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古代土蜘蛛一覧(古事記・日本書紀)

■古事記
●尾(お)生(お)ふる土雲(ツチグモ)八十建(ヤソタケル)
○掲載箇所:神武天皇
○登場地:忍坂(おさか)の大室(おおむろや)
○比定地:奈良県桜井市忍阪(おっさか)

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 古事記で唯一「土雲」が現れる箇所。神武天皇東征時の逆賊の一つとして登場。「尾が生えている」と書かれている。八十建は人名ではなく、数多くの獰猛な者共、の意と解される。
 神武天皇は、大きな穴倉にいる数多くの土雲に、豪勢な料理を土雲に振る舞う。このとき料理を運んだ料理人に太刀を持たせ、合図とともに斬り付けて、土雲を倒した。
 このとき合図として歌われた歌(久米歌)に「撃ちてし止まむ」というフレーズがある。久米歌を伝える久米氏は軍事氏族でかつ宮廷料理を担う氏族であり、この話はそれを反映しているという。また久米氏は隼人系の氏族で、「クメ」は「熊襲」の「クマ」と同じ語源といわれる。久米歌は後に同じく軍事氏族の大伴氏や佐伯氏によって歌われるようになった。
 「尾が生えている」という記述は、古事記の他の箇所にも見られる。忍坂に至る前、神武天皇が吉野に辿り着いたときに出会った、光る井戸から出て来た国津神「井氷鹿(ヰヒカ)」と、続けて岩を押し分けて現れた国津神「石押分之子(イハオシワクノコ)」である。しかも、石押分之子は吉野の国巣(クニス)らの祖だと書かれている。国巣とは今も吉野に「国栖(くず)」の地名を残す、山岳土着民である。彼らは天皇即位の大嘗祭などで食事を献上し、歌や笛を披露したが、常陸国風土記では、「国巣(クズ)」の別称を「土蜘蛛」としている(詳細はこちら)。これらから見て、同じく尾がある井氷鹿や石押分之子は、「土雲」と同族と思って間違いないだろう。神武天皇に味方したか、敵対したかの違いである。
 なお、忍坂の大室での話は、日本書紀にもあり、大筋は同じ話で、久米歌も登場するが、その際に討たれる者達「虜(あた、賊のこと)」は特に土雲とも土蜘蛛とは呼ばれていない。尾が生えているとも書かれていない。ただし歌の中で「蝦夷」と呼ばれている。また、日本書紀にも井氷鹿と石押分之子(書紀では「井光」「磐排別之子」)は登場し、こちらは尾が生えていると書かれている。石押分之子が国巣(書紀では「国樔」)の先祖だというのも同様に書かれている(ただし「国津神」と書かれるのは「井光」のみ)。
 ちなみに、この井氷鹿を通じて、丹後国風土記残欠の土蜘蛛、陸耳御笠・匹女や、葛城の土蜘蛛との関係が浮かび上がって来るのは、興味深い(詳細はこちら)。
 古事記に登場する土蜘蛛(土雲)は、これだけである。なお、「土雲」という表記は、常陸国風土記(詳細はこちら)や越後国風土記逸文(詳細はこちら)にも見られる。
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■日本書紀
●新城戸畔(ニヒキトベ)・居勢祝(コセノハフリ)・猪祝(ヰノハフリ)
○掲載箇所:神武天皇 即位前紀 己未年二月
○登場地:新城戸畔=層富県(そほのあがた)の波多(はた)の丘岬(をかさき)
      居勢祝=和珥(わに)の坂下(さかもと)
      猪祝=臍見(ほそみ)の長柄(ながら)の丘岬
○比定地:・層富県の波多=奈良県奈良市五条町、唐招提寺の西あたり。
       あるいは同市北椿尾(つばお)町・南椿尾町近辺。
       また「新城」は同県大和郡山市新木町(にきちょう)あたりの地名を指す。
      ・和珥の坂下=奈良県天理市和邇町(わにちょう)。
       また「居勢」は同県御所(ごせ)市古瀬(こせ)のこととも。
      ・臍見の長柄=奈良県御所市長柄、あるいは同県天理市名柄町。

