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古代土蜘蛛一覧(風土記逸文)

■日向国風土記逸文
●大鉗(オオハシ)・小鉗(ヲハシ)
○掲載箇所:臼杵(うすき)郡
○登場地:知鋪(ちほ)の郷
○比定地:宮崎県西臼杵郡高千穂町

 天照大神の孫、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が高天原より高千穂の二上(ふたがみ)の峰に降ったとき、空は暗くて昼夜の区別がなく、人であろうが何であろうが、道を失って物の区別がつかなかった。その時、大鉗・小鉗という二人の土蜘蛛がいた。彼が言うには「瓊々杵尊が、その尊い御手で稲の千穂(ちほ、数多くの穂)を抜いて籾(もみ)とし、四方に投げ散らせば、きっと明るくなります」と。そこでその通りに多くの稲の穂を揉んで籾とし、投げ散らした。すると、空が晴れ、日も月も照り輝いた。だから高千穂の二上の峰という。後世の人が改めて智鋪(ちほ、「知鋪」と字は異なるが指すものは同じ)と言うようになった、という地名由来。
 天孫降臨は神話でも有名な場面だが、ここでは古事記・日本書紀で語られることのない、降臨直後の話が語られている。降臨直後の地上は真っ暗だったというのが、特徴的である。それを解決するための方法を進言したのが、そこにいた二人の土蜘蛛だった。この二人の土蜘蛛は、他書で語られる土蜘蛛と、大きく性質が異なる。一つには、他の土蜘蛛は、神話的要素も含みつつ、もっと後世の、歴史時代のこととして書かれているが、ここでは遥かな神代のこととして書かれている。書かれている時代を時系列でとらえれば、この土蜘蛛は最古の土蜘蛛である。初めて登場する土蜘蛛が、大鉗・小鉗なのである。
 もう一つ異なる点は、朝廷側に多大な貢献をしていることである。これは肥前国風土記の大山田女・狭山田女(詳細はこちら)と並ぶ、珍しい例である。「賢し女」と呼ばれる彼女らのように賛辞は贈られていないが、直接天津神または天皇に、反逆的姿勢も見せずに貢献したという例は他にない。
 この二点が他の土蜘蛛と大きく異なる点である。時系列的古さという点では、これが土蜘蛛の初見である意味を考えてみると、土蜘蛛とは天孫降臨後に初めて成りなった概念と言えるかもしれない。天津神が地上に降り、認識したことによって、「土蜘蛛」という概念が生じた、ということを物語っている。これより先に天孫ではない天津神なら出雲に降っているが、同じ地上の存在でも土蜘蛛は出雲の国津神とは異なる、ということを示している。天津神・天皇に対する概念的な意味で、国津神の後裔であり、蝦夷・熊襲・隼人の先祖、ということの証左とも言えそうだ。国津神も、蝦夷・熊襲・隼人も、常に敵対する存在とも限らないのも、土蜘蛛と同じである。また場所を考えると、概念的な意味だけでなく、より直接的に熊襲や隼人の先祖とも言えるだろう。
 朝廷側への貢献度では、大鉗・小鉗がいなければ地上が明るくなることもなかったという解釈も可能なだけに、これ以上はないというくらいの貢献度である。にも関わらず二人が土蜘蛛と呼ばれることには、大きな意味があるだろう。まず土蜘蛛が必ずしも朝廷への敵対者ではないと言えるし、それでも蔑称を付与する理由が何かあるということだ。朝廷側とは血統的・文化的差異があったという可能性は第一に浮かぶ。あらゆる土蜘蛛がそうとは言えないが、確かに山岳や海洋に生活基盤を置く者が多く、文化的に異なった可能性はある。大鉗・小鉗についても、高千穂に住んでいたならば確かに山岳地域である。しかし、稲に対する示唆、知恵を持っているように書かれており、少なくともこの二人に関しては稲作農耕民であることも示している。瓊々杵尊に稲に対する知恵を授けているようにも見られ、それであればより進んだ稲作農耕民とも考えられるのである。これも埴輪のようなものの示唆を与える大山田女・狭山田女と共通する(ただし大山田女・狭山田女のような緊張関係は希薄のようだ)。またコミュニケーションが成立していることからしても、言語的に大きく異なった訳でもないようにも思える。すると必ずしも朝廷側と血統的・文化的差異があったとも言えない。少なくともこの二人に関してはそうであろう。大山田女・狭山田女のところでも述べたように、大鉗・小鉗も稲作農耕を受け入れた「縄文人」ということを示しているのかもしれない(もっとも、朝廷側とてルーツが必ずしも渡来して来た「弥生人」とは言えないが、それでも土蜘蛛よりは弥生的性質が濃い)。
