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古代土蜘蛛一覧(肥前国風土記)

■肥前国風土記
●打猴(ウチサル)・頸猴(クビサル)
○掲載箇所:総記
○登場地:肥後国益城(ましき)郡朝来名(あさくな)の峰
○比定地:熊本県上益城郡益城町と御船町の境にある朝来山(あさこやま)

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 肥前の国の総記として、肥後の国と分かれる前の「肥の国」の由来について書かれている箇所。十代崇神天皇の時代、朝来名の峰に土蜘蛛打猴・頸猴がいて、部下百八十余人を率いて天皇に従わなかった。そこで朝廷は勅令により肥君(ひのきみ)の祖・健緒組(タケヲクミ)を派遣して征伐させた。健緒組は彼らを全て滅ぼした、という話。
 この後、健緒組は国内を巡察し、八代郡の白髪山に着いて宿泊した。その夜大空に火があり、自然に燃えていて、段々と降りてきて、この山に近づいて燃えたときに、健緒組は見て驚いて不思議だと思った。朝廷に参上してこれを申し上げると、天皇は「それは聞いたことがない。火が下った国は火の国というべきだ」と言った。この功績により健緒組に火の君の健緒紕(タケヲクミ)という姓名を与え、この国を治めさせた。これにより「火の国」という、といった国名由来。
 この後に続いて、景行天皇九州巡幸時の「不知火」伝説も載せており、天皇が「火の国という理由が分かった」と言う話がある。これは日本書紀にも載っている(ただし日本書紀では「不知火」を火の国の由来そのものとしており、健緒組の話はない)。
 健緒組による討伐は肥後国風土記逸文(詳細はこちら)にも載っている。また打サル(サルは「けものへん」に「爰」)という名の土蜘蛛は、日本書紀(詳細はこちら)と豊後国風土記(詳細はこちら)に現れる。
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●大山田女(オホヤマダメ)・狭山田女(サヤマダメ)
○掲載箇所:佐嘉(さか)郡
○登場地:佐嘉(さか)川の川上
○比定地:佐賀県佐賀市大和町東山田(佐嘉川は現在の嘉瀬川)

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 郡内に佐嘉川という川が流れており、その川上に荒ぶる神(現在の與止日女(よどひめ)神社、別名河上神社)がいて、往来の人を半ばは生かして、半ばは殺していた。そこで県主(あがたぬし、大和王権より認可された世襲の地方領主)らの祖・大荒田(おおあらた)が、占いで神意を問うた。そのとき土蜘蛛の大山田女・狭山田女がいて、彼女らが言うには「下田(しもだ、與止日女神社の対岸辺り)の村の土を取って、人の形・馬の形に作ってこの神を祭れば、必ず鎮まることでしょう」と。大荒田はすぐに言われた通りに神を祭った。すると、神は祭を受け入れてついに鎮まった。大荒田が言うには「彼女達は非常に賢い女性だ。だから賢し女(さかしめ)を以って国の名にしようと思う」と。よって賢女(さかしめ)の郡といい、佐嘉郡(さかのこおり)というのはそれが訛ったものだ、という郡名由来説話。
 ここで注目すべきは大山田女・狭山田女が土蜘蛛と呼ばれているにも関わらず、王権側の人物の祖先に貢献し、賛辞を贈られていることである。本来荒ぶる神とは大山田女・狭山田女と同族で、大荒田が上手く先住の勢力を味方にしたのではないかと言われている。土蜘蛛が仲間割れや抗争の末の降伏などで王権側に味方する例はあるが、このように比較的平和に事が終わり、かつ賛辞を贈られる例はあまりない。「荒ぶる神」の交通妨害には多少の争乱を背景に見て取れるが、結果的に大きな争乱にならずに済んだものと思われる。争乱の多い古代の勢力圏争いの中で、比較的平和的な解決もあったという例ではないだろうか。