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 日本書紀で最初に現れる土蜘蛛。神武天皇が長脛彦を破った次の記事として、この三者が並んで現れる。三人は「三ヶ所の土蜘蛛」と一括りにされており、その力強さを頼みにして、天皇に帰順しなかったので、天皇は軍隊をそれぞれに分けて派遣して全て誅殺した。長脛彦を倒した後も、まだまだ大和盆地には神武天皇の敵がいたのである。
 彼らはその名に根拠地の地名を負っているようである。「戸畔」は「戸の辺りにいる者」の意味で、地方首長を表わす。日本書紀では、これより前、神武天皇が和歌山あたりで「名草戸畔(ナグサトベ)」を討ったとある。また「戸畔」は「戸女(戸の辺りにいる女)」であり、女性首長を指すものともいう。
 「祝」は司祭者、即ちシャーマンを意味する。神武天皇に従わなかった三人の土蜘蛛のうち、少なくとも二人はシャーマンだった。「戸畔」=「戸女」説を採るなら、三人とも女性シャーマンの首長だったのかもしれない。だとしたらいかにも土蜘蛛らしい話だ。
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●土蜘蛛
○掲載箇所:神武天皇 即位前紀 己未年二月
○登場地:高尾張邑(葛城)
○比定地:奈良県御所市西部、葛城山・金剛山の東麓にあたる葛城地域一帯。

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 新城戸畔・居勢祝・猪祝の討伐記事に続いて登場する。身長が低くて手足が長く、小人のようだと記されている。天皇軍は葛の網を作って、不意を襲って殺した。それでこの地を「葛城」というようになったと書かれている。常陸国風土記の「茨城」の由来として似たような話が書かれており(詳細はこちら)、関連性が気になるところである。
 なお、この葛城という場所は、古代の先進地帯であり、初期の大和王権はここを根拠地としたという、「葛城王朝説」というものがある。その「葛城王朝」は、十代崇神天皇に滅ぼされたという。だとすれば、この土蜘蛛は、「葛城王朝」に関係した人物であったかもしれない。土蜘蛛がいたという高尾張邑には、今も高天彦(たかあまひこ)神社という神社があり、こここそ神話の「高天原」だという伝説がある。また高尾張邑という場所は、「葛城王朝」に深く関与したという、古代の豪族「尾張氏」(尾張国を根拠地とし、その末裔は三種の神器の一つ・草薙剣を祭る熱田神宮の宮司家となった)のルーツでもある。この高天彦神社のすぐ近くに、神武天皇が討った土蜘蛛を葬ったという「蜘蛛塚」がある。神武天皇は崇神天皇をモデルにしたとも言われているので、実は葛城の土蜘蛛を討ったのは崇神天皇だった可能性もある。その崇神天皇は「葛城王朝」を滅ぼしたとも言われる。葛城の土蜘蛛とは、一体何者だったのだろう。この点を通じて、丹後国風土記残欠の土蜘蛛、陸耳御笠・匹女との関連性も浮かび上がって来る(詳細はこちら)。
 また、葛城の土蜘蛛を葬ったという「蜘蛛塚」は、同じ葛城の一言主(ひとことぬし)神社の境内にもある。一言主神社はその名の通り、一言主神を祭る神社だが、この神については、二十一代雄略天皇の行幸の列と、全く同じ姿で現れるという、不可思議な話が古事記・日本書紀に書かれている。一方、葛城を古代から根拠地とした賀茂氏の出身で、葛城山で修行した修験道の開祖・役小角(エンノオヅヌ)は、この神を含め多くの鬼神を使役して道や橋を作ったという。これを恨んだ一言主神は、小角に謀反を起そうとしていると、朝廷に讒言する。その他、同じ雄略天皇の話にしても、最も古い古事記では雄略天皇は一言主神を恐れ敬うが、その少し後の日本書紀では一緒に狩を楽しんだと書かれ、さらに後の続日本紀では無礼を理由に土佐に流されたと記されている。このように、はるか昔には天皇すら恐れおののく程の神性を持ちながら、後世には零落し、流刑や使役などの目に遭っている。これは葛城に関わる氏族の衰退を表わすものとされるが、これらから、一言主神もまた「葛城王朝」に関わる者だったのではないかと思われてくる。天皇すら恐れるその様は、まさに葛城の大王そのものだ。
 その一言主神を祭る総本社・葛城の一言主神社に、「蜘蛛塚」がある。一言主神と土蜘蛛には深い関係があるのは間違いないが、ここでも土蜘蛛と「葛城王朝」の関係が浮かんでくるのである。全国の土蜘蛛の中でも、葛城の土蜘蛛だけが、能に取り上げられるなどして後世にも印象深く伝えられているのには、こうしたことが背景にあるように思える。
 その能「土蜘蛛」では、この土蜘蛛の怨念が積み重なり、大蜘蛛の妖怪と化して現れ、平安時代の武将・源頼光を苦しめる。古代の土蜘蛛のうち、形を変えつつも唯一後世まで「生き残った」土蜘蛛とも言え、「古代の反体制的辺境民」→「中近世の蜘蛛の妖怪」という変遷を示す例でもある。そういった意味では、この土蜘蛛こそ「土蜘蛛の中の土蜘蛛」である。
 なお、源頼光と言えば、同じく能に取り上げられる、丹後は大江山の酒呑童子退治で有名であるが、ここでも丹後とつながりが見えてくるのは興味深い。丹後国風土記残欠の土蜘蛛、陸耳御笠が官軍の追撃を振り切り、最後に逃げ込んだのは、大江山だった。
 神武天皇即位前紀に登場する土蜘蛛は、以上である。
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●青(アヲ)・白(シロ)
○掲載箇所:景行天皇 十二年十月
○登場地:鼠石窟(ねずみのいはや)、稲葉(いなば)の川上、血田(ちた)
○比定地:鼠石窟=不明
      稲葉の川上=大分県竹田市稲葉川流域
      血田=大分県豊後大野市緒方町知田(ちだ)

