■常陸国風土記
●山の佐伯(サヘキ)・野の佐伯
○掲載箇所:茨城(うばらき)郡
○登場地:茨城郡
○比定地:茨城県中南部
古老が言うには、昔、国巣(クズ)、土地の言葉では、都知久母(ツチクモ)または夜都賀波岐(ヤツカハギ)というが、その国巣である、山の佐伯・野の佐伯がいた。至る所に穴倉を掘って、常に穴倉に住み、人が来ると穴倉に入って隠れ、人が去ると、また野原に出て遊んだ。狼のような狂暴な性質、フクロウのような不気味な心情で、ネズミのようにこそこそと窺い、犬のように素早く盗む。招き寄せなだめてくれる人もおらず、ますます土地の風習から遠ざかっていった。この時、大(オホ)の臣(オミ)の同族・黒坂命(クロサカノミコト)が、佐伯達の出て遊ぶときを狙って、茨蕀(うばら、いばらのこと)穴倉の中に敷いて、すぐに騎馬兵によって突然追い迫らせた。佐伯達はいつものように穴倉に走り帰り、皆イバラに引っ掛かって、突かれ傷つき病気になり、死んだり散って行ったりした。だから、茨蕀を取り上げて、県(あがた)の名に付けた、という郡名由来。さらに、別伝が続く。
山の佐伯、野の佐伯が自ら賊の長となり、手下を率いて、国の中を勝手気ままに移動し、略奪や殺人を大変に重ねた。その時、黒坂命が、この賊を計略で滅ぼそうとし、茨(うばら、いばらのこと)で城(き、柵で囲った砦のこと)を造った。だから、土地の名を茨城という、というもの。
まず、ここで注目すべきは、土蜘蛛の別称が語られていることである。というよりも、「国巣」の別称として土蜘蛛が挙げられている。国巣は、古事記の「土雲」の項(詳細は
こちら)でも書いた通り、吉野の山岳土着民であり、特に奈良・平安時代には天皇即位の大嘗祭などで食事を献上し、歌や笛を披露した。吉野には今も「国栖(くず)」の地名がある。古事記・日本書紀には、神武東征時、「尾が生えている」国巣の先祖が現れ、天皇を歓迎している。古事記では同じく尾が生えている「土雲」が天皇に討たれており、そのことと常陸国風土記のこの記事を合わせて読めば、土蜘蛛と国巣は、ほとんど同じものを指す言葉と分かる。常陸国風土記には他にも国巣が逆賊として討たれる記事が幾つかあるが、吉野の国巣は逆賊ではない。これらのことから分かるのは、国巣は吉野の山岳民のみを指す固有名詞ではないことと、逆賊として討たれる場合が多いが必ずしもそうではなく、けれども蔑称としての趣が強いということで、土蜘蛛という単語と指す内容がよく似ているということだ。土蜘蛛も固有名詞ではないし、逆賊として討たれる場合が多いが必ずしもそうではなく、それでも蔑称ではある。確かに「国巣」=「土蜘蛛」としてもおかしくないほどよく似ているのである。
またさらに異なる別称として「夜都賀波岐」が挙げられている。これは越後国風土記逸文にある、土蜘蛛の後裔とされる「八掬脛」(詳細は
こちら)と同音で、足が長いという身体的特徴を表わしている。これは日本書紀に現れる葛城の土蜘蛛と共通している。
「佐伯」に関しても別称と見るべきだが、ここでは固有の人名のように書かれている。佐伯とは「朝廷の命令を遮る者」という意味で、まさしく朝廷への反逆者そのものを意味する言葉である。日本書紀には、日本武尊が東国征伐で捕虜にした蝦夷を、西日本の各地に分けて住ませ、彼らが「佐伯部」の先祖となったと書かれている。日本書紀で見れば「佐伯」=「蝦夷」ということになり、この風土記の記事を合わせれば「土蜘蛛」=「蝦夷」となる。だからと言って土蜘蛛の全てが東北の蝦夷と同一とは言えないが、いずれにしても朝廷への反逆者、辺境の野蛮人を意味することに変わりはない。もちろんこれは常陸という東北に隣接する地域であるから、その意味では「土蜘蛛」=「蝦夷」としてもそう間違いでもない。日本武尊は常陸国風土記にもよく登場し、日本武尊が別の「佐伯」と呼ばれる者を討ってもいるので、日本武尊が捕虜にした「佐伯部」の先祖である蝦夷は、常陸国の佐伯を意味しているのかもしれない。
「山の佐伯」「野の佐伯」と分けて書かれていることにはどんな意味があるのか分からないが、佐伯にも生活圏によるタイプがあって、一通りではないことを思わせる。山岳を生活基盤に置く者と、平野に生活基盤を置く者とがあったということだろう。肥前国風土記には海洋民の土蜘蛛も現れることも考えれば、土蜘蛛、佐伯といっても生活様式が一通りでないことは確かである。