 また土蜘蛛には女性首長が多く、大山田女・狭山田女もそれであるが、ここでははっきりとシャーマンとしての役割を担っている。ここまでシャーマンとして、その行為まではっきり描かれた土蜘蛛の例も他になく、大山田女・狭山田女は特異な存在と言えるだろう。またここで鎮められた與止日女命という神も女神であり、後に続く話を見ても神秘的要素が強い。この土地は強力な女性シャーマンが目立ち、周辺地域の信望も厚かったのだろうか。與止日女神社が後に肥前国一の宮となっていることからもそれが伺われる。そういう勢力を、王権側または後に王権側に属した在地勢力としては、敵対するよりは融和する方向にしたかったのかもしれない。
 この話に続いては、こんな話が書かれている。佐嘉川の川上に石神があり、名を世田姫(ヨタヒメ)という。海の神である鰐(わに。因幡の白兎の神話で有名。サメの類と言われるが、ナマズ説もあり)が毎年遡上して神の所に来るが、そのとき海の底の小魚が多く従って来る。人がその魚を恐れ畏まれば災いはないが、捕って食べれば死ぬことがある。この魚達は二三日留まると海へ帰る、と。
 與止日女命という神は海に関わりが深く、かつ石神でもあることが語られている。実際、與止日女命は神功皇后の妹とされる一方で、海神豊玉姫(トヨタマヒメ。正体は「鰐」だと記紀神話で書かれる、皇孫山幸彦の妻)ともされる。ここから、與止日女命、ひいては大山田女・狭山田女も漁撈民の流れを組む可能性も浮かんで来る。石神については、與止日女神社の奥宮とされる巨石群が今も上流にある。そして、風土記が書かれた時代にも、侮れば祟る威力ある神として敬われ続けていることが分かる。ちなみに、今もこの地域にはナマズを食べないようにする言い伝えがある。
 ところで、大山田女・狭山田女はその名の通り名前のうちに「田」を含む。彼女らが告げた「下田」という地名も同様だ。彼女らが祭ったと思われる「世田姫」にも「田」の字が含まれる。これら全てが水田に関係したものとは言えないが、大山田女・狭山田女の所属する「土蜘蛛」の集団は、稲作農耕を行っていたのではないだろうか。佐賀平野は日本でも早くから稲作が始まった地域であり、稲作の始まった弥生時代の「国家」と言える巨大遺跡・吉野ヶ里も佐賀市大和町からそう遠くはない。土蜘蛛=縄文以来の狩猟採集生活様式を守り続けた人々、という見方もあるが、日向国風土記にある土蜘蛛(詳細はこちら)のように、稲に非常に密接に結び付いている例もあるから、必ずしもそうとは言えない。ただ、九州でも水田稲作が最初に開始された博多平野近辺以外では、遺伝的に「縄文人」に当たる人々が水田稲作を受け入れたことが分かっている。また大和町の隣、佐賀市金立町(きんりゅうまち)には、縄文時代から弥生時代を経て古墳時代まで同じ土地に墓が存在する丸山遺跡があり、ここから出土した縄文時代晩期の土器には、稲籾の圧痕があるものも発見されている。この遺跡にもある、九州北西部に存在するの支石墓は、様式自体は朝鮮半島由来のものだが、葬られているのは縄文的形質を持つ人々だった。こうしたことから、この地域の「縄文人」が稲作を受け入れつつ、子孫を残し続けたことは間違いない(地理的にも、東山田は平野部だが、間近に山が迫っていて、與止日女神社を境に山間部となり、巨石は完全に山の中である。つまり平野と山間の境界領域であり、それまで山間に住んでいた人々が稲作を始めるには好都合な場所である)。大山田女・狭山田女は、そうした「縄文人」の遺伝子を色濃く受け継ぎつつも、稲作農耕を展開した人々の末裔なのかもしれない。だとすれば、土蜘蛛と呼ばれて蔑視されつつも「賢し女」と讃えられた二元性も理解できる。無論、断言することなどできないのだが。
