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古代の「土蜘蛛」の文化・風習 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
狭山田女:時間・空間以外の特徴というと、体が違うとか。手足が長いとかの。
大山田女:これは侮蔑から来る誇張と言われていますが、先に見たように、人種的な違いが本当にあったのかもしれません。例えば縄文系・弥生系というような。やはり全ての土蜘蛛に当てはまるわけではありませんが。
狭山田女:穴とか、険しい場所とか、住んでる場所の特徴。
大山田女:穴に関してはこれも侮蔑から来る誇張と言われていますが、そういう人達がいなかったとは言い切れません。険しい場所には洞窟など穴があることも多いですし。険しい場所ということ自体は、農耕民ではなく狩猟採集民ということを表しているのかもしれませんね。島の場合は漁撈民でしょう。縄文系・弥生系ということとも関係して来ますが。それもやはり全てに当てはまる訳ではありません。ちなみに険しい場所は、辺鄙な場所だと言うことです。
狭山田女:うー。また田舎モンだってかー。
大山田女:身体的な特徴だって、田舎者に対する偏見みたいなものかもしれませんよ。現代の人達だって持っているでしょう。頬が赤いとか。これも身体的特徴の一種ですよ。
狭山田女:そう言われると「穴」もそうかも……田舎モンの家はダサイに違いない、ってかー。
大山田女:そういう考えも現代でもありますからね。現代では田舎者のことを「かっぺ」などと言って馬鹿にしますが……。
狭山田女:古代では「土蜘蛛」と言って馬鹿にしたのかー。うー。まあいいや。他の特徴は、女性が多いってことかな。
大山田女:女性の首長は、先にも話しましたが、シャーマン、巫女ですね。巫女を首長にしているというのは、その集団が神託を重視し、統治の中心に据えていたということです。
狭山田女:重要な決定を巫女の神託で決めていた、ということだね。
大山田女:そのほかにも、祭祀を行うのは当然として、大きな共同作業の際に人々を鼓舞したり、労ったりしたでしょう。大規模な狩猟とか、種蒔きや刈り入れ、樹木の伐採や家屋の建築、墳墓の造営など。戦闘の際にも同様だったと思います。
狭山田女:みんなに困ったことがあるとき、どうしたらいいか占ったりもしたね。
大山田女:そうですね。病気の治療などもしました。そういう女性シャーマンが、首長として共同体や国家に君臨することは、古代では世界的に見ても一般的でした。日本でもそうです。大陸の歴史書の名前が残る日本最古の人物、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、最も顕著な例ですね。
狭山田女:うん、あの頃は女のムラオサが多かった。
大山田女:「大和」の人々とて、同じだったのです。「天津神」の主神、天照大神は女神ですし、古事記や日本書紀の中で明らかに夫の天皇以上の扱いを受けている神功皇后には、神が降りて来て、神託を下しています。これらは「大和」でも女性シャーマンが中心にいたことを示すものでしょう。
狭山田女:大和の人達も、女性シャーマンを重視してたんだ。……そういえば、あたし達のところにまで相談に来たもんね、大和側の人達が。
大山田女:そもそも「天皇」というのは、神に仕え祭祀を行うことが最も重要な本来の役目なのです。
狭山田女:政治は「マツリゴト」というくらいだからね。祭祀と一緒なんだ。
大山田女:ですが、これも世界的に見てもそうなのですが、女性シャーマンによる統治というのは、段々廃れていきます。そして男性が政治を執る様になります。母権社会から父権社会への移行、などと言われますが。
狭山田女:「天皇」は基本は男だもんね。
大山田女:つまり、古代においては、時代的には男性社会のほうが進んでいる訳です。そういう集団から、未だに女性シャーマンが政治を執っている集団を見ると、時代遅れに映るでしょう。「野蛮」だと思うことも多々あるでしょう。
狭山田女:うー、そうやって蔑まれたんだ。土蜘蛛も。現代じゃ男性社会のほうが遅れてるとか言われるのにぃ。
大山田女:女性シャーマンを統治の中心にしていることは、ある時代くらいからは「大和」の人々には時代遅れに映ったでしょう。「大和王権」でも神功皇后などの女性シャーマンが突発的に出てはいますけど、基本的には男性社会ですし。まして国家の体制を整え「朝廷」と呼ばれるようになってくる古事記・日本書紀・風土記が書かれた時代からすれば、尚更でしょうね。「大和」の人々がそう名付けた「土蜘蛛」の風習などを見たとき、総じて「時代遅れ」に映ったのだと思いますよ。「土蜘蛛」という言葉には、そういう思いも込められていると思います。
狭山田女:うー、うー、あたし達は「時代遅れの田舎モン」かあー。酷いっ!
