邪神大神宮 道先案内(ナビゲーション)
鳥居(TOP)斎庭(総合メニュー)万邪神殿土蜘蛛宮土蜘蛛紀行 豊後編 其之四、大野
>イ、知田
土蜘蛛紀行一覧 



土蜘蛛紀行 豊後編
其之四、大野─イ、知田
 八束脛門へ戻る



狭山田女:何だかのどかなところだね。
大山田女:佐賀関より南西に約五十キロ、大分県南西部の内陸部、豊後大野市緒方町知田(ちだ)です。緒方川というそれなりに大きな川の谷間の土地。谷間ではありますが、長い間に川が運んだ土砂が堆積したのか、険しい地形ではなく、見ての通り平らな土地です。

狭山田女:確かに谷って割には、山も低いし、台地か盆地ってくらいの感じかな。
大山田女:大野というところは、大野川という大分県内有数の大河が作った、こうした盆地状の土地が多いため、海からはかなりの距離があるにも関わらず、比較的なだらかな地形です。ここを流れる緒方川も大野川の有力な支流の一つ。下っていけば大分市で別府湾に注ぎます。北東の大野川河口までは、直線距離でやはり約五十キロ。大野川水系の水源のほうは、阿蘇山系に多く、西へニ、三十キロくらいです。ですので、このあたりは大野川中流域のやや上流寄りという事が言えるでしょう。
狭山田女:うん、どんなところなのかは大体分かった。で、土蜘蛛とはどんな関係が?
大山田女:まずは、佐賀関で話した、日本書紀、豊後国風土記に出てくる速津媛の話に戻りましょう。速津媛は出迎えた景行天皇に、豊後の土蜘蛛の首長とその拠点について話します。彼らは皆荒っぽくて力が強く、部下も多くて、「天皇の命令には従わない」と言っており、強引に呼び出すと武力で抵抗するでしょう、と。
狭山田女:いかにも「辺境の蛮族」的な描写だね。
大山田女:海岸沿いに住むヒメが、内陸の猛者達について語っている訳ですからね。そして速津媛は、この土蜘蛛には二つのグループがあると言っています。最初のグループが青(アオ)・白(シロ)という二人のリーダーに率いられた集団。彼らは山中の大きな岩窟「鼠石窟(ねずみのいわや)」を根城にしている、と。
狭山田女:ここここに詳しく書いてあるね。日本書紀と風土記の両方に出てくるんだ。
大山田女:はい。両者の内容は基本的に同じですが、両方に出てくる土蜘蛛はこの速津媛の語るものだけですね。中央の公式歴史書に採用されたという事は、地方の対土蜘蛛戦の中では大きなものだったのでしょう。実際、他の記紀や風土記の土蜘蛛に比べても、突出して記事の量が多く、内容も詳細です。そして、他の土蜘蛛のように、簡単に滅ぼせるものではなかったようです。
狭山田女:他の土蜘蛛はあっさり書いてある事が多いもんね。大集団で抵抗も激しかったんだろうなあ。
大山田女:速津媛から話を聞いた天皇も、すぐに戦闘には移りません。まず内陸部に拠点を築いて、じっくり計略を練ります。記紀や風土記の土蜘蛛討伐譚では異例の事です。そして、天皇はまず青・白を討つための行動を開始します。ツバキの木を切って椎(つち)、現代的に言えば木槌、ハンマーを作り、兵士に持たせます。その椎を作った場所が、海石榴市(つばきち)という地名になったと書かれています。
狭山田女:ハンマー?まあ大きければ武器にはなるかもしれないけど、何か変だね。仮にも天皇の軍なら、剣とか矛とかで武装してると思うけど。
大山田女:日本書紀にも風土記にも、その椎で山に穴を開けて草をなぎ払ったと書いてあります。ですから、道のないところを切り開くのに使ったのかもしれません。
狭山田女:ああ、それならハンマーも必要かも。土木工事みたいな事をしたのかな。