 彼女らが告げた「土で作った人形・馬形」も、埴輪を連想させて、多分に古墳時代的である。そうすると王権側にそういう文化を授けた形とも取れ、むしろ王権側よりもより進んでいた可能性まで見えて来る。「賢し女」と言われるくらいだから、文化的に進んでいたと見るのは自然ではある。であれば、土蜘蛛と呼ばれた意味を再考しなければならない。進んだ文化を持ってはいても、やはり形質上「縄文的」であったからなのか。それ以外の理由で、土蜘蛛と蔑視しなければならない理由が他にあったのか。例えばシャーマン的要素や人形・馬形に見られる精神的文化面が優れていても、別の側面(例えば軍事力)では王権側より劣っていたのか。土蜘蛛とは必ずしも蔑称でなかった可能性もある。謎は深まるばかりだが、物語を見る限り、王権側とそれなりの緊張関係にありつつも、王権側にとっては融和する方向で進めたく、実際そうしたらしいことは確かだ。
 ちなみに、東山田の嘉瀬川を挟んだ対岸には、肥前国庁跡が見つかっている。奈良時代以降のものだが、この地域が王権側にとって重要視されているのは間違いなく、当然奈良時代以前から重要視されていただろう。また王権側も恐れた世田姫=與止日女命を祭る與止日女神社は、肥前国一宮、即ち肥前国で最も格式の高い神社であった。ところが、恐れつつも世田姫には敬語が使われていない。風土記で敬語が使われるのは一部の神と天皇、皇族に対してがほとんどで、神ならば朝廷に関係の深い神でなければ敬語は滅多に使わない(著者が祖神に敬意を払う出雲国風土記は別)。神功皇后に敬語を使う肥前国風土記が、世田姫に敬語を使わないのは、世田姫=與止日女命は神宮皇后の妹ではないことを物語る。同様に皇祖神としての豊玉姫でもない(皇祖神から離れた海神の可能性は高いが)。また物語の流れからして、在地の王権側勢力の大荒田の祖神というのも不自然過ぎる。つまり明らかに王権側ではない世田姫を非常に恐れつつも、国第一の神として敬った訳だが、そのすぐ近くに国庁が置かれたことを考えると、この地域を重要拠点として手中にしつつ、土着勢力とも上手く付き合っていく必要があったことを物語っているのであって、それが大山田女・狭山田女の二元性として伝承に残ったものと思われる。そしてその後も関係は円滑だったろう。でなければ物騒で国庁など置けないし、さすがに国第一の神として祭る理由もない。いずれにしても、王権・朝廷側と微妙ながらも割合友好的な関係を持ったと思われる大山田女・狭山田女の話は、土蜘蛛というものを考える上で、非常に重要な例であることは確かである。
 なお、佐嘉郡の由来としては、この話の前に、日本武尊の巡幸時、ここに樟(くすのき)一本が非常に高くよく茂っており、その影は隣の郡の山々を覆う程だったので、「この国は栄(さか)の国というがよい」と言ったため、栄の郡といい、後に佐嘉郡と改めた、という話もある。この「佐嘉」が後に「佐賀」となり、県名ともなった。「茨城」とともに、日本の県名由来に土蜘蛛が関係している例でもある。
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●土蜘蛛
○掲載箇所:小城(をき)郡
○登場地:小城郡
○比定地:佐賀県小城(おぎ)市

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 昔、この村に土蜘蛛がおり、堡(をき=砦)を作って隠れ、天皇の命に従わなかった。日本武尊の巡幸時、全てこれを罰し滅ぼした。よって小城郡と名付けた、とある郡名由来。土蜘蛛が砦を作ったという話は、風土記ではよく見られる。豊後国風土記には、同じように土蜘蛛が築いた砦が地名由来とされている記事がある(詳細はこちら)。
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●海松橿媛(ミルカシヒメ)
○掲載箇所:松浦(まつら)郡
○登場地:賀周(かす)の里
○比定地:佐賀県唐津市見借(みるかし)

