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土蜘蛛紀行 肥前編
其之四、小城
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狭山田女:何じゃこりゃ?
大山田女:ここは山田の里より西へ約四キロ、長崎自動車道の小城(おぎ)パーキングエリアです。
狭山田女:あたし達の西隣の里か。それにしても大宮司は何でこんなものを撮影したんだろう。
大山田女:「小城PA」と書かれているめぼしいものが他になかったそうです(苦笑)

狭山田女:隣の小城の里と言えば、大和の人達に滅ぼされたんじゃなかったかな。
大山田女:はい。詳しいことはこちらに書いてありますが、風土記には、ここの土蜘蛛達が砦を築いて天皇に従わなかったので、日本武尊が全て罰して滅ぼした、と書かれています。砦の事を「をき」と言い、それでここを小城(をき)の郡と名付けたのだと。その後も小城郡という行政区分は残り続け、近年は小城市となっています。今では「おぎ」と読みますけどね。
狭山田女:うんうん。今も風土記の地名がそのまま残ってるんだ。それにしてもパーキングエリアで取材を済まそう、って言うのは、大宮司もちょっとやっつけなんじゃないの(苦笑)
大山田女:作者の大宮司自身そのように感じているようですが、当時を偲ぶものが地名くらいしかないのも確かなのですよ。一応、ここから四キロほど南に、土生(はぶ)遺跡という、弥生時代の大規模な集落の遺跡があって、家屋も復元されているようですが。そこが風土記にある土蜘蛛がいた場所かどうかは、分かりません。
狭山田女:なるほど。でも折角来たんだから、あそこの坂でも登ってみようか。

大山田女:パーキングエリアの裏手の斜面ですね。
狭山田女:坂を登り切ったよ。こっちは山か。人家もまばらだね。
大山田女:右に進めば私達の山田の里。左の方へ山を越えて行くと唐津の方角。海松橿さんの故郷ですね。
狭山田女:今で言う佐賀県て、土蜘蛛の密集地帯だよね。あたし達も含めて。

大山田女:肥前国風土記ほど土蜘蛛が沢山登場する古文書はありませんからね。同じく肥前国に含まれる、長崎県も同様です。振り返って南側も見てみましょうか。

狭山田女:山と平地の境目って感じだね。
大山田女:私達の山田の里と、地理的には似たような条件ですね。
狭山田女:海松橿ちゃんの故郷、見借とも似てるかな。
大山田女:ちなみに現在の小城の中心部は、ここから三キロほど南になります。先程話した土生遺跡も、同じ方角です。

狭山田女:ちょっと霞んでるけど、南西の方に少し高い峰が二つ、ぽこぽこっと見えるよ。
大山田女:隣の多久(たく)市にある、両子(ふたご)山でしょうか。あのあたりにも土蜘蛛がいたと、風土記には書いてあります。
狭山田女:そういえば、当時南西の方に住んでる仲間もいたっけ。行った事はないけど。


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大山田女:次は多久市の方へ行ってみましょうか。
狭山田女:そうだね。何だか次もやっつけな予感がするけど……。
大山田女:シッ!行く前からそんな滅多な事を言ってはいけません。小城への行き方は、左の地図を参照して下さい。



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