、小竹鹿奥・小竹鹿臣という土蜘蛛がいた。二人は天皇に奉る食事を作ろうとして、狩をしたが、その狩人の声が大変やかましかった。天皇は「大囂(あなみす、やかましいの意)」と言った。よって大囂野(あなみすの)といった。今、網磯野というのは、これが訛ったものだ、という地名由来。
この場面は日本書紀になく、風土記独自のもので、どのタイミングなのか分からないが、地理的に土蜘蛛討伐時には違いない。この二人の土蜘蛛は天皇に極めて従順で、食事を出そうとしているが、その狩のときのうるささが、天皇の気に入らなかったようだ。山間部の土蜘蛛と呼ばれる狩人のことだから、蛮習とでも映ったのであろう。「辺境の蛮族」と侮られている感がある。が、この二人も土蜘蛛と呼ばれながら敵対者ではない。土蜘蛛とはどういう者で、どう朝廷側に思われていたのかを示す、好例だ。
網磯野の比定地として豊後大野市朝地町綿田阿志野が挙げられているが、風土記には「郡の西南」と書かれているにも関わらず、阿志野だと西北ということになる。そのためこの比定地も確かではない。が、他に有力な比定地も今のところ挙げられていない。
数は肥前国風土記に及ばないものの、多彩な土蜘蛛について詳細に記す、豊後国風土記に書かれている土蜘蛛の記事は、以上である。
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