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 昔、この里に土蜘蛛がいて、名を海松橿媛と言った。景行天皇巡幸時、従者の日下部の君の祖・大屋田子を派遣して罰し滅ぼした。その時に霞が四方に立ち込めて、風景がよく見えなくなった。よって霞の里という。賀周の里というのはこれが訛ったものだ、という地名由来。賀周という地名は現在の行政区分からは消えてしまっているが、見借のほうはしっかりと残っている。
 景行天皇九州巡幸自体は日本書紀にもあるが、海松橿媛の話が載るのは肥前国風土記のみ。肥前国風土記の伝承では景行天皇が肥前国を巡幸したことになっているが、日本書紀にはない。肥前国風土記に現れる土蜘蛛は、ほとんどが景行天皇巡幸時に誅されている。
 海松橿媛はやはり女性首長であるが、大山田女・狭山田女と比べると事の顛末が大きく異なり、ごく簡単に書かれているだけである。もっとも、海松橿媛の書かれ方のほうが一般的ではある。ただ討伐時に霞に覆われたというのは、やや神秘的要素があり、もしかすると怨霊的なもののメタファーかもしれない。
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●大身(オホミ)
○掲載箇所:松浦(まつら)郡
○登場地:大家(おほや)の嶋
○比定地:佐賀県唐津市馬渡(まだら)島、あるいは長崎県平戸市的山(あづち)大島

 景行天皇巡幸時、この村に土蜘蛛がいて、名を大身といった。常に天皇の命に逆らい服従しようとしなかった。天皇は勅命により罰し滅ぼさせた。それ以後この島に漁民達がやって来て、家を造って住むようになった。それで大家の郷(さと)という、という地名由来。
 大家の嶋の比定地ははっきりとは分かっていないが、島嶼部であることは確かである。大身を滅ぼした後に漁民が住むようになったとあるが、当然大身も漁撈民だったろう。肥前国には島嶼部の記述も多く、そこにいた土蜘蛛の話も幾つかある。続く大耳・垂耳も同様である。
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●大耳(オホミミ)・垂耳(タリミミ)
○掲載箇所:松浦(まつら)郡
○登場地:大耳=値嘉(ちか)の郷(さと) 小近(をちか)の嶋、垂耳=同 大近(おほちか)の嶋
○比定地:長崎県五島列島

 景行天皇巡幸時、平戸島から西の海を眺めると、海の中に島があり、煙が多く立ち上っていた。従者阿曇連百足(アヅミノムラジモモタリ)に見に行かせた。島は八十余りあった。そのうちの二つの島には島ごとに人がいた。第一の島を小近といい土蜘蛛大耳が住んでおり、、第二の島を大近といい土蜘蛛垂耳が住んでいた。その他の島には人がいなかった。百足は大耳達を捕らえ、報告した。天皇は勅により誅殺しようとしたが、大耳達は叩頭し「私達の罪は極刑に値し、一万回殺されても罪を贖うには足りません。が、もし恩情により生かして頂ければお食事を造りいつまでも御膳に献じます」と言って、鮑を様々に加工して料理の見本を献上した。そこで天皇は恩情により許して釈放した。また「この島は遠いが近いように見えるので、近嶋(ちかしま)と言うがよい」と言ったので、値嘉という、と書かれている。
 ここでの土蜘蛛は、鮑料理を献ずることにより、許されている。料理により死を免れた土蜘蛛という例は他にないが、要は朝貢により滅亡を免れたということであろう。鮑は伊勢の神宮に献じられるなど、古代重要視された食材であり、王権としてはそうした特産物を得ることが重要だったと思われる。この二人の土蜘蛛も紛れもない漁撈民であろう。
