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土蜘蛛紀行 肥前編
其之壱、佐賀─ト、久保泉丸山遺跡
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狭山田女:あやや、石の小山がいっぱい。
大山田女:山田の里から東へ約四キロの場所にある、久保泉丸山(くぼいずみまるやま)遺跡です。
狭山田女:てことは、ここは私達のお隣のムラか。この石の小山はお墓かな。
大山田女:はい、五~六世紀の古墳です。風土記が書かれた時代からニ、三百年前のものになります。

狭山田女:すると当時の人達も知っていたんだろうね。あたし達の時代ともそんなに違わないしね。確かにこういう大きなお墓を作る人達はいたもんね。
大山田女:そうですね。実はこの遺跡はここよりももう少し東にあったのですが、高速道路の工事で、ここへ移されました。石室も公開されていますので、中へ入ってみましょう。

狭山田女:わあ、真っ赤だ。昔こういうお墓が好きな人達はいたね。
大山田女:棺を置く石室を赤く塗ったり、何かの文様を描いたりする古墳は、日本でもほとんどが九州に集中して存在しています。当時の宗教観とか、死生観を反映したものですね。
狭山田女:赤は魔除けの色とも言われるもんね。

大山田女:この小さな岩で大きな岩を支えているのは、もっと古い時代のお墓で、「支石墓」と言います。
狭山田女:ああ、昔見た事あるね。あたし達より前の時代の人達のお墓だね。
大山田女:この支石墓は縄文時代晩期から弥生時代前期、紀元前五世紀~紀元前三世紀頃のものです。中国東北部から、朝鮮半島を経て伝わりました。


狭山田女:てことは、向こうからやって来た人達のお墓なのかな?
大山田女:確かに支石墓は、日本では九州北西部にしかありませんので、あちらの影響を強く受けたものに間違いはないのですが、調査したところ、中に葬られている人達は、それ以前から日本にいた縄文人の特徴が強い事が分かったそうです。

狭山田女:じゃあ、あたし達のご先祖様のお墓かもしれないね。この岩の下の甕は、棺だよね。
大山田女:はい。支石墓の中にこうして甕棺を納めたのも、日本独自の特徴です。
狭山田女:すると、日本に昔からいたあたし達のご先祖様達が、中国や朝鮮半島から来た人達の文化を取り入れたのかな。

大山田女:おそらくそうなのでしょう。ここから出土した縄文土器からは、籾の跡も見つかっているそうです。私達のご先祖様が、大陸や半島から持ち込まれた稲作を受け入れたのでしょうね。
狭山田女:そのときに、こういうお墓の形式も一緒に取り入れたんだね。
大山田女:ええ。大陸や半島の人達がやって来た時には、様々なトラブルもあったと思いますが、仲良くやっていった場合もあったのでしょう。やがて、混血もしていったようですし……。ただ、文化の違いは必ずしも完全に解消されたとは限らず、後々まで軋轢を生んだ可能性もあります。
狭山田女:そういう文化の違いは、あたし達が「土蜘蛛」と呼ばれた事とも、関係あるだろうね。
大山田女:はい、私達は周りの違う文化にもある程度の理解を示しましたし、相手も私達にそれなりに理解を示しました。その事は後々まで伝わって、風土記の内容にも反映されていると思います。でも、悲しい結果になってしまった事も、残念ながら沢山ありました。
狭山田女:そうだね、あたし達の周りのムラでも、そういう事件はいっぱいあったもんね。
大山田女:「土蜘蛛」と呼ばれた人々の中でも、私達のように滅亡を免れたのは、珍しいケースですから。でもそれは、この支石墓に葬られている人達のように、異なる文化を持つ人々と上手くやっていくという知恵によるところも大きいのです。そうした知恵を、ご先祖様から受け継いだ事に感謝しなくてはなりませんね。
狭山田女:うん。ご先祖様、ありがとう。それにしても、ここには随分沢山のお墓があるんだね。
大山田女:ここには支石墓が百基以上あり、同時代のお墓は百三十基あります。古墳は十一基です。この近くのムラの有力者の墓地として、長い間使われたようですね。一種の聖地だったのだと思います。それから、先程大陸や半島から渡ってきた人達の話になしましたが、この土地には、古代中国の伝説的な方士、徐福(じょふく)がやって来たという伝説もあります。
狭山田女:方士って言うと、平たく言えば魔法使いみたいな感じかな。
大山田女:そうですね、魔法使いと学者と医者を兼ねたようなものですね。徐福は秦の始皇帝の命令で、あるいは徐福が始皇帝に話を持ちかけたとも言われていますが、大勢の人を引き連れて船に乗り、東の海へ不老不死の霊薬を探しに出掛けました。そのたどり着いた先が、日本だという話もあり、日本各地にそうした伝説があるのですが、ここもその一つです。
狭山田女:まあ、こうして向こうの文化を取り入れたお墓があるのだから、全くの嘘って訳じゃないかもね。

大山田女:徐福が生きたとされる時代は紀元前三世紀、ここの支石墓と同じ時代ですしね。ほら、あの森の奥にある山、金立(きんりゅう)山という山ですが、ここに「フロフキ」という薬草が生えています。これを徐福が見つけたという伝説があります。
狭山田女:へ~、このお墓と関係あるかも。この場所もあの山の麓だもんね。


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大山田女:この遺跡がある金立公園の敷地内には、それを記念した徐福長寿館という施設もあります。
狭山田女:なかなか面白い場所だね。
大山田女:そうですね。金立公園は、ハイウェイオアシスにもなっていて、長崎自動車道の金立サービスエリアとつながっているので、現代の人は自動車なら簡単にアクセスできますよ。久保泉丸山遺跡への行き方は、左の地図を参照して下さい。



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