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 日本書紀において、神武天皇の時代の次に土蜘蛛が記されるのは、十二代景行天皇の時代である。九州の熊襲が背いて朝貢しなかったので、自ら九州に赴いた。九州北部では、帰順した「神夏磯媛(カムナツソヒメ)」から情報を得て、現在の福岡県東部と大分県北部の賊を平定する。が、彼らは土蜘蛛とは呼ばれていない。天皇が速見邑(はやみのむら、大分県別府市近辺)へ進むと、地域の首長・速津媛(ハヤツヒメ)が天皇を出迎える。そこで近隣の天皇に従わない逆賊「土蜘蛛」の報告をするのだが、そのうち最初に出てくる二人が青・白である。
 彼らは近くの山の大きな石窟に住んでいて、後に出てくる三人の土蜘蛛とともに非常に力が強く、部下も大勢おり、皆「天皇には従わない」と言っていて、強引に召還しても兵を起して妨害するでしょう、と速津媛は言う。天皇はこれを征伐することにした。
 天皇の軍の中でも精鋭を選び、ツバキの木槌を作って与えた。それで石窟の青・白を襲撃し、稲葉の川上で破り、彼らをことごとく殺害する。血が大量に流れ、くるぶしが達する程になった。そのツバキの木槌を作った場所を海石榴市(つばきち)、血が流れた場所を血田というようになった、という話である。
 天皇に従う者・従わない者がはっきりと描かれ、従わない者には容赦ない攻撃が加えられる描写が印象的。古代の勢力圏争いをリアルに伝える文である(もちろん、象徴的・神話的要素も多分にあるが)。青・白は豊後国風土記にも現れる(詳細はこちら)。話の筋書きもほぼ同じ。
 なお、鼠石窟も稲葉の川上も具体的な場所は不明だが、豊後国風土記では青・白が討たれたのを大野郡(現在の豊後大野市周辺)の出来事として書いている。
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●打サル(ウチサル、「サル」は「けものへん」に「爰」)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)
○掲載箇所:景行天皇 十二年十月
○登場地:直入県(なほりのあがた)の禰疑野(ねぎの)
○比定地:大分県竹田市今(いま)の禰疑野神社周辺

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 速津媛が青・白に続いて報告するのがこの三人。天皇は青・白に続いて彼らを討とうとし、山を越えようとするが、敵の矢が雨のように降り注いだので一旦退却する。そこの川のほとりで占いをする。兵を整えて、まず八田を禰疑野で破った。打サルは勝つ見込みがないと思い、降伏を願い出るが、天皇は許さず、彼らは皆自ら谷に投身して死んだ(国摩侶に関しては詳細が語られていないが、このときに共に死んだものか)。
 また天皇は討伐の前に、柏峡(かしわを、竹田市荻町柏原(かしわばる)近辺)の大野で宿泊したが、その野に大きな石があった。天皇は「もし土蜘蛛を滅ぼすことができるのならば、この石を蹴る時に、柏の葉のように舞い上がれ」と言って神意を問うて石を蹴った。すると、柏の葉のように石が大空に舞い上がった、という話である。
 天皇が一旦退却するなど、朝廷の賊討伐譚としては珍しい話である。戦の経緯がここまで細かに書かれているのも珍しい。朝廷がこの三人の土蜘蛛には余程手を焼いて、後々まで細かに語り継がれたのかもしれない。二回に渡って神意を問うたのも苦戦した為であろう。しかし一方で古代の呪術性・神話性も見える。
 また、土蜘蛛達の人名も特徴がある。打サルなどは蔑称の趣があるが、国摩侶などは後世にもあるような、一般的な人名である。これは自称だったのではないかと思われる。土蜘蛛というといかにも山岳に居住する異民族のような趣があるが、この人名からは利害上敵対しただけで、同じ文化を共有する同民族の感がある。
 打サル・八田・国摩侶は青・白同様、豊後国風土記に登場(詳細はこちら)し、やはり話の大筋は同じである。また肥前国風土記、肥後国風土記逸文に、現在の熊本県の山を根拠地にした土蜘蛛「打猴(ウチサル)」が出てくる(詳細はこちら)。関係は不明だが、阿蘇山を挟む東西に、同名の強力な土蜘蛛がいたことになっているのは興味深い。
 天皇はこの後南九州へ向かい、熊襲を討伐し、六年後、大和へ帰るため九州西部を北上する。
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●津頬(ツララ)
○掲載箇所:景行天皇 十八年六月
○登場地:玉杵名邑(たまきなのむら)
○比定地:熊本県玉名市・荒尾市・玉名郡周辺