 風土記はこの話に続き五島列島の特産と地理を詳しく書いている。ここの漁民は馬や牛を多く飼っており、容貌は隼人に似て、馬上から矢を射ることを好み、言葉も世間の者とは違っているとも。どうやら風土記が書かれた時代、五島列島の住民は言語・風俗において本土と異なったようで、人種的に異なっていた可能性もある。それが隼人に似ているというのも興味深い。そして彼らの先祖に当たると思われる者達が「土蜘蛛」と呼ばれているのである。また遣唐使船も五島の港から西を目指すとも書かれており、地理的に非常に重要な場所でもあった。ここは古代大和王権・朝廷勢力圏の最西端だったのである。朝廷としては絶対にしっかりと握っておかなければならない場所であったろう。恩情により土着勢力を生かしたのも、そうした重要地点を握っておくための融和政策を反映したものと思われる。
 その他、派遣された従者が漁撈民である海部(アマ)の一族であり、宮廷料理も司った阿曇氏であるというのも興味深い。離島と料理に関わるところで安曇氏が活躍するというのも、出来過ぎなくらいによく出来た話である。
 なお、小近、大近の各島の比定地には諸説あるが、値嘉、小近の遺称地として五島列島の一つに小値賀島(おぢかじま)がある。
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●八十女人(ヤソヲミナ)
○掲載箇所:杵嶋郡
○登場地:嬢子山(をみなやま)
○比定地:佐賀県多久(たく)市東南部の両子山(ふたごやま)、あるいは近隣の山

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 景行天皇巡幸時、土蜘蛛八十女人が嬢子山の山頂にいた。常に天皇の命令に逆らい、服従しなかった。そこで兵を派遣して襲い掛かり滅ぼした。よって嬢子山という、といった地名由来。
 八十女人は「沢山の女性」という意味で、固有の人名ではないが、女賊の集団の名ではないかとも言われている。名前からして、 女性だけで構成されている集団に思えるが、そうなると、シャーマンの集団か、あるいは武装した女性も数多くいたのかもしれない。いずれにしても肥前国風土記は、荒ぶる神を鎮めた女性シャーマンあり、砦を築いた者あり、鮑を料理して許された漁撈民あり、女性集団ありと、様々な土蜘蛛のオンパレードである。
 なお、嬢子山の比定地は両子山とする説が有力だが、同じ多久市の鬼ノ鼻山や女山などとする説もある。
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●大白(オホシロ)・中白(ナカシロ)・少白(ヲシロ)
○掲載箇所:藤津郡
○登場地:能美(のみ)の郷
○比定地:佐賀県鹿島市能古美(のごみ)地区

 景行天皇巡幸時、この里に、大白・中白・少白の三人兄弟の土蜘蛛がいた。彼らは砦を作って隠れ住み、服従しなかった。そのとき、従者で紀の直(きのあたい)らの祖・穉日子(ワカヒコ)を派遣し、罰し滅ぼさせようとした。大白ら三人は叩頭(のみ)て、自分達の罪を述べ、ともに命乞いをした。よって能美の郷という、という地名由来。
 三人兄弟、砦を作る、命乞いをする、という特徴のある土蜘蛛。見ようによっては、童話的とも思える内容である。同じ三人組でも、日本書紀や豊後国風土記の打サル・八田・国摩侶のような激戦の描写はない。「白」というのも日本書紀・豊後国風土記に登場する土蜘蛛「青・白」を思い起こさせる(詳細はこちらこちら)が、何か関連性はあるのだろうか。またこの三人の命が結局どうなったかは書かれていないので、結果は想像するほかない。
 なお、現在の行政区分上、能古美という地名はないようだが、郵便局や小学校にその名を留めている。
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●土蜘蛛
○掲載箇所:彼杵(そのき)郡
○登場地:速来(はやき)の村
○比定地:長崎県佐世保市早岐(はいき)