 次に、個人レベルや小集団では友好的な者もいても、部族レベル、大きな集団としては概ね敵対的だった、という可能性。これは大いにあり得る。蝦夷・熊襲・隼人にも朝廷に友好的だったり貢献した者の記録もある。が、土蜘蛛に関して言えば、土蜘蛛と同族と思われるにも関わらず、先に朝廷側に恭順した近隣の首長は土蜘蛛と呼ばれない例もあり、謎は残る。さらには、土蜘蛛という言葉が侮蔑的な意味を込めずに使われた場合もあった可能性もある。結局、はっきりしたことは言えないのだが、土蜘蛛という概念の内容を考えるとき、日向国風土記逸文が、注目すべき事例だということは間違いない。
 ところで、この大鉗・小鉗に関して、神話上、類似した存在が二つほど思い浮かぶ。一つは猿田彦神(サルタヒコノカミ)である。瓊々杵尊の降臨途中、天と地の狭間のような場所で、光り輝いていて、天孫一行を怯ませた国津神だが、登場する局面も非常に近く、空を照らすことにも関わっている。そしてはじめ天孫一行には敵対的に見えたけれども、天鈿女命(アメノウズメノミコト)によって正体が明かされ、天孫一行を先導した。つまりは一見敵対的だったが、最終的には天孫に貢献している。これも一般的には敵対的と思われる土蜘蛛が、天孫に貢献するという点で同じである。また猿田彦神はその名に「田」を含むことから稲に関する神であることも指摘されるが、これも稲に関わる点で大鉗・小鉗と共通する。国津神と土蜘蛛という属性も近接している。大鉗・小鉗と猿田彦神は関係が深そうである。
 もう一つ思い浮かぶのは、足名椎(アシナヅチ)・手名椎(テナヅチ)である。彼らは出雲の国津神で、娘が次々と八岐大蛇に(ヤマタノヲロチ)食べられてしまい、残りは奇稲田姫(クシイナダヒメ)のみとなったところへ、高天原を追放された須佐之男命(スサノヲノミコト)がやって来て、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫と結婚して、宮を建て、足名椎・手名椎をその首長とし、「稲田宮主神(イナダノミヤヌシノカミ)」いう名を授けた。共通点としては、まず、天から降った神が、地上に降りた直後に二人組(足名椎・手名椎は夫婦、大鉗・小鉗は性別不明)に出会うことである。また助けを受ける立場が逆転はしているが、ともに問題解決を図ったという状況は似ている。そして両者の娘はその名の通り稲に関わっており、授けられた名も同様で、稲に関わっているのも共通している。やはり国津神と土蜘蛛という属性が近接していることも挙げられる。さらに言うと、足名椎・手名椎は手長・足長という名で神社に祭られていることもあり、手長・足長という、その名の通り手・足が長い妖怪の伝承も各地に残る(九州はその有名な場所の一つ)。妖怪としての手長・足長は、神であった足名椎・手名椎の零落した姿とされているが、手足が長いということは、日本書紀や風土記でしばしば見られる土蜘蛛の特徴である。零落して妖怪化したことも土蜘蛛と共通している。土蜘蛛と足名椎・手名椎にはやはり深い関連性がありそうだ。
 以上のように、繰り返しになるが、日向国風土記逸文の土蜘蛛の記事は、土蜘蛛という存在を考える上で非常に重要である。なお宮崎県の高千穂町は今も「神話の里」として有名であり、神話にまつわる伝承地が数多く存在する。神話を再現した夜神楽も有名。だが、土蜘蛛にまつわる伝承地であることは、あまり知られていない。
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■肥後国風土記逸文
●打猴(ウチサル)・頸猴(クビサル)
○掲載箇所:総記(と明らかに思われる箇所)
○登場地:益城(ましき)郡朝来名(あさくな)の峰
○比定地:熊本県上益城郡益城町と御船町の境にある朝来山(あさこやま)

土蜘蛛紀行該当箇所へ
 肥後国風土記の総記と思われる箇所だが、元々同じく「肥」の国として一つだった肥前国風土記の総記に書かれているもの(詳細はこちら)と、内容はほとんど変わらない。細部に至る表現まで酷似している。強いて言えば、肥君(ひのきみ)の祖であり、土蜘蛛を討った功によって肥の国を治めることになった健緒組(タケヲクミ)が、「海の民」と天皇から呼ばれていることである。海の民なのに山の土蜘蛛を討った功績を誉めているのだが、ここでは海洋民が朝廷から派遣され、反逆的な山岳民の土蜘蛛を討ったということで、興味深い。