大山田女:または、土蜘蛛側が柵や砦のようなものを築いていて、その破壊のために使ったのかもしれませんね。「椎」というのは「物を打つ時に使うもの」という意味ですので、現代の木槌などとは違うものかもしれません。例えば、何人がかりかで持つ巨大な丸太とか。現代の人は公園などにある小さなツバキくらいしか想像がつかないかもしれませんが、本来は二十メートルを越す巨木になるものですからね。大変堅い木でもありますし。
狭山田女:デッカイ丸太を何人かで持って突進か。柵を壊したりするときによくやるね。
大山田女:風土記には「敵の交通の拠点を遮って」という表現もあります。土蜘蛛側が要所要所に柵や砦を設けていてそれを破壊したか、分散している土蜘蛛の拠点間の移動・連絡・補給等を断つために、天皇側が主要地点に柵や砦を設けたのかもしれません。天皇側がじっくり計略を練って挑んだ相手です。それくらいの事はあってもおかしくないでしょう。人数の多い集団だと書かれていますしね。速津媛の言う「二つのグループ」が連携していた可能性もあるでしょう。二つのグループの拠点は地理的にも近いようですし、日本書紀・風土記とも、両者との戦闘を一連の戦として書いていますからね。
狭山田女:確かに一筋縄では行かない激しい戦の様子は伝わって来るよ。
大山田女:一方で、ツバキという木は常緑樹であり、冬に花を咲かせる生命力の強い木です。春の訪れを告げるものでもあります。そうした事から古来神聖視されており、神の宿る「聖なる木」でもありました。神が藤の枝を武器にする神話などもありますし、天皇軍を「神軍」とする聖性の象徴かもしれません。
狭山田女:なるほど。実際の話に神話的な「味付け」がしてあるのかもね。ところで、そのツバキの椎を作ったっていう「海石榴市」って場所が、ここなのかな?
大山田女:いえ、海石榴市がどこの事なのかは、全く分かっていないようです。話を続けると、天皇軍は「稲葉の川上」において青・白らを破り、その軍勢をことごとく殺害しました。あまりに多くを殺害したためでしょうか、大量の血が流れて池のように溜まり、くるぶしが埋まるほどに達しました。五~十センチほどの深さでしょうか。凄まじいですね。その血が流れた場所が、「血田(ちだ)」という地名になったと書かれています。
狭山田女:ち、血生臭い話だね……つまり、その「血田」が、この「知田」なんだ。のどかな場所だと思ってたけど、そんな恐ろしい場所だったとは……。
大山田女:「血田」の候補地は、今のところここくらいのようです。くるぶしが埋まるほど血が溜まる、という表現は、日本書紀で神武天皇が大和入りする際の戦闘にも使われています。ですから特に「逆賊」を討伐するときに使う、古代の慣用表現のようなものだとは思いますが、事前の計略、ツバキの椎、そしてこの血田の表現を合わせて考えると、日本書紀や風土記は尋常な戦闘ではなかったという事を伝えたいのは確かですね。
狭山田女:う~ん確かに。歴史に残る激戦だったんだろうね。実際、歴史書に事細かに書かれた訳だし。そういえば「稲葉の川上」とも言ってたけど、それもここらの事なのかな。
大山田女:「稲葉の川上」を大雑把に大野川上流域と考えるなら、該当はしていると思います。別府湾から大野川を遡って来れば、間違いなく「川上」に当たりますので。
狭山田女:でも、ここの景色を見る限り、「川上」って割にはなだらかな感じもするよね。「川上」って言うと、もっと渓流ぽいイメージだ。
大山田女:知田の風景を見ているとそう思いますね。しかし、例えばこちらを見て下さい。