 景行天皇が大和へ帰るため、九州東部を北上するとき、現在の熊本県の宇土半島から島原湾を渡り、一旦長崎県の島原半島へ向かった。そこからまた有明海を渡り、熊本県側へ向かう。そのとき上陸したのが、玉杵名邑だった。
 この玉杵名邑に来たときに、「土蜘蛛の津頬を殺害なされた」と簡単に書かれている。
 景行天皇はさらに北上して、大和へ帰る。景行天皇紀で土蜘蛛が登場するのは以上である。
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●田油津媛(タブラツヒメ)・夏羽(ナツハ)
○掲載箇所:神功皇后 摂政前紀 仲哀天皇九年三月
○登場地:山門県(やまとのあがた)
○比定地:福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)山門(やまと)近辺

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 十四代仲哀天皇は熊襲が従わず朝貢しないので、九州へ討伐に行く。九州に着くと、皇后(神功皇后)に神が降り、熊襲征伐を止めて新羅征伐に行くように言われるが、天皇はこの神託を受け入れずに熊襲征討を行い、失敗に終わって崩御する。神功皇后は天皇の死を隠し、再度神託を得て、その神が住吉三神等と分かる。神託の後、皇后はまず熊襲やその他九州の賊を討つ。その際に誅伐された一人が、土蜘蛛の田油津媛である。
 田油津媛が誅伐されたとき、兄の夏羽が軍を起して迎え来たが、妹が誅伐されたと聞いて逃げた。妹のほうが有力だったのか、ともかく妹が討たれては勝算がなかったということだろう。
 ここに見えるのは、土蜘蛛の女性首長であり、恐らくはシャーマンであろう。兄よりも有力者のような感もある。名前の「タブラツ」は「誑かす」と語源を同じくする言葉で、「人を惑わす」という意味があり、シャーマンとしての実体を表わすのにふさわしい。邪馬台国の卑弥呼も、魏志倭人伝に「鬼道」によって衆を惑わしたと書かれている。また、当地にある田油津媛の墓と言われる「蜘蛛塚」、別名「大塚」「女王塚」は、景行天皇に討たれた逆賊の首長「葛築目(クズチメ)」の墓とも言われている。「国巣(クズ)」は常陸国風土記に土蜘蛛の別名と書かれており(詳細はこちら)、「チ」を水の神「ミズチ」や野の神「ノズチ」と同じく神霊、霊力の意、「メ」を女性の意に解すると、「クズチメ」という名は「土蜘蛛の巫女」と解釈できる。
 ちなみにこの「山門」という土地は、邪馬台国九州説の最も有力な比定地でもあり、卑弥呼の墓と言われる古墳や、卑弥呼が築いたのか、白村江の戦いの後、朝廷が九州防備の為に築いたのか説が分かれる、山麓を何キロにも渡って石垣で囲った巨石遺構「女山神籠石(ぞやまこうごいし)」もある。田油津媛も卑弥呼の前の邪馬台国の支配者か、卑弥呼本人ではないかという説もあるのである。なお、神功皇后は、日本書紀で卑弥呼に当たると人物として書かれている。
 神功皇后は、この後新羅を討ち、帰って来たときに皇子が生まれる。この皇子こそ、十五代応神天皇、即ち八幡神である。
 日本書紀の土蜘蛛の記述は、以上である。
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