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■摂津国風土記逸文
●土蛛(ツチグモ)
○掲載箇所:-
○登場地:摂津国
○比定地:大阪府北西部と兵庫県の南東部

 摂津の国のどこの場所についての記事かは、前後が失われている為、全く不明だが、摂津国風土記から、次のように引用されている。
 神武天皇の治世、賊である土蛛(ここではこのように二文字で表記されている)がいた。彼らは常に穴の中で居住している。だから、(神武天皇が)土蛛という蔑称を与えた、と。
 実はこの文では蔑称を与えた主語は不明瞭なのだが、「賜う」と尊敬語で書かれており、他の風土記では神や天皇、皇族以外に敬語の対象がほとんど見られないため、文の冒頭にある神武天皇としておいた。また「土蜘蛛」という表記だが、「蛛」一字でも「くも」と読むこともあり、これは大した問題ではない。
 さて、この短い文で語られているのは、土蜘蛛という名称の由来である。ここでは端的に「穴に住んでいるから蔑称を与えた」と語っている。地グモのような、穴を地面に穴を掘って住む蜘蛛のようだから、ということだ。土蜘蛛=穴居生活者という図式は、言葉からの連想と、未開人、という先入観によって後世(少なくとも古事記・日本書紀・風土記が書かれた時代まで)に作られたというのが定説だ。実際、稲に関わる土蜘蛛や、埴輪らしきものに関係した土蜘蛛もいる。稲や埴輪に関する知識を持った者が穴居生活などとは到底考えられないし、縄文時代であっても大規模住居が発見されており穴居は一般的ではない。ただ、弥生時代の穴居住居遺跡もあって、穴居も完全に否定できる訳ではない。それが大和や摂津なのかどうかは分からないが、もしかすると、「土蜘蛛」という言葉が生まれた背景には、穴居生活民が念頭にあった可能性がないとは言えない。それが蔑称として本来の意味から独立し、穴居生活をしてない人々にも用いられるようになった可能性はゼロではないのである。それは「手足が長い」という表現も同様で、縄文系と弥生系とで相対的に手足の長さが異なる人間が混在した時代も確かにあるのだから、それが独立して侮蔑的表現になった可能性はある。もちろん、全ての土蜘蛛にその表現がそのまま当てはまる訳ではないとは思われるが、それが侮蔑的表現になったルーツには実際の穴居生活や、手足の長さがなかったとも言い切れないのである。
 ところで、この文は前後の関係が全く不明で、摂津のどの場所の話か分からないのは前述の通りだ。そもそも摂津国の話ではない可能性もある。摂津国風土記である以上は摂津国のことである可能性が非常に高くはあるが、風土記では部分的に他国のことが語られていることもある。境界の変動や国の分割などがあって、隣国の内容を記述する場合などだ。ここで隣国ではないが、近くにあった国として大和国が思い浮かぶ。そこは他ならぬ神武天皇が、土蜘蛛を討った国である。その中には、穴に住む土蜘蛛もいた。ひょっとすると、摂津国風土記のこの記述は、大和国の土蜘蛛の事を記した可能性もないとは言えない。そうでなくとも、摂津国の土蜘蛛を記す上で、名称の由来として大和国の出来事を記したという可能性もある。が、風土記である以上は、結局本国のことを記した可能性が高いのは当然だ。神武天皇の治世ということなら、東征時、難波を経由しているので、そこで土蜘蛛との出会いがあったかもしれない。もっともそれだと神武即位前のことで「治世」とは言えなくはなる。しかも、神武天皇の治世に土蜘蛛がいたというだけで、名前を与えたのが誰かは不明なのだから、名を与えたのは後世(例えば崇神天皇や景行天皇)のことという文意だった可能性もある。このように不明瞭な点が多くどういう文意だったのか測りかねるが、ごく常識的に捉えてみると、神武天皇の治世に摂津の国に穴に住む賊がいて、神武天皇が土蜘蛛の蔑称を与えたというところである。
 特徴的なところとしては、明確に「蔑称」と書かれていること、風土記にも神武天皇時代の土蜘蛛の記事があること(ここ以外では古事記と日本書紀のみ)、穴居生活者と書かれているパターンがここにも一つあること、というところだ。
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■越後国風土記逸文
●八掬脛(ヤツカハギ)
○掲載箇所:-
○登場地:越(こし)の国
○比定地:北陸地方(新潟県?)

