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土蜘蛛紀行 肥前編
其之参、見借
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狭山田女:着くのが遅くて、暗くなって来ちゃったね。ここはどこかな?
大山田女:佐賀県北西部、玄界灘に面した唐津市の、少し南の山の中へ入った、見借(みるかし)という場所です。
狭山田女:見借!海松橿(ミルカシ)ちゃんの故郷かあ!
大山田女:ええ、バス停の名前をよく見て下さい。

狭山田女:これで「みるかし」って読むんだ。凄いね。今も海松橿ちゃんの名前が残ってるんだ。
大山田女:詳しいことはこちらに書いてありますが、風土記に景行天皇の部下に滅ぼされたと書かれる、海松橿媛(ミルカシヒメ)の故郷が、ここですね。
狭山田女:地元の人も海松橿ちゃんの名前を忘れずに伝えて来たんだね。

大山田女:私達の山田の里から直線距離にして二十キロ以上、幾重もの山を隔てたこの場所を、当時私達も「海松橿さんの里」としか認識していなかったので、海松橿さんがいたから見借という地名になったのか、見借の人だから海松橿さんという名前だったのか、どちらが先かは分かりません。ただ、こうして土地の名前が忘れられずに伝えられてきた背景には、自分達の祖先である海松橿さんに対する敬意の念があったのでしょう。それがたとえ「天皇の部下に滅ぼされた」と国の公式記録に書かれるものであっても。
狭山田女:きっとそうだよね。あたし達の山田の里も、今も地名が残ってるもんね。
大山田女:風土記には、天皇の部下が海松橿さんを討ったとき、このあたりに霞が立ち込めていたので、霞の里と名付けたのが、時代が下って「賀周(かす)の里」と呼ばれていると書いてあります。一方、海松橿さんの事は書いてあっても、見借という地名があるとは書いてありません。風土記の立場から言えば、ここはあくまで「賀周」という名前の土地なのです。
狭山田女:でも、今は「賀周」という地名じゃないよね。「見借」だもんね。
大山田女:はい。本当かどうかは分かりませんが、大和王権側で名付けたという、「賀周」という地名は、地元の人にも忘れられて廃れてしまったのです。しかし、元々地名だったかどうか定かでないにしろ、王権に討たれた海松橿さんの名前にもなっている「見借」という地名は、忘れずに伝えられ続けて来たのです。
狭山田女:う~ん、そうやって比べてみると、この土地の人達が海松橿ちゃんを忘れずにいようとしたんじゃないか、って気がますますするね。海松橿ちゃんは地元で慕われていたんだねえ。
大山田女:もっとも、「みるかし」の「みる」を省略すれば「かし」、これが少し訛ったら「かす」ですから、実は同じ地名なのかもしれませんけどね。ちょっと東の方へ歩いてみましょう。

大山田女:唐津は、南の山々が北の海岸線近くまで迫っている場所です。この見借という土地は、南の山から北の海へ流れる佐志川(さしがわ)が作った谷になっているのです。
狭山田女:向こうが、北の海の方角かな。谷なら、霞とか霧もよく出そうだね。
大山田女:そうですね。「賀周」という地名も故なきものではないでしょう。