狭山田女:水も流れてないような小さな川だね。でも「知田川」か。緒方川の他に、「知田」の名前が付いた川もあるんだね。それに「土石流危険渓流」って書いてある。小さいけど急流だって事だね。
大山田女:そうです。のどかで平らな土地に見えますが、一歩山に入ればなかなか険しい場所という事です。

狭山田女:土石流が起きるような渓流なら、「川上」のイメージにも合ってる。
大山田女:平地と山岳の境界部という事では、「土蜘蛛」の居る場所としてもふさわしいでしょう。
狭山田女:あたし達の山田の里とか、海松橿ちゃんの故郷見借とか、「土蜘蛛」の本場・大和の葛城もそうだったね。青さん白さんの住む「鼠石窟」も山の中だって言ってたっけ。
大山田女:はい。ただ「鼠石窟」の場所も全く分かっていません。もっとも「血田」からそんなに離れている事はないでしょうから、知田川を遡った山の中にあったのかもしれませんね。
狭山田女:「鼠石窟」の場所も不明なんだね~。でも「知田」が「川上」だとしてもおかしくない事は分かったけど、「稲葉」は?地名か川の名前だよね?
大山田女:緒方川の本流大野川、これは緒方川に並行して、一、二キロほど北のところを東西に流れているのですが、ここから西へ約五キロ、竹田市との境界あたりで、稲葉川という川が大野川に合流しています。稲葉川の上流、熊本県との境界近くに、「稲葉」という地名もあります。
狭山田女:そのものズバリ「稲葉川」があって、上流に「稲葉」もあるの?じゃあその上流が「稲葉の川上」なんじゃ。
大山田女:ところが、稲葉川という川は、最初から最後まで竹田市内を流れているのです。そして竹田市というのは、直入(なおいり)郡の領域です。一方、風土記には「海石榴市」「血田」は大野郡にあると書いてあります。大野郡というのは、大体現在の豊後大野市にあたります。長い間に郡の境界が移動する事はありますが、古代にも稲葉川が大野郡に含まれたという事はないようです。まして熊本県との境界に近い「稲葉」が大野郡だったという事はあり得ません。その上、風土記には「稲葉の川上」という単語は出て来ないのです。出て来るのは日本書紀だけです。
狭山田女:そうなんだ、土地の描写に関しては風土記の方が正確だろうからね。地元の事だけを書いた本なんだから。
大山田女:風土記でも、速見郡の速津媛が海部郡に来た、という話が速見郡の記事にあるように、他郡の内容を書くという事はあります。しかし速津媛の話でもしっかり「海部郡」と他郡の名称を出した上での事ですし、「海石榴市」「血田」の記事はどこからどう読んでも大野郡の地名由来です。ですから「血田」が稲葉川の上流などという事はありません。にも関わらず、日本書紀でくるぶしが埋まるほどの血が流れたのは「稲葉の川上」だと書いてあるのです。ここから考えられる事は、日本書紀の地名記載がアバウトだったか、今では大野川の一支流である「稲葉川」という名称が、古代には大野川の全体もしくは中・上流を指したものだった、という事でしょう。
狭山田女:まあ「稲葉の川上」って表現自体がアバウトだからね。「上流」って言ってるだけで、ピンポイントじゃないし。それに同じ川の名前でも時代や場所で変わったり、いくつか別名があったりもするもんね。
大山田女:現代のように河川名を厳密に国が定めている訳ではないですからね。どれが本流でどれが支流かという事も、現代になって決めている例もあります。以前見た筑後川などは、名称が実に様々で、江戸時代になってようやく幕府の命令で下流の名前が筑後川と決定しましたが、上流は今でも別の名前です。またどれが本流か決まったのは、戦後になってからです。その他、日本一の大河「信濃川」が、肝心の信濃を流れている間は「千曲川」という名称になっている例もあります。越後に入ると「信濃川」になりますが、これは「信濃から流れて来る川」という越後の視点から付けられた名前です。ですから大野川が当の大野郡では「稲葉から流れて来る川」の意味で「稲葉川」と呼ばれていて、下流の別府湾岸で「大野から流れて来る川」の意味で「大野川」と呼ばれいた可能性も考えられるでしょう。実際現代の「稲葉川」が流れている竹田市中心部から見ても、「稲葉」は西の果ての山奥です。
狭山田女:なるほどね。でも、そう言われればそうかとも思うけど、イマイチ納得できないところもあるなあ。
大山田女:私もそう言っておきながら、実は疑問に思うところもあります。そこで、もう一つ注目したいのは、「稲葉の川上」を字義通り現代の稲葉川上流と解釈した場合、速津媛が語った「もう一つのグループ」の土蜘蛛の拠点に近いという事です。こちら話の伝承地の一つには、稲葉川の支流が流れています。まさに「稲葉の川上」と言えるでしょう。
狭山田女:それだ!それが一番しっくり来る気がする。
大山田女:元々速津媛の情報提供から始まった一連の戦いですからね。日本書紀でもその程度の混同や順番の前後はあり得るでしょう。どのタイミングで取ったか不明瞭な行動なども記されていますしね。まあ、半ば神話化された伝承ですから、元々そこまで正確さを期待できるものではないのですが。
狭山田女:まあね。それを言っちゃうと、「土蜘蛛紀行」が成り立たなくなっちゃけど。とりあえず、大野川の上流あたりに、大和に反抗的な人達がいて、激戦になったのは確かなんだろうね。
大山田女:はい。それは確実だと思います。さて、この近くに「大野川上流」を象徴するような場所がありますので、折角ですから行ってみましょう。

狭山田女:どわあっ!デッカイ滝だなあ。
大山田女:知田から西へ緒方川を三キロ程上流に遡った場所にある、「原尻(はらじり)の滝」です。「東洋のナイアガラ」とも呼ばれています。
狭山田女:ナイアガラかあ。確かにダイナミックだよね。名前負けはしてないよ。よく見る日本の滝とは大分違う感じ。

大山田女:日本の滝は、もっと山奥の渓流にあるのが一般的ですからね。この滝の特徴は、滝の上がなだらかな土地で、平地から突然落ち込んでいくところにあります。だからこのように幅が広くなる訳ですね。
狭山田女:確かに平地が陥没したような感じだね。あ、飛沫で虹も出来てる。

大山田女:U字型に湾曲した崖の形も独特ですね。作者の大宮司が、動画も撮影したので、こちらもお楽しみ下さい、とのことです。
狭山田女:下からしか映してないのがちょっと残念だけど、凄い迫力だね。

大山田女:知田の下流、緒方川と大野川の合流点あたりには、「沈堕(ちんだ)の滝」という、同じような幅広の滝があって、こちらは「豊後のナイアガラ」と呼ばれているそうです。では、もう一つ大野川の上流部で特徴的なものを見ておきましょう。緒方川をさらに遡ります。