 越後国風土記からの引用として次のように語られている。
 崇神天皇の治世、越の国にある人がいた。名を八掬脛という。その脛の長さは八束であった。力があり強かった。彼らは土雲の後裔である。その一族は大勢いる、と。
 常陸国風土記には、土蜘蛛の別称として「夜都賀波岐」(詳細はこちら)と書かれているが、読みは皆「ヤツカハギ」で、握り拳八つ分の長さの脛を意味する。つまりは、脛、足が長いということで、他で書かれる「足が長い」という土蜘蛛の特徴と一致している。それは蔑視による偏見というのが通説だが、実際のところ、本当に足の長い土蜘蛛がいた可能性もある。古代の一時期、縄文人と弥生人という手足の長さが異なる人々が混在していた時期もあったからだ。
 ともあれ、ここで特徴的なのは、「八掬脛」が固有の人名として使われていることである。また土蜘蛛の別称ではなく、末裔だと書いている。末裔である事と、土蜘蛛そのものであることは、同じようだが異なる、という意識が、この文の著者にあったように思われる。
 崇神天皇の時代といえば、九州で盛んに土蜘蛛の記録がある景行天皇よりも前であり、土蜘蛛は健在な時代だ。つまり、土蜘蛛自体が健在でありつつも、既に末裔と言われる存在が並行して同時代に存在する事になる。すると土蜘蛛とは、部族名を指すようなものでなく、ある状態を示していて、その状態でなくなれば、そうは呼ばれなかった、という可能性が出てくる。少なくともこの文からはそう受け取る事が可能である。
 そこで思い当たるのは、大和王権への従属を受け入れるか否か、である。それは、穴居生活を続けるかどうか等、王権側の文化そのものを受け入れるかどうか、ということも意味している。実際に土蜘蛛と呼ばれた人々が穴居生活をしていたかどうかはともかく、文の著者はそれをそうしたことを想定していると思われる。そして、王権に従属し、生活様式も変えた者達は、もはや土蜘蛛とは呼ばれない。しかしながら遺伝的特徴は子孫に見られる、そういう意識があった可能性がある。
 だが、これは風土記執筆の時代から見ても、崇神天皇というはるか昔のことを書いており、前後の文章がないので分からないが、風土記の時代にその末裔がどうなっていたかまでは不明である。先祖である土蜘蛛が王権とどういう関係にあり、末裔の八掬脛がどういう関係だったのかもよく分からない。ただ「力が強い」「一族が多い」という描写からは、一定の勢力があったことをうかがわせる。なお、土蜘蛛の子孫についての記述は、陸奥国風土記にもある(詳細はこちら)。
 ここでこの話の舞台となった場所を考えてみたいが、これは越後国風土記であり、現在の新潟県に関しての書物なので、素直に考えれば現在の新潟県ということになる。が、越後という国はもともと「越」という国の一部だった。これが越前・越中・越後に分割されたのは七世紀末、つまり古事記・日本書紀・風土記が書かれる数十年前のことである。越の国は北陸地方全域という広さだが、これらの総称として分割後も使われており、単に「越の国」と言った場合、そのどのあたりなのかは全く不明である。
 しかしながら、いかに崇神天皇という大和王権成立期のこととは言え、土蜘蛛という王権に反逆的な辺境民のことであるから、あまり畿内に近い場所の事とは思われない。例えば、越前などは、二十六代継体天皇の出身地であることなどからして、王権との結びつきが非常に強い場所であり、さすがに土蜘蛛がいたとされる場所としては考えにくい。
 その他、古事記や日本書紀で越の国に関して目立った記述を考えると、まず八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がある。八岐大蛇は「古志(こし)」より来るとされていて、これは「越」のこととも、出雲国古志郷のことともされる。仮に「古志」を「越」とすれば、出雲の勢力と北陸の勢力に争いがあったと見れるが、いずれにしても「越」のどこなのかは不明だ。