狭山田女:それと、この谷なら、戦のときに守るにはいい場所だね。三方が山で、北は海に向かって急な坂だもんね。攻めにくい場所だろうね。
大山田女:討伐軍も手こずったのではないでしょうか。だから伝承が強く残り、風土記に書かれたのかもしれませんね。さらに広い範囲で見ると、唐津の海は山に囲まれた湾になっていて、これまた北からしか入ってこれない場所なのです。海松橿さんのずっと後の時代ですが、この辺りは地元の豪族達が組織した松浦党(まつらとう)という強力な水軍の拠点になりました。防衛という観点からはとても都合の良い土地なのでしょう。また東の山の向こうには松浦川(まつうらがわ)という大きな川があって、その川が運んだ土砂が河口に堆積し、虹の松原という大きな砂浜になっています。山に囲まれた波静かな湾の一番奥には砂浜があって、交易するのにも良い場所なのでしょうね。実際、古くから大陸や半島との交易拠点でもありました。
狭山田女:だから水軍の拠点になったんだ。
大山田女:今から七百年程前の鎌倉時代、中国を支配下に治めたモンゴルが日本に攻めて来ました。いわゆる元寇ですが、そのとき松浦党を率いて戦った武将は、佐志房(さしふさし)という名前でした。
狭山田女:佐志!見借を流れてる川と同じ名前だ。このあたりの人だったんだね。
大山田女:はい。佐志川の下流、見借の南隣の海に面した土地は、今も佐志という地名です。
狭山田女:へ~、でもそんな水軍の棟梁の出身地が隣にあるって事は、このあたりの人は昔から海へ船で漕ぎ出してたんだろうね。大陸や半島との交易拠点って言ってたし。当時、あたし達も詳しい事は知らなかったけど、海松橿ちゃん達の領域は海まであったんじゃないの。本拠地がここだったってだけで。
大山田女:そうですね。いかに谷とは言え、海まではたった三キロ程の距離で、それも佐志川で直結してしますからね。風土記の作者が海松橿さんの名前に「海」の字を使ったのも、それなりの意図があっての事かもしれません。さて、それでは、もう少し東の、山に面したあたりまで行ってみましょう。

狭山田女:見借庚申様前(みるかしこうしんさままえ)ってバス停があるよ。
大山田女:庚申というのは、簡単に言うと、暦上の特定の日をタブーとして、その晩は眠らずに過ごすという信仰です。また庚申は「かのえさる」とも読み、干支で言う申(さる)に当たります。そのため、猿の属性を持つ神仏の信仰とも結び付きました。

狭山田女:これがその「庚申様」を祭る神社だね。
大山田女:折角ですからお参りして行きましょう。
狭山田女:この神社は海松橿ちゃんの時代にもあったのかな。
大山田女:どうでしょうか……庚申信仰自体は私達の時代よりもずっと後のものですが。ただ、ここが見借の鎮守の神様である事は確かです。

狭山田女:神社からは、見借の谷がよく見渡せるねえ。
大山田女:こういう見晴らしの良い場所は、古来聖域として神聖視されるものですからね。庚申信仰が入って来る以前から、この場所は見借の聖域だったのかもしれません。聖域というものは、滅多に移動するものではないですからね。

狭山田女:すると、海松橿ちゃんの時代にも聖域だったのかもしれないね。
大山田女:海松橿さんも私達と同じ女性シャーマンでしたから、ここで神託を受けていたのかもしれませんね。さあ、庚申様にお参りをして行きましょう。祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)です。

狭山田女:本当だ。ここに書いてある。正確には猿田彦神社って言うんだ。
大山田女:先程言ったように、庚申信仰は猿の神様と関連付けられましたからね。創建は五百年程前となっています。ただ、元々猿田彦命を祭る聖域があって、そこに庚申信仰が入って来たのかもしれませんし、全然違う神様を祭る聖域だったかもしれません。

大山田女:それに、元々この神社は近くの別の場所にあって、先程の案内にあった「創建」のときにここへ移動したようですが、神社の移動先も、どこでも良いという訳ではなく、出来る限り神聖な場所を選ぶものです。
狭山田女:そりゃそうだね。土地に深く根差した神様なら、尚更「場」っていうものが大事になってくるし。
大山田女:ええ。ですから古くから神聖な場所だったのだと思います。
狭山田女:そうだね。海松橿ちゃんがお祈りした場所かどうかは分からないけど、少なくともここから見借の谷を眺めたことはあっただろうね。
大山田女:これだけ眺めの良い場所ですからね。こちらが本殿です。

狭山田女:おや、本殿の下に何か置いてあるよ。
大山田女:これは「庚申様」にお供えした猿の像ですね。
狭山田女:猿の神様だからか。庚申様に海松橿ちゃんの冥福と、この土地に幸いがあるように祈っておこう。


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大山田女:もう真っ暗になってしまいましたし、そろそろ帰りましょうか。 狭山田女:そうだね。見借への行き方は、左の地図を参照してね。海松橿ちゃん、バイバイ。



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