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近世以降の「土蜘蛛」 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
大山田女:このように能の題材となったこともあって、土蜘蛛はそれ以降の時代でも積極的に様々な書物や絵画、芸能に登場するようになりました。
狭山田女:さっき、歌舞伎や神楽もあるって言ってたね。
大山田女:はい。他に人形浄瑠璃など、中世~近世の様々な芸能に土蜘蛛の伝説は取り入れられています。やはり、土蜘蛛が千筋の糸を投げかけるところが、見物だからでしょう。
狭山田女:話の内容は?
大山田女:様々な脚色がされてはいますが、基本的に平家物語や能と同じ病に伏せる頼光を土蜘蛛が襲いに来るものか、土蜘蛛草紙と同じく頼光と綱が髑髏を追って土蜘蛛退治をするものか、のどちらかです。
狭山田女:全部頼光にちなむものだってことだね。
大山田女:そうですね。平家物語と能、それから土蜘蛛草紙の伝説は相当の影響力があったらしく、中世以降、土蜘蛛といえば頼光が退治した蜘蛛の化物、という図式になっています。
狭山田女:古代の土蜘蛛が出てくることはもうなかったんだ。
大山田女:そうですね。ただ、能が葛城山の古代の土蜘蛛を背景にしていますから、それなりには意識されていたと思います。ルーツははるか古代にあるという。例えば歌舞伎では、土蜘蛛が「日本の主宰神・天照大神が鎮まる伊勢、その伊勢の神風が吹かなければ、我が支配下の蜘蛛が群がり、日本全国へ巣を張って、すぐに魔界にしているものを」と語ります。
狭山田女:おぉ~、まるで天照に復讐しようとする魔王だね。
大山田女:これは土蜘蛛が朝廷に仇成すものであり、神話の時代からの天津神・天皇の敵であって、未だその怨念は晴らされていない、という考えに基づくものでしょう。
大山田女:古代の土蜘蛛も、化物の土蜘蛛の背景として、忘れられずに生きてるって訳だ。
大山田女:また歌舞伎の土蜘蛛では、はじめ遊女に化けて頼光を惑わすものもあります。それから一部の神楽では、能に出て来る侍女「胡蝶」が、薬をもらいに行く途中で土蜘蛛に殺されてしまい、土蜘蛛が胡蝶に化けて頼光に毒を飲ませようとするものもあります。
狭山田女:つまり、土蜘蛛が女に化けるってことだね。
大山田女:はい。これもこれまで繰り返し見てきましたが、古代の土蜘蛛を背景としているものでしょう。こうした土蜘蛛の歌舞伎を表した浮世絵も描かれましたし、「江戸時代」には妖怪ものの絵や読み物が非常に多く作られましたが、そこでも土蜘蛛は出てきます。例えば妖怪画として最も有名なものの一つ、「画図百鬼夜行」。ここにも土蜘蛛は出てきており、「源頼光が土蜘蛛を退治された事は、子供の女でも知っている」と解説が書かれています。
狭山田女:それだけ有名だったんだ。