大山田女:そうですね、でも蔑まれているのは事実です。敵対して滅ぼされている土蜘蛛が多いので、多くは「野蛮人」くらいに思われていたと思います。そういう場合には、不気味さや、それに伴った強さのイメージも含んでいるでしょう。でも、私達や日向の土蜘蛛のように、「大和王権」と比較的友好な関係を保ったものもいます。ですから全ての土蜘蛛を包括するイメージとしては「時代遅れの田舎者」くらいがふさわしいでしょう。
狭山田女:むー。あと、具体的な人名が沢山残っている、っていう特徴もあるけど。
大山田女:具体的な人名というのは、集団のリーダーでしょうが、それだけ組織化がされていたということでしょうね。「時代遅れの田舎者」ではあっても、それなりの文化や勢力があったということの象徴だと思います。ただ土蜘蛛は割と近い地域でもバラバラに討たれていたりして、あまり集団間で連帯して抗戦するというような大規模な組織化にまでは至らなかったようです。
狭山田女:だから、余計軽く見られてるんだ。反逆者の場合でも。
大山田女:熊襲や蝦夷に比べると、軽く見られている感は否めませんね。もっとも、豊後、丹後、陸奥の土蜘蛛などは、大規模な戦闘で「大和」側も苦戦した様子が描かれていますので、例外もありますが。
狭山田女:でもわざわざリーダーの名前を書き残すからには、「大和」の人もリーダーの実力を認めてたってことかなー。
大山田女:土地の人にとっても王権側にとっても、記憶に残っていて無視できない存在だったのでしょう。それでいてしっかり「土蜘蛛」と蔑んでいる訳ですが。
狭山田女:複雑で微妙だね。
大山田女:「土蜘蛛」という存在は、大和王権にとって複雑で微妙な存在だったのですよ。敵になっていることが多いですが、味方にして地域統治の安定を図ったこともある訳ですから。ただ周辺部の小勢力に過ぎない、と思われていたのは確かでしょう。
狭山田女:だから「時代遅れの田舎モン」なのかー。

古代の「土蜘蛛」とは「境界上の存在」 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
大山田女:「時代遅れの田舎者」ということは、時間軸で見ても、空間軸で見ても、「中心」ではなく「周辺」ということです。ただし、「完全な外側」ではありません。「境界上の存在」なのだと思います。
狭山田女:「外側」の人達は蝦夷や熊襲って呼ばれてるからね。
大山田女:はい。また「神から人へ」という時間軸の「境界上」でもあります。土蜘蛛を時間軸・空間軸の境界上の存在というとき、その二つの軸は相互に切り離せないものになっているのです。
狭山田女:今までの話だと、あたし達は時代的に「国津神」と「蝦夷・熊襲・隼人」の間ということになるもんね。それぞれと重なったりもしてるけど。
大山田女:「国津神」→「土蜘蛛」→「蝦夷・熊襲・隼人」という移行過程を考えると、時間軸はもちろん、空間軸とも重なっているのです。
狭山田女:時間とともに、「大和」の勢力圏が拡大していったってことかな?