このように常陸国風土記茨城郡の土蜘蛛の記述は、「土蜘蛛」という言葉がどのような意味を含んでいるのか考察する上で非常に重要である。ツル状の植物を用いて土蜘蛛を討つこと、地名が「ツル状の植物の名称+城」であることで、日本書紀の「葛城」の地名由来(詳細は
こちら)と非常によく似ている点も注目される。ツル状の植物かそれと形状の似る綱・網などを用いた戦術が実際に古代に存在したのかもしれないが、それよりは土蜘蛛、あるいはそれを討つ者の、何かしらの象徴と考えるべきのような気がする。植物というのは古今東西、紋章など氏族を象徴するものとして用いられるものであるから。なお、この「茨城郡」が現在の「茨城県」の名称の元になっているが、「茨城」という県名は以上のように土蜘蛛討伐に由来するものなのである。
ここで土蜘蛛を討つ「黒坂命」は、常陸国風土記と常陸国風土記逸文のみに登場する人物で、氏族については書かれているものの、いつの時代の人物かは明らかではない。常陸国風土記では陸奥へ蝦夷征伐を行っており、朝廷に逆らうものと最前線で戦った武将であることは確かである。
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●土雲(ツチクモ)
○掲載箇所:久慈(くじ)郡
○登場地:薩都(さつ)の里
○比定地:茨城県常陸太田市里野宮町(さとのみやちょう)
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昔、国栖(クズ)がいて、名を土雲と言った。兎上命(ウナカミノミコト)が軍を出動させ滅ぼした。その時、殺させるのに成功して、「福なるかも(幸福だ)」と言った事により佐都(薩都)と名付けた、という地名由来。
まず、注目されるのは、ここでも国巣(国栖)=土蜘蛛となっていることである。ここでは個人名のように書かれているが、茨城郡の「山の佐伯」「野の佐伯」と同様、そうではないことは明らかだ。やはり土蜘蛛と国巣というのは非常に近い概念であることが分かる。
またここでは古事記と同じく「土雲」という漢字表記(詳細は
こちら)が用いられており、「土雲」という表記も通用していたことを示している。越後国風土記逸文にもある(詳細は
こちら)。
討伐した兎上命に関しては他の書物にはなく、時代も出自も不詳であるが、隣接した千葉県北部には古代、海上国(うなかみのくに、菟上とも書く)と呼ばれた地域があり、それと関連があるのではないかとも言われる。
なお薩都の里の話しとして、こんな記事が後に続いている。
北の山にある白土は、絵に色を塗るのに良い。東の大きな山を賀び礼(かびれ、びは田へんに比)の高峰(たかみね)といって、天津神が鎮座している。名を立速男命(タチハヤヲノミコト)といい、またの名を速経和気命(ハヤフワケノミコト)という。元々は天から降ってすぐに松沢(場所の詳細不明)の松の木の沢山に分かれた枝の上に鎮座していた。この神の祟りは非常に厳しい。人があって、向かって大小便した場合は災いを下し、病気にさせる。近所の住人は常にひどく苦しみ、その状態を述べて朝廷に願い出た。片岡の大連を派遣し敬い祭らせ、祈って言うには「今、ここに鎮座されているのは、民がお近くに住んでおりますので、常に不浄です。当然ここに鎮座されているべきではありません。ここを避け移って、高い山の清浄な場所に鎮座下さい」と。そこで神は祈りを聞き、ついに賀び礼の峰に登られた。その社は石で垣根を作り、その中に神の一族が非常に大勢いる。また、様々な宝、弓、矛、釜、器の類が、皆石になって残っている。いろんな鳥で通り過ぎるものは、全て急いで避けて飛んで行き、峰の上に行くことがない。これは昔からそうであり、今も同様だ。その山麓に小川があり、薩都河と名付けている。水源は北の山にあり、南へ流れて久慈川に合流する、というもの。