 次に、大国主神が、「高志国(こしのくに)」の沼河比売(ヌナカハヒメ)を訪ね、求婚する話がある。この「古志国」はまさしく「越の国」のこととされており、比定地も、現在の新潟県糸魚川市の奴奈川(ぬなかわ)神社周辺とはっきりしている。このあたりは日本で唯一翡翠を産出する場所であり、古代にはこの地域で造られた翡翠の勾玉などが、日本各地へ運ばれた。その工房跡の遺跡もある。古代、このあたりには翡翠を背景にした勢力があった。沼河比売の「ヌ」は古代の日本語において「玉」を表わし、翡翠のこととされている。大国主神の求婚は、出雲の勢力がその勢力と同盟関係にあったことの反映という。こうしたことから考えて、現在の新潟県糸魚川市には、大和王権成立の前後の時代に、既に高度な文明を持った大きな勢力があったことが分かる。古事記にここまで大きく書かれる勢力が、後に土蜘蛛と呼ばれるとは考えにくい。王権に対して反逆的だったかどうかは不明だが、この勢力が同盟を結んだ巨大でかつ王権に反逆的だった出雲の勢力も土蜘蛛とは呼ばれていない。王権も認めるような大きな勢力は、たとえ反逆的であっても土蜘蛛とは呼ばれていないし、土蜘蛛と呼ばれる勢力はどれも比較的小規模である。おそらく、この地は王権成立期には王権の勢力圏であったと思う。国内唯一の翡翠産地を王権が見逃すはずはないし、在地の勢力もそれを背景に、王権内の一部としてそれなりに優位な立場を得られたであろうから。出雲が王権に服従した時点で、ともに服従したとも考えられる。だから王権成立期には、既に糸魚川から西は勢力圏にあり、土蜘蛛が出現するような場所とは考えにくい。
 古事記や日本書紀には他に四道将軍の派遣など、王権による越の国の平定の記述があるが、具体的な記述がなくあまり参考にはならない(特に地理的なものに関しては)。北陸地方の王権勢力圏の境界はどこかという事で言えば、他に見るべきものとして、弥彦神社がある。弥彦神社は越後国一宮であり、新潟県では最も格式の高い神社だ。創建の時期は不明だが、社伝によれば、祭神である天香具山命(アメノカグヤマノミコト)が神武天皇の命を受け、越後開拓を行った事がルーツとされる。弥彦神社は新潟市に隣接する弥彦村に鎮座するが、これが事実であれば、神武天皇の時代には、新潟市の西隣あたりまで王権の勢力圏であったということになる。少なくとも、弥彦周辺まではかなり早い段階で王権の勢力圏となったのは間違いないだろう。
 ちなみにこの弥彦神社の祭神・天香具山命にまつわる話として、安麻背(アマセ)や九鵙(クモズ)という賊の話が地元に伝えられている。安麻背は弥彦の山を挟んだ北、新潟市間瀬(まぜ、この地名は安麻背に由来する)を根拠地とし、九鵙は長岡市東部、刈谷田川(かりやたがわ)流域を根拠地としているが、これらはこの地域で大和王権の勢力拡大にともなう辺境域での紛争があったことを伝えるものだろう。なお、安麻背も九鵙も、天香具山命に敗北はするものの、改心し許されたことになっている。これが神武天皇の時代のことで、風土記逸文には崇神天皇の時代に土蜘蛛の子孫・八掬脛がいたことを記しているが、もしかすると八掬脛の先祖の土蜘蛛というのは、この安麻背や九鵙なのではないだろうか。何分伝承に基づく事で確かな事は言えないのだが、越後国風土記で語られる土蜘蛛の舞台は、弥彦近辺の可能性は高いと思われる。
 越後国を、さらに東、北と大和とは反対の方角に進むと、新潟市があるが、ここには六四七年、渟足柵(ぬたりのき)が置かれたと日本書紀にある。今も沼垂(ぬったり)という地名が残っているが、この渟足柵というのは史上初めて置かれた城柵(じょうさく)である。城柵というのは朝廷の対蝦夷防衛拠点であり役所でもあった。六四七年は大化の改新の二年後だが、その時代にあっても現在の新潟市中央部は蝦夷に対する備えが必要な場所だった。越後国もこのあたりまで来ると、大和王権どころか朝廷の時代となっても勢力圏外ということだが、風土記逸文に書かれた土蜘蛛の舞台は、この渟足柵よりも北東ということは有り得ないだろう。七一二年には、越後国から出羽国が分割され設置されるが、ここからも分かる通り、「越の国」は、陸奥国と同じく、王権側から見ればその果ては不明で、勢力の及ばない蝦夷の地であった。土蜘蛛とは蝦夷よりも古い時代、概ね王権に反抗的だった土着民のことだが、それだけに、地理的にも早くから王権の勢力圏であった地域と、後々まで朝廷に反抗した蝦夷や隼人の勢力圏だった地域の、狭間の地域に現れることが多い。これらを考え合わせても、風土記逸文の土蜘蛛は糸魚川市以東、新潟市以西の地域にいたとするのが妥当だろう。特に弥彦周辺は地元の伝承からもかなり有力な場所である。