 景行天皇が熊襲を滅ぼして凱旋し、豊前国の宇佐(大分県宇佐市)の海岸の仮宮にいたとき、従者の神代の直(かみしろのあたい)に命じて、この郡の速来の村に派遣して、土蜘蛛を捕らえさせた。ここに、速来津姫(ハヤキツヒメ)という女性がおり、彼女が言うには「私の弟・健津三間(タケツミマ)が健(たけ)村に住んでおります。彼は「石上(いそのかみ)の神の木蓮子玉(いたびだま)」という美しい玉を持っていますが、他人に見せません」と。神代の直が健津三間を尋ねると、山を越えて逃げたので、追って捕らえて姉の言葉の真偽を問うた。健津三間が言うには「実際に二種の玉を持っています。一つは石上の神の木蓮子玉で、もう一つは白珠(しらたま)です。中国の有名な玉にも比べられる程ですが、願わくば献上させて下さい」と。さらに速来津姫が言うには「篦簗(のやな)という川岸の村に住んでいる人が、美しい玉を持っていて、大変いとおしんでいますが、命令に従うことはないでしょう」と。神代の直は追い詰め捕らえ、問うと、篦簗が言うには「実際に持っています。献上します。決して惜しみません」と。神代の直は帰って、三種の玉を天皇に献上した。天皇が言うには「この国は具足玉(そなひだま=玉が十分に備わっている)の国というがよい」と。今、彼杵というのは、それが訛ったものである、という郡名由来説話。
 他の土蜘蛛の話と同じく、景行天皇巡幸時のものだが、他の話と異なり、熊襲討伐後の凱旋時で、遠く大分の宇佐から従者を派遣している。また「土蜘蛛」と厳密呼ばれているのは、最初に捕らえさせたというものだけである。が、速来津姫、健津三間、篦簗も捕らえられた土蜘蛛の同族と思われる。速来津姫は日本書紀において、景行天皇九州巡幸時に早々に服従し付近の賊について報告した「神夏磯媛」や、日本書紀・豊後国風土記で付近の土蜘蛛「青・白」「打サル・八田・国摩侶」について報告した「速津媛」(詳細はこちらこちら)とよく似ている。速来津姫という人名には、「他よりも早く服従して来た」という意味があるという。
 速来津姫はまるで血族や近隣の同族を売るような行為に出ているが、これは先に同族(=土蜘蛛)が捕まり、朝廷軍の脅威を見せつけられ、早々に服従し血族や同族から神宝のようなものを献上させて、滅亡を免れようという、政治的判断を下したのではないかと思われる。またそのような判断を下せるような立場にある、女性首長でもあったろう。その甲斐あってか、先の土蜘蛛も含め、「捕らえた」「詰問した」というような表現はあっても「誅した」「滅ぼした」「殺した」という表現はない。おそらく速来津姫の機転によりこのあたりの勢力は滅ぼされずに済んだものと思われる。
 また「石上の神の木蓮子玉」という玉の名前を曰く有り気である。石上の神とは大和の石上神宮のことであるが、これは古代の軍事・祭祀氏族、物部氏の氏神である。木蓮子というのも物部氏に現れる名である。このあたりの勢力は物部氏と関連があったのかもしれない。「中国の有名な玉に比べられる程」という表現も、この地がただの辺境ではないことを物語っているようにも思える。この地域は東シナ海に面し、長崎など後世にも海外との貿易で名を馳せた辺りなので、早くから文化の先進地帯であった可能性はある。それだけの勢力だったからこそ、こうした神宝の類を持ち、政治的な判断も可能だったのではないか。また同じ景行天皇巡幸時といえども、他の土蜘蛛と異なる状況で描かれているのも、この地域の勢力の大きさと関係あるのかもしれない。固有の人名をあげられた三人が「土蜘蛛」とは直接言われていないのも、そのことと関係ありそうだ。
 なお、この三種の玉はこの地方の特産物である真珠らしい。白珠はそのまま真珠として受け取れるし、石上の神の木蓮子玉は表現からすると黒い玉ということになるらしいが、これは黒真珠のことだろうか。
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●浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)
○掲載箇所:彼杵郡
○登場地:浮穴(うきあな)の郷
