紅葉紀行
其之九、別所温泉 ハ、平維茂将軍塚 呉葉門へ戻る
別所温泉には、紅葉を討った平維茂の墓と伝えられる「将軍塚」もある。
将軍塚全景。別所温泉中央の観光バス駐車場の向かいにあるが、遠目には植え込みにしか見えないため、自動車で走っていると見逃してしまいがち。
将軍塚の案内板。学術的には奈良時代に当地を治めた豪族の円墳ということだが、古くから維茂の墓であるという言い伝えがあり、また維茂が当地が衰亡したときのためにここに黄金を隠したともいう。
このような碑も建っており、地元では今も「維茂の墓」である。しかし、ならばこそなぜ奈良時代の豪族が平維茂に置き換えられたのか興味が湧く。単純に考えれば古の支配者が忘れ去られ、また紅葉伝説の印象が強かったということになるのだが、ここ上田は、古代には国府も置かれた、信濃における政治上の最重要地点だったということに注目したい。この塚の真の主は、「勅命を受けた」維茂に置き換えられても差し支えないような、朝廷に協力的で、官位を拝領したような人物だったのではなかろうか。
手前の碑には「維茂将軍供養塔」と刻まれている。奥にはこの塚本体ともいえる五輪塔が建つ。紅葉伝説において、紅葉討伐の勅令を受けて京から戸隠を目指して来た維茂がまず上田に入るというのは、地理的には大回りになり一見不自然なのだが、「官軍」としてはまず国府のある上田に入るのは妥当と言えるだろう。維茂は信濃守だったというから尚更である。地理的な事だけでいえば現在の松本あたりに陣取るべきなのだが、松本の近隣・安曇野には朝廷への反逆者八面大王の伝説があり、紅葉と八面大王は夫婦であったという伝説もあるので、当時の信濃西北部は朝廷にはあまり協力的なエリアではなく、布陣には不適当だったと言うべきだろう。
手前の碑ははっきりとは読み取れないが、おそらく道祖神だと思われる。戸隠から安曇野にかけての信濃西北部が反朝廷的なエリアだったならば、上田はそれに対する朝廷の前線基地でもあったかもしれない。実際信濃は蝦夷の地である東北に対する前線基地的な役割を担っていて、都からの蝦夷征伐の軍は信濃から兵士や食料を調達したりもしている。国府のあった上田はその中枢と言える。将軍塚の真の主である豪族は、朝廷に対してそうした軍事的な協力もを担っていたのかもしれない。しかし一方で、南東北の豪族がしばしばそうであったように、反朝廷的な勢力とも、もともとは血を分けた一族であった可能性もある。そこまでの関連があるかどうかは分からないが、信濃西北部の反朝廷勢力もここの豪族も、ともに「道祖神」の原型を信仰していたのだろうか。
花に囲まれた将軍塚。ちなみに蝦夷というと一般的に東北や北海道を思い浮かべるが、大化の改新頃には越後に柵(古代朝廷が築いた対蝦夷軍事拠点。交易の場でもあった)が築かれており、現在の新潟県も古くは蝦夷の地だったことが分かる。そして安曇野や戸隠は越後に隣接する地域であり、反朝廷的な勢力が残り続けてもおかしくない。国府のあった上田周辺はそうした勢力とときに対立したり、ときに朝廷とのパイプ役になったりしたのだろう。もしかしたら紅葉討伐のようなことが、将軍塚に眠る豪族の時代にもあったのかもしれない。あるいは、紅葉伝説の原型となった事件が、その豪族の時代にあったのかもしれない。今は静かに別所を見守る将軍塚を前にして、そんな想像や推理が頭をよぎった。
将軍塚の近くに建つ七苦離地蔵尊堂。安楽寺の八角三重塔(
次頁参照)を思わせる造り。
地蔵尊堂の案内板。別所温泉は古くは七久里(ななくり)の湯と呼ばれ、枕草子にも温泉の第一として挙げられている。その音が「七苦離」に通じ、あらゆる苦難から解放されるとも解釈された。そうした信仰に基づき、北向観音の本坊・常楽寺の地蔵尊をここに祀ったもの。地蔵尊堂自体は、最近のものであろう。
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平維茂将軍塚の場所は左の地図の通り。
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