 ところで、この「ヤツカハギ」という名の人物が、新潟県の南、群馬県の伝承にも現れる。奈良時代の少し前、群馬県中部に羊太夫(ひつじたゆう)という人物がいた。彼は「八束脛」という足の長い従者を持っていたが、この八束脛は非常に足が速く、おかげで羊太夫は飛ぶような速さで大和へ通う事が出来た。しかし、ある日八束脛が昼寝をしていたとき、羊太夫が八束脛の腋の下に黒い羽のようなものを見つけて抜いてしまった。これで八束脛は足の速さを奪われ、羊太夫も大和へ通う事が出来なくなり、謀反の疑いを掛けられて朝廷により滅ぼされた。だが八束脛は金の蝶となって飛び去り、群馬県北端の洞窟に隠れ住んだという。今もその洞窟には「八束脛神社」があり、彼を祭っている。またその洞窟からは弥生時代の墓が発見されている。羊太夫に関しても、群馬県には彼を祭る神社がいくつかある。また群馬県中部の吉井町には多胡碑(たごひ)という八世紀後半の碑文が現存するが、そこには「羊」という人名と思われる名が刻まれている。多胡碑は羊太夫の墓といわれて敬われて来たが、これらの事柄から羊太夫と八束脛の話は何らかの史実を反映した伝承と見られている。
 この文字通り足の長かった「八束脛」、越後国風土記逸文で土蜘蛛の子孫とされる八掬脛と無関係とは思われない。名称と足が長いという特徴の一致以外にも、主人である羊太夫が朝廷に滅ぼされたという点も、多くの土蜘蛛と共通している。また地理的には、八束脛洞窟は谷川岳を越えればすぐ越後という近さである。ちなみに谷川岳を越えて魚野川を下れば、やがて信濃川と合流し、さらに降れば九鵙が拠点とした刈谷田川とも合流して、弥彦の近くにも至る。これらから思うに、古代、朝廷の勢力圏は概ね日本一の大河・信濃川あたりまでで、その境界上ではしばしば後に「蝦夷」と呼ばれる人々と小競り合いがあったのではないか。そして群馬県北部に「土蜘蛛」と呼ばれた人々の末裔がおり、奈良時代の前頃に、在地の豪族に協力したが、結局は朝廷に滅ぼされるか追われるかしたのではなかろうか。もしかすると、羊太夫自身も土蜘蛛の末裔であり、蝦夷に近いような人であったのかもしれない。群馬県もまた、古代には都から遠く離れた辺境であり、王権・朝廷の勢力が辛うじて及んだ地域である。
 また、八束脛洞窟からは弥生時代の墓と人骨が出てきたのであるが、ここに葬られた人々は、古、「土蜘蛛」と呼ばれた人々と何らかの関係がある可能性がある。だとすると、この「洞窟」と土蜘蛛が「穴居していた」とよく書かれていることに共通性が見られる。土蜘蛛と呼ばれる人々が洞窟などの「穴」を墓としたことが実際にあって、そこから「穴居」という伝承が生まれるに至ったのかもしれない。
 越後国風土記逸文の土蜘蛛の記述は、ほんの短いものであるが、このように王権の東における勢力の波及を考える上で、非常に重要な資料である。
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■陸奥国風土記逸文
●黒鷲(クロワシ)・神衣媛(カムミゾヒメ)・草野灰(クサノハイ)・保保吉灰(ホホキハイ)・
 阿邪尓那媛(アザニナヒメ)・栲猪(タクシシ)・神石萱(カムイシカヤ)・狭磯名(サシナ)

○掲載箇所:-
○登場地:八槻(やつき)の郷
○比定地:福島県東白川郡棚倉町(たなぐらまち)八槻

 陸奥国風土記からの引用として、次のように語られている。
 八槻と名付ける由来は、景行天皇の治世、日本武尊が東国の夷(えみし)を征伐しようとして、この地に来て、八目の鏑矢で賊を射て倒し、その矢が落ちたところを矢着(やつき)というようになったことによる。八槻には役所がある。神亀三(七二六)年、表記を八槻と改めた。
 また、古老は次のように言う。昔、この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、官軍を射た。そのため官軍は進む事ができなかった。日本武尊は通常の弓矢を取って七発、八発と射た。すると七発の矢は雷のように鳴り響いて津軽の蝦夷らを追い散らし、八発の矢は土知朱の八人の首長を射貫いて倒した。その土知朱を射た矢は全て芽が生えて槻の木となった。その地を八槻の郷という。ここに役所がある。神衣媛と神石萱の子孫は許されて、郷に住んでいる。今、綾戸(あやべ)と呼んでいる一族がそうだという、という地名由来である。
 まず、特徴的なのは、八人もの土蜘蛛の首長の名が出てくる事である。一つの記事の中に出てくる数としては、あらゆる土蜘蛛に関する古文書の中で、最も多い。このうち二人は、「媛」の名を持つ女性首長である。土蜘蛛の特徴の一つをよく表わしている。また「神」を冠する名を持つ者が二人いるが、記事の最後を見た通り、この二人の子孫だけが許されて、風土記の時代にも存続していると書かれている。これは、少し形は違うが、先に天皇に服従し、周辺の賊の征伐を勧める、日本書紀の「神夏磯媛」の例にも似ている(詳細はこちら)。その他、二人の名にある「灰」は穴居生活で「這う」ことから来るものではないかとか、「保保吉灰」の「保保吉」は「ほほきどり(ウグイス)」に基づくものではないかとか、「阿邪尓那媛」の「阿邪」は古代に「アザ」を関する人名が見られるのと同系統のものか(例えば奈良時代に朝廷から官位を得た後、反乱を起した蝦夷の「伊治呰麻呂」(コレハリノアザマロ)など)、といった指摘はなされているものの、各人名の詳細な意味は不明である。