狭山田女:看板に湧水って書いてある。泉だね。
大山田女:こちらは原尻の滝から南西に約五キロ、竹田市内の河宇田(かわうだ)湧水です。澄んだ水がこんこんと湧き出していますよ。汲んで持ち帰る事もできます。
狭山田女:ゴクゴク。う~んおいしい。

大山田女:こちらはすぐ近くの泉水(せんずい)湧水。他にも近隣には沢山の湧水があり、「竹田湧水群」と呼ばれています。
狭山田女:へ~、こんな湧き水がいっぱい。湧き水の街だね。
大山田女:阿蘇山系に降った雨水が地下に潜って伏流水となり、長い長い年月を掛けてこうして湧き出して来るのですよ。

狭山田女:こういう湧き水がいっぱい集まって、大野川になるんだね。
大山田女:ええ。大野川の上流部というのは、大変水に恵まれた土地と言えるでしょう。
狭山田女:大野川の上流部ってのがどんなところか、ちょっと分かったよ。海岸からは遠く離れた内陸だけど、その割には盆地みたいに開けた土地が結構ある。そして、水が豊富。これなら古くから人が住んで栄えただろうね。
大山田女:また、盆地というのは山に囲まれており、防衛にも適しています。出入口は基本的に川しかありません。そして特にこのあたりの場合、その出入口は原尻の滝や沈堕の滝のように、急な地形になっています。これでは大野川がいかに大河であっても、船で盆地に侵入する事は不可能ですね。
狭山田女:原尻の滝の上は平地だったね。その下流の知田も平地だった。その下流にはまた沈堕の滝があるんだよね。何だか階段みたいな土地だね。内陸なのに平地が多いっていうのは、そういう事かあ。
大山田女:その段差の部分は天然の要塞になりますよね。そこの守りを固めたら、攻めるのは難しくなります。すると攻める側は山中を進む事になるでしょう。しかし、それは容易な事ではありません。道を切り開いたり、橋を渡したりする作業も必要になってくるでしょう。
狭山田女:そうか、それで日本書紀や風土記に、土木作業を思わせるような内容があるのかもしれないね。
大山田女:また、守る方は自分達の土地ですから、当然攻める方より地理に詳しい。大軍が相手でも、山中でゲリラ戦を仕掛ければ、かなり有利になります。土木作業中に攻撃を仕掛けたりしたら、よりダメージは大きくなるでしょうね。その上、速津媛はこの地の土蜘蛛について「数が多い」と言っています。水と平地に恵まれていれば、農耕も出来ますからね。それなりの人口があったと思います。そういう集団が、段差的な地形を利用して守りを固めていれば、当然手強いものとなるでしょう。日本書紀や風土記にある通り、天皇軍がこの地を攻めたのであれば、かなりの苦戦を強いられたと思います。「土蜘蛛」というと、少数で山に籠もっている未開の部族のようなイメージでとらえられる事も多いのですが、この地の土蜘蛛はそうしたものとはちょっと違うでしょうね。日本書紀や風土記にある通り、周到に計画して戦にあたらねばならなかった。また土木作業などの苦労も多く、危険な目にも遭ったでしょう。
狭山田女:そういう事だったら、強く印象に残って、細部に渡って後世まで語り継がれるだろうからね。それで他の土蜘蛛と違って、細かいところまで日本書紀や風土記に書かれたのかもね。まさに歴史に残る戦いだったんだ。
大山田女:そうですね。他の土蜘蛛と比べて異例なのは、記事の量が多くて内容が細かい事だけではありません。先に言ったように、日本書紀と風土記の両方に書かれる土蜘蛛は、速津媛が語った豊後の二つのグループしかないのです。風土記に記述のある数ある土蜘蛛の中で、中央の歴史書に採用されたのは、彼らだけ。風土記の多くが失われてしまい、分からなくなっただけで、他にもあったのかもしれませんが、少なくとも、五馬媛さん等、豊後国風土記に出てくる他の土蜘蛛や、最も数の多い肥前国風土記の土蜘蛛も、一つとして登場しません。これはこの豊後の二つのグループの土蜘蛛が、中央の歴史書に書かれるだけの価値があると見なされた事を意味するのだと思います。それだけ彼らが強大であり、征伐に苦戦を強いられたのでしょう。


大きな地図で見る
狭山田女:う~ん、凄い土蜘蛛もいたもんだなあ。あたし達の故郷のある肥前とは九州の反対側になるけど、豊後も「土蜘蛛大国」なんだね。
大山田女:軍事的には「最強の土蜘蛛大国」でしょうね。知田への行き方は、左の地図を参照して下さい。地図上では知田の左に原尻の滝、そのさらに左下に竹田湧水群があります。



豊後編 其之参へ ロ、阿志野へ 道先案内へ戻る