江戸の「土蜘蛛」伝説 前の項へ 次の項へ 最初に戻る
大山田女:妖怪としての土蜘蛛は、江戸時代にはかなりポピュラーだったようですね。ところで、江戸にも土蜘蛛伝説があったんですよ。
狭山田女:「江戸時代」じゃなくて、「江戸の街」ってこと?
大山田女:はい。今は「東京」と呼ばれる街にです。今「四谷」と呼ばれるあたりの坂に、化物が出てきて女をさらうと言われていました。そこであの頼光の従者・渡辺綱が女装して坂にやって来たのです。やがて木の上に黒い何者かが現れました。黒い何者かは紐を下ろして来て、その紐が綱の体に巻き付き、木の上に引き上げられていったのですが、綱は刀で何者かに斬り付け、木からたたき落としました。何者かの姿は見えなくなりましたが、近くの農家から松明を借りると血の跡があり、それをたどると自証院というお寺の境内の盛り土に続いていたのです。夜明けになってから盛り土を掘ってみると、大きな蜘蛛の死骸が出て来ました。それ以来この坂を「蜘蛛切坂」というようになった、というお話です。
狭山田女:ええーっ、江戸に渡辺綱が現れたんだ。でも京にいたんだよね、綱は。
大山田女:もちろんそうですが、綱の出身地を今の東京でいう「三田」の出身だとする伝説があるのです。また晩年故郷に帰って来て暮らしたという伝説もあります。今でも三田には「綱坂」とか「渡辺坂」と呼ばれる坂があって、「三田綱町」という地名も残っているんですよ。それが史実かどうかは分かりませんが、江戸で伝説が生まれるほど、土蜘蛛はポピュラーな存在だったということですね。
狭山田女:そうだね。それにしてもこの伝説じゃ逆に綱のほうが女に化けてるのがちょっと面白いね。
大山田女:これは「土蜘蛛が女に化ける」という伝説の変形なのでしょう。
狭山田女:その背景には、古代の土蜘蛛の女首長がある、ってことか。 そういえば関東だと、常陸国風土記には古代の土蜘蛛がいっぱい出て来るよね。もしかしたら大昔の出来事が形を変えて伝わった、ってことはないのかな。
大山田女:さあ……どうでしょう。自証院というお寺自体、江戸時代に建てられたものですから。でも、お寺には鎌倉時代の碑が残っているようですから、自証院が建つ前から、お寺か何かはあったのかもしれませんね。ちなみにこの伝説には続きがあって、蜘蛛の死骸が出て来た穴から清水が湧き出てきたのですが、その水を飲んだ人は次々と苦しみながら死んでしまったそうです。それからこの泉を「蜘蛛の井」と呼んで恐れ、飲み水としは使わないようにしたそうです。
狭山田女:うーん、何だかこっちの井戸の伝説は古そうな気がするね。
大山田女:そうですね。泉や井戸にまつわる話はそうでしょう。これが古代の土蜘蛛に関係あるかどうかは分かりませんが。ただ関東というのは、地理的なこともありますけど、朝廷に反抗的な土地柄ではありました。古くは常陸の土蜘蛛もそうですし、日本武尊も征伐に来ています。時代が下れば、平将門の乱。鎌倉幕府も、朝廷への反抗と見ることもできます。
狭山田女:将門の首塚も今の「東京」にあるもんね。
大山田女:そうですね、古代以来、反抗的な土地柄ですから、この伝説のベースには、もしかするとこの土地で滅ぼされた土蜘蛛のような「まつろわぬ者」の伝承が形を変えて残ったのかもしれませんね。
狭山田女:そうだね、もしかしたら……だね。

いざ「土蜘蛛」の旅へ 前の項へ 最初に戻る
大山田女:何にせよ、古代、朝廷の勢力圏内外の境界上にいた、どちらかというと反抗的な「土蜘蛛」と呼ばれた人々が、平安時代~中世には蜘蛛の化物と思われるようになり、やがて様々な書物、絵画、芸能に取り込まれていって、ポピュラーな存在になっていったということです。
狭山田女:うん。蜘蛛の妖怪になっちゃたけど、あたし達のことは、ずっと後の時代の人達にも知られてたんだね。ま、複雑な気持ちではあるけど。
大山田女:そうですね。ともかく、これが私達がそう呼ばれた「土蜘蛛」というものの、歴史です。こちらに参拝に来られた皆様方にも、お分かり頂けたでしょうか。
狭山田女:次は、今も残ってる「土蜘蛛」伝説の場所へ、あたし達と一緒に行ってみよう! そうすると、きっともっとよく分かると思うよ!
大山田女:それでは皆様、土蜘蛛紀行のほうでも、ご一緒させて頂きます。
狭山田女:いざ土蜘蛛の旅に出発だ! さあ、大山田ちゃん、早く早く!
大山田女:狭山田さん、待って下さい……そんなに慌てると、忘れ物しますよ。ほら、これも持って行かないと……古事記・日本書紀・風土記(逸文・残欠含む)に出て来る、古代の土蜘蛛の一覧です。これがあれば、安心して土蜘蛛の旅が出来ますね。どうぞご覧下さい。それでは皆様、ご一緒に参りましょう。



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