 ここでは、単に八人の首長の名を挙げるだけでなく、各首長の下に一族があると明言しており、全て合わせると、かなりの人数である事を想起させる。国造を敗走させたとあるから、実際にかなりの規模であったと思われる。この点もこの逸文の特徴である。古事記・日本書紀・風土記を通して、土蜘蛛に関する記述は多く、そのうちでも討伐譚がかなりの数をしめるが、ほとんどは「ある場所にある土蜘蛛がいたのである人物が討った」と簡潔に書かれていて、具体的な部族の構成や、戦闘の顛末が詳しく書かれていることは稀である。さらに、王権・朝廷側が苦戦した記述となると、陸奥国風土記逸文の他には、日本書紀・豊後国風土記に載る打サル・八田・国摩侶くらいしか見られない(詳細はこちらこちら)。ましてここでは、王権・朝廷から任命された一国の長官の郡を敗走させる程の強さだと書かれている。さらに、その後勅命を受けてやって来た、武名高い日本武尊の軍も進軍を阻まれているし、津軽の蝦夷と共謀したり、強力な兵器を導入するなど、高度な戦略・戦術を用いていたかのように描かれている。
 これは、賊と言えども辺境の弱小勢力と侮られている感のある土蜘蛛としては、非常に特異な描写である。特に、別の勢力と共謀するなどという戦略性は、他の土蜘蛛の記述には全く見る事が出来ない。肥前国風土記の土蜘蛛など、かなり近接した地域に現れて討たれているが、彼らが共謀した様子は全くなく、個別に討たれている。ましてここでは何百キロも離れた津軽の蝦夷と共謀したと書かれているのだ。仮に津軽というのが誇張だとしても、遠方の勢力と手を組んだものと思われ、また双方ともそれが可能な一定の大きさの勢力だったことを思わせる。また内部的にも八の部族に分かれて戦うなど、かなり組織化された様子が窺える。
 これらの描写からは「辺境の野蛮人」という感は伝わって来ず、むしろ地方の小国家による王権・朝廷との戦争という感すらある。これはやはり陸奥という特殊な土地の事情を反映したものであろう。ここで土蜘蛛と蝦夷は別のものとして描かれているが、ここに書かれた土蜘蛛は、蝦夷と全くの同族なのではないのだろうか。舞台となっている八槻は、現在の福島県の南部であり、陸奥、即ち東北地方の最南端でもある。この土蜘蛛の記述は、王権・朝廷と、東北の蝦夷との、最初の戦いの記録なのかもしれない。これは後に続くアテルイ・坂上田村麻呂の戦いや、前九年の役などの、古代陸奥における朝廷対蝦夷の緒戦だったのかもしれないのだ。そして東北の蝦夷に対する戦いは、その他の地域の反逆者に対する戦いとは、初めから様相の異なる、古代国家間戦争に近いものであった可能性がある。なぜなら、もしこの風土記逸文の記述をそのまま信じるならば、南は福島県から北は青森県まで、一種の連合部族であったと受け取れるからだ。でなければ、東北の最南端と最北端の集団が共謀など不可能だからである。だとしたら、東北と蝦夷、いや日本の歴史をも再考させるものとなる。現在のところ、東北全体が一つの連合体となったと見なし得るのは、奥州藤原氏の時代である。が、この風土記逸文の内容が事実だとしたら、はるか日本武尊の時代に、既にある程度の連合体であったと見る事が可能であり、すると大和王権の初期から既に王権とは別の一大連合勢力が東北に存在した事になる。実際、別の観点からそのように解釈する向きもあるのではあるが、事実は分からない。
 実際は、津軽のような遠方ではなく、もう少し近隣の蝦夷と共謀したのかもしれないが、いずれにしてもここに載る土蜘蛛が他の土蜘蛛と異なり、高い組織性と戦略性を持っているように書かれているのは確かである。また誇張だとしても、風土記の書かれた時代に、津軽の蝦夷が朝廷側に有力な集団として映っていた事は確かなようだ。例えば、日本書紀では、蝦夷について、都から近い順に、熟蝦夷(にきえみし)、麁蝦夷(あらえみし)、都加留(つがる)という三種を挙げている。熟蝦夷はおとなしい蝦夷、麁蝦夷は荒々しい蝦夷という意味だが、都加留のみは別に固有の名称を挙げられており、古代の王権・朝廷にとっては蝦夷の中でも別格の存在として意識されていたようだ。その意識が、この逸文にも現れているのは確かだ。古代東北全域を覆う部族連合はなかったにしても、津軽の蝦夷は何百キロも南の集団に手を貸せる程の有力な集団で、東北の蝦夷の中でも突出しており、特別視されていたのかもしれない。特に、狩猟や戦闘には長けていた可能性がある。
