邪神大神宮 道先案内(ナビゲーション)
鳥居(TOP)斎庭(総合メニュー)万邪神殿土蜘蛛宮土蜘蛛紀行 豊後編 其之五、直入
>ロ、城原八幡社
土蜘蛛紀行一覧 



土蜘蛛紀行 豊後編
其之五、直入─ロ、城原八幡社
 八束脛門へ戻る



狭山田女:割と大きそうな神社だね。
大山田女:宮処野神社から南へ約九キロ、竹田市米納(よない)神原(かんばる)に鎮座する、城原(きばる)八幡社です。城原八幡神社、城原八幡大社などとも呼ばれます。中世には「豊後八幡七社」の一つに数えられ、信仰を集めました。
狭山田女:大社とも呼ばれるくらい大きい訳だね。

大山田女:日本書紀では、禰疑野(ねぎの)の土蜘蛛、打サル(ウチサル、「サル」は「けものへん」に「爰」)さんを討つために山を越えようとしたところ、山から横向きに雨のように矢が降り注いだために、一旦城原(きはら)へ退却した、とあります。それが現在のこの土地という訳です。
狭山田女:打サルさんの猛攻撃に遭ったって事だね。

大山田女:はい。詳しくはこちらこちらに書いてあります。城原退却の話は、風土記にはありませんけどね。日本書紀だけです。
狭山田女:でも、今まで色んな土蜘蛛の話が伝わる場所に行ったけど、天皇が退却したなんて話は初めてだね。打サルさん達はよっぽど強かったのかな。
大山田女:相手が土蜘蛛でなくとも、天皇が退却するなどという話は滅多にありませんからね。半ば神話化されて描かれている時代に関しては、特にそうです。実際に景行天皇が軍を率いたかどうかはともかくとして、古代の奥豊後には大和王権が相当手を焼いた勢力があったことは確かでしょう。
狭山田女:そうだね。ところで案内にはここに行宮を建てた、と書いてあるけど。さっき見た宮処野神社も行宮の跡なんだよね?
大山田女:日本書紀や風土記には、宮処野の行宮についてしか書かれていません。ただ、日本書紀には、ここの川のほとりで占いをし、軍を整えた、とあります。それだけの事をするからには、それなりの期間、この地に留まったことでしょう。そのことをもって「行宮」としているのだと思います。
狭山田女:なるほど。そういや案内には「現在の松原行宮跡に宮を建てて祀ったのがこの神社の起源である」って書いてあるよ。行宮跡ってのは、この神社とは微妙に場所が違うみたい。
大山田女:ええ、この神社の北東百メートルほどのところ、城原小学校の隣にその松原があります。作者の大宮司は取材しそびれてしまったようですが、許してやって下さい。ちなみにそこには万葉歌碑が建っています。神社の北東にそびえる木原(きばる)山を詠んだもので、万葉の時代からこの地が知られていた事が分かります。
狭山田女:古代から栄えていた場所だったんだね。それなら景行天皇がここで軍を整えたって話も分かるなあ。
大山田女:はい。このような由来がありますので、この神社は八幡神社としては大変珍しい事に、主祭神を景行天皇としていますね。八幡神というのは、景行天皇の三代後の、応神天皇とされています。もっとも神社の詳細な由来によると、応神天皇の時代に、行宮跡に祠を建てたとあります。また、平安時代に八幡神降臨の霊示があった、とも。こうした事から八幡神社へと変貌していったのでしょうね。しかしながら、元々は景行天皇を祀ったものであり、その事は忘れらずに現在に至っているという事です。八幡宮、八幡神社というのは全国に約二万五千社もあり、稲荷神社に次いで数の多い神社ですが、その中でも主祭神を応神天皇以外とするものは、滅多にありません。
狭山田女:それだけ独自の土地の伝承が強かったって事だね。
大山田女:ええ、この神社の大祭で奉納される「阿鹿野獅子舞(あじかのししまい)」という郷土芸能があるのですが、これは景行天皇が土蜘蛛征伐に出掛ける際、里人の先導により全滅させることができたのを喜び、天皇への慰問の意味もこめて舞った獅子舞が起源、という言い伝えもあります。
狭山田女:ふ~ん、本当に地元独自の伝承が根強く残ってるところなんだね。ところで、景行天皇が川のほとりで占いをしたって言ってたけど、この近くに川が流れてるの?
大山田女:神社の西ニ、三百メートルのところに、久住川という、大野川の支流が流れていますね。
狭山田女:宮処野は大分川の流域だったけど、こっちはもう大野川の流域なんだね。
大山田女:ちなみにこの久住川は、竹田市内で稲葉川に合流します。その稲葉川が大野川に合流しています。
狭山田女:稲葉川って、青さん白さんが討たれたっていう「知田」で聞いた川か。日本書紀に、「稲葉の川上」で青さん白さんを討った、って書いてあるんだっけ。
大山田女:そうです。そして稲葉川は、この城原と禰疑野の間を流れています。日本書紀の「稲葉の川上」がどこまで正確に今の稲葉川と重なるのかは分かりませんが、城原や禰疑野を「稲葉の川上」とするのは、現代から見てもそう不自然な事ではありません。風土記で青さん白さんが討たれたと書かれる大野郡とするよりは、はるかに整合性がありますね。
狭山田女:それで「稲葉の川上」で討たれたのは「もう一つのグループ」の土蜘蛛、打サルさん達のことなんじゃないか、って言ってたのか。なるほど、よく分かった。それと宮処野で、景行天皇がこのあたりの土蜘蛛討伐にあたって、神様の意志を尊重する話がいくつかあるって言ってたよね。ここの川のほとりでの占いってのも、その一つなんだね。
大山田女:はい。何しろ猛攻に遭って退却してきた後ですからね。神意に沿わなかったところがないか、慎重に見極めたい局面だったでしょう。神武天皇の大和入りなどでも、最初に敗北したのは「太陽に向かって行く」という進軍方向が、神意に沿わなかったためとされています。古代の軍事行動で神意を知る事は、極めて重要だったのです。

狭山田女:そうだね、それは知ってる。あたし達だってヨドヒメ様に仕える巫女だからね。あれ、よく見ると、神社の前にも小川が流れてるね。楼門の前に石橋が架かってる。
大山田女:あの小川も久住川に注いでいるようです。案外、景行天皇が占ったというのは、この小川のほとりかもしれませんね。行宮跡の松原にも近いですし。

狭山田女:じゃ、お参りしようか。門をくぐって……と。これが拝殿だね。
大山田女:朱塗りが映える立派な拝殿ですね。奈良時代の宮廷を思わせるような建物です。

大山田女:横に長い拝殿で楼門との距離も近いため、上の写真では両端が切れてしまったので、斜めからも撮影してみました、と作者の大宮司が申しております。
狭山田女:うん、ちょっとカッコイイ建物だね。

大山田女:拝殿の奥に幣殿が建ち、そのさらに奥に本殿が建っています。
狭山田女:拝殿、幣殿、本殿と順番に床が高くなっていってるね。本殿だけ朱塗りじゃないのも面白いや。
大山田女:八幡神社において一般的な八幡造とはかなり違っていますね。本殿には千木や鰹木もありますし。建築様式の上でも興味深いですね。


大きな地図で見る
狭山田女:それで、景行天皇はここで占いをして、軍を整えて、もう一度禰疑野に向かったんだね。
大山田女:ええ、私達もその決戦の場へと向かいましょう。
狭山田女:城原八幡社への行き方は、左の地図を参照してね。



イ、宮処野神社へ ハ、禰疑野神社へ 道先案内へ戻る