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土蜘蛛紀行 豊後編
其之五、直入─イ、宮処野神社
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狭山田女:おおっ、雄大な眺めだね。
大山田女:あの山並みは九重連山ですね。ここは竹田市北部の久住町(くじゅうまち)です。目的地はもう少しあの山の麓に近付いたところにあります。

狭山田女:目的地ってのは、この神社かな。
大山田女:阿志野のある朝地町綿田より北西へ山を越えて約九キロ、久住町仏原(ぶつばる)に鎮座する宮処野(みやこの)神社です。日本書紀・風土記において、速津媛から土蜘蛛の話を聞いた景行天皇が、戦に臨んで行宮(かりみや)を建てたといわれる場所です。

大山田女:行宮というのは天皇の行幸時などに設けられる臨時の御所のことですが、この場合は戦に際してのものですから、陣地のようなものでしょうね。
狭山田女:おお~、立派な杉の参道だあ。確かに山の麓の平らな場所だから、陣地にするにはいいかも。けどここって先に見た、青さん白さんが討たれたっていう知田よりも奥だよね?敵の領域を通り抜けてもっと奥に陣地を築くって、おかしい、ってか無理でしょ。それとも青さん白さんを討った後「もう一つのグループ」の土蜘蛛を討つために、ここに陣地を築いたのかな。
大山田女:巡る順番が後にはなりましたが、実は知田よりもこちらの方が奥に当たるとは言えないのです。このあたりは大野川の上流域ではありませんから。

狭山田女:えっ、そうなの。そういや山を越えてきてるもんね。別の川の上流って事か。
大山田女:別府湾に注ぐ大きな川には、大野川の他に、大分川という川があります。こちらも大野川と同程度の、大分県内屈指の大河です。このあたりは、その主要な支流・芹川(せりかわ)の上流域になります。
狭山田女:別府湾に流れて行くの。じゃあ、速津媛のところから、大野川を遡ったんじゃなく、大分川を遡って来たって事か。
大山田女:日本書紀によると、速津媛から天皇に従わない土蜘蛛の話を聞いた景行天皇は、これを憎みましたが、進む事が出来なかった、と書いてあります。そして、まず来田見邑(くたみのむら)に行き、行宮を建てたと。そして、その後の青さん白さんを討つ場面では、既に見たように、敵の交通の要衝を押さえ、また道を切り開くような描写があります。さらに、これも既に見ましたが、大野川流域は盆地状の平地が多くとも、その入口となる場所には絶壁を流れ落ちるような滝があるなど、侵入しにくい土地です。
狭山田女:そういうのを全部合わせて考えると、天皇軍はいきなり大野川を遡って青さん白さんの本拠地に入る事が出来ずに、まず大分川を遡って、陣地を築いたって事か。
大山田女:そういう事だと思います。大野川と大分川の河口は、七キロ程度の距離しかありませんから、別府湾岸から遡上する選択肢としては、それほど大差はないでしょう。また、大野川流域には二つのグループの土蜘蛛がいるのに対し、大分川流域については風土記でも反抗勢力があったという記述はありません。

狭山田女:それだけ条件が揃ってると、ます大分川を遡ったとしか考えられないね。第一日本書紀の順番にも合ってるんでしょ?まず行宮を建てて、それから青さん白さんを討ったっていう。
大山田女:そうだと思いますけどね。ほら、門が見えて来ましたよ。
狭山田女:脇に案内が書いてあるよ。

大山田女:ここに禰疑野(ねぎの)の土蜘蛛を征伐したときに行宮を建てた跡、と書いてあるでしょう。「宮処野」という地名は、風土記の直入郡、古くは「なおり」、今は「なおいり」と読みますが、その中に朽網(くたみ)の郷に在る野原、と書いてあります。
狭山田女:風土記の「朽網」は日本書紀の「来田見」と同じなんだろうね。