大山田女:その通りです。土蜘蛛は時間・空間的にも中間の存在なのです。「土蜘蛛とは何か」と改めて問われたら、「大和王権拡大における時空上の中間・境界上の存在」と答えてもいいでしょう。
狭山田女:「国津神」→「土蜘蛛」→「蝦夷・熊襲・隼人」っていう移り変わりと同時に、「天津神」→「大和王権」→「大和朝廷」っていう移り変わりがあるんだね。
大山田女:国津神や隼人は分からないところもありますが、土蜘蛛や蝦夷、熊襲は大和側がつけた呼称ですから、大和側の拡大にともなって、相手への呼称も変わった、ということでしょうね。ところで、この軸をもっと先まで伸ばすとどうなるか分かりますか?
狭山田女:うん? これ以上伸びるのかな? よく分からないや。
大山田女:まず空間軸を考えてみましょう。土蜘蛛の領域の端が北部九州と東北南部・北陸。その先は熊襲・隼人の領域である南部九州と、蝦夷の領域である東北北部。
狭山田女:その先は……今、北海道とか沖縄とか呼ばれてる場所だね。
大山田女:はい。そこにはアイヌと呼ばれる人々や、琉球と呼ばれる国があったりしました。北海道と沖縄は、「大和」とは全く異なった歴史を歩んでいくのです。これらの領域が完全に「大和」の勢力圏に入ったのは、百数十年前のことです。
狭山田女:ほえ~。まだ最近だね。あたし達の時代から比べたら。
大山田女:アイヌや沖縄の人々は、「大和」とは異なる文化や歴史、言語を持っていて、人種的にも異なっている点がありますが、当然ながら共通するところもあります。特に、縄文時代くらいまでは、文化的にも人種的にも本州と共通していたことが分かっています。
狭山田女:ていうことは、弥生時代に分かれたんだ。
大山田女:弥生的な遺伝子と文化が広がっていって、一番の周辺部に、縄文的な遺伝子と文化が残った、ということでしょう。弥生的な遺伝子と文化は、北海道や沖縄まではあまり伝わらなかった、ということです。
狭山田女:東北や南九州には伝わったんだよね。
大山田女:伝わっています。が、伝わるのが遅く、影響力も中心部に比べれば低かったのです。遺伝的にも文化的にも、東北北部や南九州は「縄文系」が濃いようなことが言われます。もちろん、「大和」の勢力圏に入って千年近く経ちますから、アイヌや沖縄の人々程ではありませんが。
狭山田女:そうか! 北海道や沖縄まで入れたら、北東北や南九州も「境界上」になるんだね!
大山田女:空間的には当然ですが、「大和」の文化・遺伝子の拡大という時間軸から見ても、やはり「境界上」になるのです。そして私達土蜘蛛というのは、それより「手前」になるのです。
狭山田女:時間的に見ても、空間的に見ても、だね。
大山田女:こんな例もあります。私達の住んでいた、今佐賀県と呼ばれるあたりでは、「縄文系」の人種の人々が、稲作など「弥生系」の文化を受け入れたことが、考古学的に分かってきました。それはそのときこの場所が、「境界上」だったことを示しているのです。
狭山田女:あたし達は、お米も作っていたからね。今でも山田の里には、田んぼがいっぱいあるし。
大山田女:土蜘蛛と呼ばれた人達の中には、稲作をしていた人達もいれば、獣を狩ったり、木の実を採ったり、魚を獲ったりしていた人達もいたでしょうし、農耕と狩猟採集の両方をしていた人達もいたでしょう。
狭山田女:時代の移り変わりの時期だったからね。
大山田女:そういう時代の移り変わりの時期の、「境界上」にいた人々が、「土蜘蛛」と呼ばれたのだと思います。しかし「境界」がより遠い場所へ、より後の時間へ伸びていくと、「土蜘蛛」はいなくなってしまいます。
狭山田女:「蝦夷・熊襲・隼人」の時代に移るんだね。
大山田女:はい。ですが、不思議なことに「土蜘蛛」という言葉や概念は、その後の時代になっても残り続けたのです。次はそれを見ていきましょう。



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