○比定地:不明 諸説有 長崎県彼杵地域

 景行天皇が宇佐の仮宮にいるとき、神代の直に言うには「私は多くの国々を経巡って、すっかり服従させ治めるに至った。まだ私の統治を受けていない逆賊はあるか」と。神代の直が言うには「その煙の立っている村は、いまだに統治を受けておりません」と。そこで神代の直に命じ、その村に派遣した。浮穴沫媛という土蜘蛛がいたが、天皇の命に従わず大変無礼であった。そのためすぐに誅した。よってこの村を浮穴の郷という、といった地名由来。
 この話は先の速来津姫の話の後にあたるようだ。景行天皇がいる場所も同じなら、派遣されてくる従者も同じで、「まだ私の統治を受けていない逆賊はあるか」と言っているからだ。文章的にも、速来津姫の話のすぐ後に来ている。こちらも女性首長だが、速来津姫と違い、皇命に逆らい、土蜘蛛と呼ばれて滅ぼされている。それにしても肥前国には女性首長が多く出てくる。ここで取り上げた土蜘蛛関連だけでも六人に上る(八十女人と速来津姫を各一人としてカウント)。現在の佐賀県・長崎県に当たる肥前国は、古代、有力な女性シャーマンが大勢いたようだ。
 浮穴の郷の比定地には、諫早市有喜町(うきまち)など様々な場所が取り上げられているが、決定的な説は出ておらず、不明。ただ、「浮」「沫」といった単語から、海岸部か、少なくとも水辺であることは想定される。また、景行天皇が宇佐にいて、「煙が立っている」のが見えるはずもなく、これは長崎県と有明海を挟んだ熊本県の「宇土」であるとか、それでも無理があるから、もっと近くの別の海岸だったのではないか、とする説もある。
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●鬱比表麻呂(ウツヒオマロ)
○掲載箇所:彼杵郡
○登場地:周賀(すか)の郷
○比定地:不明 諸説有 長崎県彼杵地域

 神功皇后が新羅を征伐するためこの郷に来たとき、船を郷の東北の海につないでおいたところ、船をつなぐ杭が、磯になってしまった。高さ六十メートル、周囲三十メートル余り、岸から一キロ余り離れた、巨大なもので、高く険しく、草木が生えなかった。さらに、従者の船は風に遭って漂い沈んでしまった。ここに、鬱比表麻呂という名の土蜘蛛がいて、その船を救った。よって救(すくひ)の郷という。周賀の郷というのは、これが訛ったものである、という地名由来。
 景行天皇巡幸時の討伐がほとんどを占める肥前国風土記の土蜘蛛伝承にあって、神功皇后新羅征伐時の伝承。しかも、大山田女・狭山田女のように、朝廷側に貢献したことで地名の由来になっている。さらに、直接天皇に等しき人物に貢献した話であり、大山田女・狭山田女のように、神による交通妨害など、対立構図と思われるような背景もない、純然たる貢献伝承である。土蜘蛛と呼ばれる者が必ずしも朝廷の敵対者ではないという好例である。また味方になったからといって土蜘蛛という呼称がなくなる訳でもないことをも示している。ただ、鬱比表麻呂の所属する一族が、従順ではない一族だったか、そうした者達の末裔であった可能性はあるだろう。
 船を救ったというところから、鬱比表麻呂も漁撈民の趣を漂わせている。もっとも沿岸部の土着民の話なのだから、漁撈民だとしても何の不思議もないが、海に関係したものが多いというのは、肥前国風土記に出てくる土蜘蛛の大きな特徴の一つである。
 周賀の郷の比定地も多数挙がっているが、不明である。郷の東北が海になっているのが条件だが、リアス式海岸の多い長崎県では該当ずる場所が多過ぎる。ただ、新羅征伐の途中というところから、長崎県本土でも一番西側にあり東シナ海に面した、西彼杵半島の西部が多い。
 最も数が多く、かつバリエーションにも富んだ伝承を持つ、肥前国風土記に登場する土蜘蛛は、以上である。
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