 しかし一つ謎となるのは、ここに書かれる土蜘蛛と蝦夷にいかなる違いがあったのかということである。ここに書かれる土蜘蛛は陸奥で王権に反抗した土着民であり、蝦夷と全く同一視できるのだが、不思議な事に蝦夷とは書かれておらず、一方で津軽の蝦夷は蝦夷と明確に書かれていて、確かに書き分けられているのである。この書き分けには風土記作者の意図が介在するはずで、それこそが土蜘蛛と蝦夷それぞれの定義に迫るものなのだが、真相は謎だ。もっとも冒頭で「夷」と一括して書かれている通り、東国の土着民をまとめて蝦夷と呼ぶ事もあり、そもそも定義も曖昧なのかもしれない。他書の土蜘蛛との比較から、どうやら時間的・空間的に、蝦夷・熊襲・隼人との狭間にあった人達、くらいには言えそうではある。この風土記逸文では時間的に土蜘蛛と蝦夷が並存しているが、空間的な差異は明確である。また風土記が書かれた時代に、朝廷の勢力圏になっていたか否かという差が、土蜘蛛と蝦夷という名称の差を生んでいるのかも知れず、ある意味では時間的な差異も認められる。土蜘蛛は過去の存在であり、蝦夷は現在進行形の存在という訳だ。もちろん、時間的・空間的な差があれば、文化的な差もあったろう。共謀が可能であるなら、言語の差異はあったとしても理解可能なレベルだったのだろうが、文化的にはかなり異なったはずだ。現代でも福島県南部と青森県津軽地方とでは文化が異なるのだから、千年以上前には大きな差があったろう。例えば、前方後円墳は青森県以北には存在しないなど、考古学的にも文化の差は明らかである。
 既に述べた事とやや重複するが、純粋に戦術的な描写が細かいこともこの逸文の特徴である。王権側の具体的な武器や戦術についての描写は他書に幾らか見られるが、土蜘蛛側の具体的な武器や戦術が見られるのは、砦を築いたというものは幾つかあるが、武器としては日本書紀において打サル・八田・国摩侶が弓矢を用いていることくらいである。が、この逸文では弓矢の種類まで書かれているし、砦も石で造られたと書かれ、そこに弓矢を連ねたと、相当具体的だ。戦いの決着となる日本武尊の弓矢に関してのみは神話的な描写だが、その他はあまりにもリアルな戦闘の記録である。これは風土記が書かれた当時、現在進行形で蝦夷との戦いが行われていた陸奥という地域の特殊性を色濃く反映したものなのだろうが、実際には日本武尊ほど古い時代の話ではなかったか、あるいは大規模で激しい戦闘だったために、地元の人間の記憶に鮮やかに残ったということかもしれない。ちなみに神話的ということで言えば、やたらと「八」という古代の聖数(例としては「八百万の神」や「大八洲」など)が用いられている点は、神話的な脚色が認められる。だから土蜘蛛がぴったり八首長に率いられた八部族であったかは疑問がある(首長と部族の数が多かったのは確かと思われるが)。また鏑矢は威嚇や戦闘の合図として用いられたもので、殺傷力はないので、冒頭の描写も神話的である。
 その他の特徴としては、土蜘蛛の子孫について記している点も大きい。他の例としては越後国風土記逸文(詳細はこちら)があるが、風土記が書かれた時点にまで言及しているのはここだけである。その子孫は今も八槻の郷におり、綾戸と称す、と。綾戸というのは何者だろうか。同音で表記の異なる語に「綾部」がある。これはいわゆる綾織の技術を持った職掌集団だが、渡来人である。有力な渡来氏族・漢氏(あやし)とも関係が深いとされる。しかし、土蜘蛛と渡来人では全く逆の存在と言ってもよく、その関係は不明である。ただ、渡来人も土蜘蛛も王権の視点から見ればマイノリティーとは言えるので、もしかすると、渡来人のある傍流的な一派が、土着民と合流した可能性もなくはない。実際、東国にも数多くの渡来人集団が移住してきた記録はある。その合流が戦いの前で、ともに王権と戦った可能性もある。他の土蜘蛛とは比較にならない程高度な文化を持っているように書かれているのも、それなら分かる。王権のあずかり知らない、東北沿岸部に漂着した集団の末裔かもしれないし、そもそもこの土蜘蛛が渡来人を中核に形成された部族だったのかもしれない。もちろん、これら全て想像の範疇を出ないものだが、非常に特徴ある記述なのは確かである。
 この陸奥国風土記逸文の土蜘蛛の記事は、都から最も遠い地域の土蜘蛛についてのものであるが、それだけに、数ある土蜘蛛の記事の中でも、特異な点の多い記事である。
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