大山田女:はい。行宮、即ち「仮の都があった野」だから「宮処野」という訳ですね。ちなみに、「禰疑野の土蜘蛛」というのが、速津媛が語った「もう一つのグループ」、打サル(ウチサル、「サル」は「けものへん」に「爰」)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)の三人です。詳しくはこちらこちらに書いてあります。
狭山田女:あれ?でもここから青さん白さんを討ちに行ったんじゃないの?
大山田女:そのあたりがよく分からないところなのですけどね。おそらく、別府湾から大分川・芹川を遡って、まずここに陣地を築き、次に、南東に山を越えて、大野郡の青さん白さんを討ったのでしょう。そのルート上には、丁度先程見て来た、「天皇に食事を出してもてなすために狩をした」土蜘蛛の小竹鹿奥さん・小竹鹿臣さんがいたという、阿志野があります。そして、青さん白さんを討った後、また一度ここに戻って来たのではないでしょうか。禰疑野というところも大野川の上流ですから、効率的に攻めるなら、そのまま大野郡から西進した方が良いのですが、禰疑野の戦いは、一度天皇軍が撤退する程の激しいものだと書かれていますからね。打サルさんのグループは青さん白さんよりもさらに手強くて、大野郡から直接西進できなかったのかもしれません。それに、わざわざ行宮を建てたぐらいですから、一度ここまで戻って来ても不思議ではないでしょう。

狭山田女:青さん白さんとの戦いでも、相当苦戦したっぽい事が書いてあったしね。体勢を立て直すために、一旦陣地に戻ったって事は十分有り得るね。何にしても、ルートが複雑になるくらい、このへんの土蜘蛛との戦は激しかったって事だね。
大山田女:そうですね。では、門をくぐってお参りしましょう。

狭山田女:これが拝殿だね。お正月前だから、門松が飾ってあるよ。
大山田女:正面の扁額もなかなか立派ですね。

狭山田女:こっちが本殿。神社の後ろはかなりの急斜面だねえ。
大山田女:そうですね。後ろに山で前が平地、陣地を築くには良い場所でしょう。

大山田女:ところで、ここが行宮を建てるのに良かったのは、水が入手しやすかったという事もあるのかもしれません。風土記には、このあたりで天皇の料理人が泉の水を汲んで来た、という話があります。
狭山田女:そんな事まで書いてあるんだ。水が手に入るなら、陣地にはいい場所だよ。
大山田女:ただ、その水には「オカミ」、つまり水神がいました。これは山椒魚とかイモリとか言う説があります。
狭山田女:あたし達も、水の神様でもあるヨドヒメ様の「お使い」の魚を、食べないようにしてたからね。風土記にもそれが書いてあるし。山田の人達は、今もナマズを食べないようにしてるっていうしね。
大山田女:水に棲む生き物は、昔から水の神様や、そのお使いとされて来ましたからね。佐賀関で見た、早吸日女神社でタコを神聖視しているのも、似たようなものだと思います。それで景行天皇は、その水はきっと臭いから、絶対に汲んで使ってはいけない、と言います。それで臭泉(くさいずみ)という名が付いて、そのまま村の名前になりました。それが訛って球覃(くたみ)という名になったと。「朽網」も「来田見」も皆同じです。
狭山田女:なるほど。水はあったけど、結局使わなかったって事か。
大山田女:ええ、近くには川もいくつか流れていますし、水は別の場所でも調達できたのでしょう。そして、景行天皇は、この豊後の土蜘蛛との戦では特に、「神の意志」を重視しています。他にもそういった記述がいくつかあるのです。
狭山田女:神様の意志か。具体的にどう戦うかって事で重要だったんだろうね。それだけ厳しい戦いだったんだ。
大山田女:そうでしょうね。神意を疎かにしては勝てないような戦だったのでしょう。また一方では、土地の信仰に配慮したとも考えられます。この「オカミ」というのはこの土地の水神です。これから強敵相手に戦を挑むのに、陣地を築いた土地の住民まで敵に回しては大変な事になりますからね。
狭山田女:そうだねえ。こっちの人達は天皇に協力的だったはずだからね。それに、水の神様ってのも気になるね。こっちは大分川の上流なんでしょう?大分川の流域には反抗勢力がなかったって言ってたもんね。
大山田女:ええ、もしかすると大野川流域の勢力と戦うにあたって、大分川流域の住民を尊重したということの象徴なのかもしれませんね、この話は。禰疑野も同じ直入郡とは言え、流域が違えば間に山を隔てている訳で、別の地域と言ってもいいでしょう。あるいは単純に、その泉が飲用には適していなかった、という話かもしれませんが……先程見た九重連山は活火山で、風土記にも噴煙を上げる様子があります。実際、現在も噴気を上げている場所があります。また、それだけに温泉が沢山湧く場所でもあります。これも風土記に書かれています。飲用に適さないような泉があったとしても不思議ではないでしょう。「臭い泉」というのも、大いに関係があるような気がします。