薩都の里の松の木に天津神が降ったが、人家に近く不浄であり、常に祟りを成したので、朝廷の祭祀者が派遣され、神に山の上に移ってもらったという話だが、この神、皇室に縁のあるとされる「天津神」とは言え、その祟り振りはかつてこの地にいた土蜘蛛と関係あるのではないかと思わせる。かつての土着民である土蜘蛛の怨霊に、後から入植した朝廷側の住民が悩まされているかのようにも取れるのだ。この神は、学説では記述から蛇神とされているが、それも各地の土着民側である「国津神」の趣がある。この「立速男命」「速経和気命」という神名も他では見えず、天津神とされる根拠も、単純に天降ったということ意外に不明だ。もちろん、真相ははっきりしないが、ここから山を越えた海沿いの日立市の大甕(おおみか)に封印されているという伝承のある、天津神にして恐るべき邪神とされる謎の神「天津甕星(アマツミカボシ)」との関係も感じさせる(もっとも常陸国風土記には天津甕星の記述はなく、記述のある日本書紀も常陸国には触れていない)。ただ、風土記でも神に対して敬語を使う場合と使わない場合があり、ここでは敬語が使われているので、この神は朝廷に関係した神であり、土蜘蛛とは無関係かもしれない(風土記で敬語が使われるのは、一部の神と天皇、皇族に対してがほとんどで、神に使われる場合は天皇に関係のあるような位の高い神に対してである。ただし著者がその祖神に敬意を払う出雲国風土記は別)。なお、賀び礼の峰は、現在の常陸太田市北部の御岩山とする説が有力。薩都河は、現在の里川である。
その他、同じ久慈郡の別の里の記事には、昔、魑魅(オニ)がいて、寄り集まって石の鏡を弄んでいたが、鏡の面を見て、すぐに自分から去っていった、土地の言い習わしでは、さとりの早い鬼は鏡に向かうと自ら消え去るという、という話がある。この「魑魅」は、学説上では土蜘蛛などを指すのではないかと言われている。
常陸国風土記ではっきり土蜘蛛と書かれている箇所は、以上である。
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●その他の国巣・佐伯
○掲載箇所:行方(なめかた)郡
○登場地:行方郡
○比定地:茨城県行方(なめがた)市・潮来(いたこ)市・鉾田(ほこた)市
常陸国風土記にはっきり土蜘蛛と書かれているのは上の茨城郡と久慈郡のみだが、これらの中で土蜘蛛の別称として扱われる国巣、佐伯と呼ばれる者達が、同じ常陸国風土記に数多く登場する。これらは厳密には土蜘蛛とは言えないが、同じ書籍内で別称として書かれている以上、相当に近い存在である。そのため、一括してここに挙げておく。これらは、全て行方郡の記事に登場する。行方郡は、霞ヶ浦と北浦に挟まれた地域である。
◆手鹿(テガ):昔、手鹿という名の佐伯がいた。だから提賀(てが)の里という、という伝承。比定地は行方市北西部の手賀。
◆疏弥ビ古(ソネビコ、ビは田へんに比):昔、疏弥ビ古という佐伯がいた。だから曽尼(そね)の里という、という伝承。比定地の詳細は不明だが、行方市北部玉造地区周辺。
◆小高(ヲタカ):昔、佐伯の小高という者がいたので、男高(をたか)の里という、という伝承。比定地は行方市南部の小高(おだか)。
◆夜尺斯(ヤサカシ)・夜筑斯(ヤツクシ):崇神天皇の時代、東国の賊を平定するため建借間命(タケカシマノミコト)を派遣した。建借間命は軍を率いて征伐を行い、一旦宿営したとき、霞ヶ浦の向こうに煙が見えた。海を渡った先には、国栖の夜尺斯・夜筑斯が首長となって、穴を掘り砦を造って住み、朝廷軍に抵抗した。彼らの防御は堅かったが、建借間命は策略を練り、浜辺で七日七夜歌舞音曲を続けると、国栖達は建借間命の葬儀と思い、浜辺に出てきて喜び笑った。そこを急襲し、国栖達を全て捕らえ、瞬く間に焼き滅ぼした。このとき建借間命側が「いたく殺す(大勢殺すぞ)」と言った所を伊多久(いたく)の郷(比定地は潮来市)といい、「ふつに斬る(ばっさりと斬るぞ)」と言った所を布都奈(ふつな)の村(比定地は潮来市中部の古高(ふつたか))といい、「安く殺(き)る(たやすく殺すぞ)」と言った所を安伐(やすきり)の里(比定地不明)といい、「吉(え)く殺(さ)く(上手く殺すぞ)」と言った所を吉前(えさき)の邑(比定地は潮来市中南部の小泉南の領域内にあった小字、江崎(えさき)、小泉交差点近辺)という、という伝承。
◆鳥日子(トリヒコ):倭武天皇(ヤマトタケルノスメラミコト、常陸国風土記では日本武尊をこう記す)が巡幸して当麻(たぎま)の郷を通り過ぎたとき、鳥日子という佐伯がいた。命令に逆らったのですぐに殺した、という伝承。珍しく地名説話ではない。当麻郷の比定地は鉾田市当間(とうま)。