狭山田女:そういう事もあるのか。境内には沢山祠があるね。火山が近くにあるなら、ここは古くからその神様を拝む場所だったのかも。
大山田女:風土記には、九重連山の麓に沢山の川があり、名を「神の河」というとあります。また「湯の河」が二つあって、それが「神の河」に注ぐと書いてあります。

狭山田女:火山の麓に「神の河」と「湯の河」か。温泉の神様かな。
大山田女:このあたりは今でも温泉で有名ですからね。
狭山田女:ん?この記念碑は何だろう。

大山田女:平安時代、この神社の神主でもあった地方領主の娘が、嵯峨天皇に召されて宮中に奉仕し、天皇崩御後は故郷に戻って、天皇からの贈り物を境内に埋納してその冥福を祈ったとあります。ちなみに碑文の「紀元」は西暦ではなく皇紀ですね。
狭山田女:そういえば門のところの案内に嵯峨天皇が祭神って書いてあったね。

狭山田女:あの屋根の下にあるのは何かな。
大山田女:祭に使う山車や屋台ではないですかね。この神社の秋の大祭は神保会(じんぼえ)と呼ばれ、大変賑やかなものだそうです。県の無形民俗文化財にも指定されているとか。これも門のところの案内に書いてありましたね。

狭山田女:とりあえず、久し振りにこんなにしっかりした神社まで建ってるところに来れて良かったよ。最近見たところって、地名くらいしか残ってなくて、それすらも怪しいようなものばっかだったから。
大山田女:そういった意味では、この伝承地は確かなものですね。さて、先程このあたりには温泉が多いと言いましたが、ここから一キロも離れていないところに、素晴らしい温泉がありますので、行ってみましょう。

大山田女:はい、着きました。ここがその七里田(しちりだ)温泉です。
狭山田女:こんな近くに。九重連山も見えてるね。あの建物が温泉か。さあ入ろう入ろう。
大山田女:慌ててはいけません。この中の温泉も素晴らしいのですが、すぐ近くにはさらに驚くような温泉があります。まずはこの建物で受付を済ませましょう。


狭山田女:こっち?何だか川沿いに渋い建物があるよ。あっ、「日本無類の炭酸泉」って書いてある。
大山田女:下ん湯と呼ばれる、昔からの共同浴場です。そして書かれている通り、大変珍しい高濃度の炭酸泉なのです。このあたりには炭酸系の温泉が多いのですよ。もう数キロ下流の長湯温泉などは、全国的に有名な炭酸泉です。


狭山田女:弥生時代から古墳時代には温泉を中心に栄えてたって書いたあるよ。景行天皇がこのあたりに行宮を作ったってのも納得。こりゃ確かに「臭い泉」も温泉かもね。
大山田女:すぐ近くに古墳もあるようですしね。先程言ったように風土記には温泉の記述もありますし。その後の時代もかなり大切にされて来たようです。


狭山田女:おおおっ、外見もだけど中はもっと渋い温泉だなあ。
大山田女:湯船に浸かると、もっと驚く事になりますよ。


狭山田女:うわわわわわ、アワアワだあ。凄いよこれ。こんな温泉が自然にあるんだ。
大山田女:日本ではこのような温泉は滅多にありません。飲めば胃腸にも効くそうです。ただ、二酸化炭素濃度が高過ぎるので、酸欠に注意するようあちこちに書いてありますが……。それだけ恵み豊かな温泉だということですね。


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狭山田女:いや~、いい湯だね。景行天皇もこの湯に浸かったのかもしれないなあ。戦の疲れを癒すには最高だよ。
大山田女:何しろ激しい戦だったようですからね。温泉で疲れを癒したら、私達もその戦の跡をたどりますよ。宮処野神社への行き方は、左の地図を参照して下さい。ちなみに、七里田温泉については、作者の大宮司が運営する、こちらのブログへ……。



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