◆寸津ヒ古(キツヒコ、ヒは田へんに比)・寸津ヒ売(キツヒメ、ヒは田へんに比):昔、藝都(きつ)の里(比定地は行方市北東部の内宿字化蘇沼(けぞぬま))に、寸津ヒ古・寸津ヒ売という二人の国栖がいた。倭武天皇行幸時、寸津ヒ古は天皇の従わず非常に無礼だったので、斬り殺された。寸津ヒ売は恐れ憂い、白旗を掲げて道に出迎え拝んだ。天皇は哀れんで家へ帰らせ罪を許した。また、天皇が乗り物を回して小抜野(をぬきの、比定地は行方市北中部の小貫(おぬき))の仮宮に行った際、寸津ヒ売は姉妹を引き連れ、心を尽くし、風雨をいとわず、朝に夕に仕えた。天皇はそれを喜びうるわしんだ(いつくしんだ)。だからこの野を宇流波斯(うるはし)の小野(おの)(これは小抜野の異称であり比定地は同じく小貫)という、という伝承。
以上が行方郡の佐伯・国栖にまつわる伝承である。特に討伐されたとは書かれていなかったり、頑強な抵抗に遭い策を尽くして討伐したり、降伏して許されたりと、多様ではあるが、古事記・日本書紀・風土記に書かれる土蜘蛛とよく似ている。固有の名前を持っていたり、それが地名由来となっていたり、女性が出てくるのも土蜘蛛と同様である。
しかし、これらが行方郡に集中しているのも異様である。しかも、討伐する人物も異なっており、それはつまり時代も異なっているということである。この地域は大和王権の勢力が及んだとき、抵抗が激しかったのであろう。行方郡は東西を霞ヶ浦と北浦に挟まれいるが、古代にはこの二つの湖が潮来市のあたりでおおきくつながっていて、北側以外を全て湖に囲まれた半島のようになっていて、しかも北浦のすぐ西側には太平洋がある。防衛には都合の良い場所であり、また周囲とはある程度文化的にも隔たっていたのかもしれない。大和王権の勢力は西、南から伸びてきた訳だが、その方向とは湖を隔ており、ある時期ここが境界線ともなったであろう。
行方郡と湖を隔てた東南の海に近い場所には、現在でも非常に有力な神社である鹿島神宮がある。夜尺斯・夜筑斯を征伐した建借間命の名は、この鹿島の神を信奉する、という意味があるのだが、鹿島の神とは、天孫降臨に先立ち、国譲りに決着を着け、あらぶる神々を平定した天津神随一の武神・建御雷之男神(タケミカヅチノヲノカミ)である。まさに朝廷に逆らう者を討伐する神なのだが、その神を祭る鹿島神宮がここに鎮座するのは、朝廷の北方に対する前線基地としての意味合いがあったといわれる。日本中の神社のほとんどが南向きの中、北向きの社殿であったり、地震を起す鯰、あるいは龍、一説によれば邪神を封ずるともいう「要石(かなめいし)」が境内に祭られていたりするのは、その表れだという。まさに古代、鹿島は大和王権勢力圏の端であり、最前線、国境だったのだ。その国境の向こう側の、まず打倒すべき敵、それが行方郡の佐伯・国栖だったと思われる。また彼らの抵抗が激しかったために、まずは鹿島を最前線と定めたのかもしれない。いずれにせよ、この場所に鹿島神宮が鎮座する意味は、それなりの長い間、ここが国境であったことを示していると思われる。その最前線である国境地帯に集中して現れるこれらの佐伯・国栖は、非常によく土蜘蛛的な性格を持っていると言えるだろう。
ちなみに、行方郡には、二度に渡って朝廷側に退けられた角のある蛇の群「夜刀神(ヤトノカミ)」の記事もある。夜刀神も朝廷に従わなかった民のことではないかとする説があるが、先に述べた行方郡の事情を思えば頷ける話である。いずれにしろ朝廷側が勢力下に置くのに非常に苦労した地域であるのは間違いないだろう。
以上、常陸国風土記では明確に土蜘蛛が現れるのは二箇所しかなく、固有の人名も見えないが、同書で土蜘蛛と同じと書かれる佐伯・国巣を合わせると、数も多く、多種多様で、固有の人名も見える。土蜘蛛が「王権」時代の朝廷勢力圏の境界地帯の存在であるなら、当然のことである。ただ、常陸国では、土蜘蛛という名称よりも、佐伯や国巣という名称のほうが一般的だったのかもしれない。特に、役人や軍人などの朝廷側の人々にとっては(茨城郡では「土地の言葉」で土蜘蛛という、と書かれている)。もしかすると、土蜘蛛というのは口語的で、佐伯・国巣というのは文章語的だったのかもしれない。
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