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土蜘蛛紀行 豊後編
其之五、直入─ハ、禰疑野神社
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狭山田女:うううっ、寒~い。雪が降ってるよ。
大山田女:城原から南西に約五キロ半の竹田市今(いま)です。阿蘇外輪山の麓で、標高五百メートルを超える菅生(すごう)台地と呼ばれる高原地帯ですからね。冬にはかなりの雪が降ります。
狭山田女:阿蘇山の麓かあ。どうりで寒い訳だ。

大山田女:そして、この地に鎮座するのが、この禰疑野(ねぎの)神社です。
狭山田女:そうか、ここが打サル(ウチサル、「サル」は「けものへん」に「爰」)さん、八田(ヤタ)さん、国摩侶(クニマロ)さん達がいたっていう、禰疑野かあ。日本書紀にも豊後国風土記にも出てくるんだよね。ここここに詳しく書いてある。改めて見てみよう。

大山田女:豊後の海沿いで景行天皇を迎えた速津媛が語った、三人の土蜘蛛がいるという禰疑野ですね。景行天皇は、直入郡の北の宮処野に行宮を建て、まず大野郡の土蜘蛛、青さん白さんを討ちます。そして禰疑野を攻めようと山を越えますが、打サルさん達の猛攻撃に遭い、城原へ一度退却します。そこで占いによって神意をうかがい、軍を整えて、再度禰疑野を攻略します。
狭山田女:あたし達も、佐賀関からずっとその足跡をたどってきたもんね。色々な場所を見て来たけど、ついに禰疑野にたどり着いたんだ。
大山田女:日本書紀の打サルさん達との戦いの記述は、土蜘蛛に対するものとしては、他に例がないくらいに細かく、その分量も多いのは、これまで見て来た通りです。最後の決戦の場面も例外ではありません。まず、禰疑野で八田さんを撃ち破ります。すると打サルさんは、勝てないだろうと思って、降伏を願い出ます。しかし景行天皇は許しませんでした。一度猛攻に遭って退却している天皇軍です。被害もかなり出ていた事でしょう。そうしてやっと敵の大将の一人を討つところまで追い詰めたところ。ここで許す訳にはいかなかったのでしょうね。そして降伏を許されなかった土蜘蛛達は、全て谷に身を投げて命を絶ちます。もはや勝つ見込みがなく、降伏も許されない以上、むざむざ敵の手にかかって死ぬよりは、自害を選んだという事でしょう。
狭山田女:壮絶で痛ましい話だね。
大山田女:一方、風土記にはこの最終決戦の描写はありません。景行天皇が、自ら彼らを討とうと思ってここに来て、言葉をかけて兵士達をねぎらいました。それで禰疑野という地名になった、とあるだけですね。打サルさん達が討たれた事は、間違いないと思うのですが。
狭山田女:兵士をねぎらかったから禰疑野か。神主の「禰宜(ねぎ)」の事かと思ってたけど。
大山田女:本当の地名の由来はどうだかは分かりませんよ。確かに今でも神社に奉仕する神職の職名に、「禰宜」というのがありますね。その語源も「ねぎらう」と同じ、「和ませる」という意味の「ねぐ」という古語です。神の心を和ませ、その加護を祈るという意味から、古くから神に仕える者が「禰宜」と呼ばれて来ました。私が思うに、この土地の名前もそれと関係しているのではないかと。元々神を祭る聖地、即ち神の心を「ねぐ」野であったか、討たれた土蜘蛛の霊が祟りを成さないよう和ませる、怨霊を鎮めて「ねぐ」野であったか、その両方か、というところではないでしょうか。
狭山田女:リーダーが討たれたり、降伏しても許されずに自害したりしたっていうなら、怨みが残ると思われても不思議じゃないしね。
大山田女:古代の祭祀は荒ぶる神や怨霊を鎮めるためという意義が大きいですからね。そのために建てられた神社は日本中に山ほどあります。
狭山田女:あたし達も「荒ぶる神」のヨドヒメ様を鎮めた、って肥前国風土記に載ってるからね。
大山田女:はい。討たれた者達の崇めた神を祭るという事もよく行われました。これは、戦いの末支配に組み込まれた土地の住民を納得させて従わせる、という一種の治安維持政策でもありますけどね。この禰疑野神社も、元々の聖地であり、討たれた土蜘蛛達と彼らの神を同時に祭る、鎮魂の社のような気がします。もちろん、古代の天皇の「聖跡」を祭るという意味もあるでしょうけどね。宮処野や城原のように。

狭山田女:「鎮魂の野」で禰疑野か。あたしもそう思う。この雪の舞う寒々しい空の下だと、余計にそんな気がするよ。
大山田女:それでは打サルさん達への鎮魂の意味も込めて、お参りするとしましょう。

狭山田女:ここに案内があるよ。ええと祭神は……。
大山田女:大足彦忍別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)、景行天皇の事です。次の建岩立龍命(タケイワタツノミコト)、一般には「健磐龍命」と書きますが、これは阿蘇神社の祭神である、阿蘇山周辺の開拓の祖神です。一帯には、この神に関する神話が数多く残されています。

狭山田女:まあ、阿蘇の麓なら不思議じゃないね。元々この神様を祭った神社なのかも。
大山田女:実は「打サル」という名の土蜘蛛が討たれる話は、阿蘇山を挟んだ反対側の、熊本市周辺にもあるのです。これは偶然ではないように思いますけどね。豊後と肥後の土蜘蛛と阿蘇山の間には、何か関係がある気がします。

狭山田女:どっちの打サルさんも、阿蘇山の神様を崇める、同じ一族だったのかな。
大山田女:どちらも古代には「阿蘇文化圏」だった事は確かでしょう。ここにこうして阿蘇信仰がありますし、熊本市周辺は言うまでもなく阿蘇信仰の土地です。豊後や肥後の土蜘蛛征伐の話は、大和文化圏と阿蘇文化圏の衝突の歴史を表わしているのかもしれませんね。阿蘇に大和王権が攻め込む話はありませんし、健磐龍命は神話での系譜上、神武天皇の孫とされていますが、阿蘇の勢力は大和に従った上で土地の支配を認められたのでしょう。実際、阿蘇の土着の勢力というのは大変な力を持ち続け、健磐龍命の子孫で今も阿蘇神社の大宮司家である阿蘇氏は、戦国時代には大名となった程です。
狭山田女:凄いね。まあ阿蘇のクニはあたし達の時代から有名だったからなあ。詳しい事は知らないけど。
大山田女:なお、日本書紀での景行天皇の九州征伐は、九州を一周するルートを取っていて、往路ではここから阿蘇に入る事はなかったのですが、復路で阿蘇に立ち寄り、阿蘇都彦(アソツヒコ)、阿蘇都媛(アソツヒメ)という神に出会っています。景行天皇が阿蘇のカルデラに来たものの、野に誰の人影もなく、「誰もいないのか」と言ったら二神が人となって現れ、「我々がいる、人がいないなどという事はない」と言ったので、「阿蘇」という国名を付けた、という話です。肥後国風土記逸文では、さらにその後すぐに二神が消えるという、不思議なものになっています。
狭山田女:何だか「キツネに化かされた」みたいな妙な話だけど、とりあえず戦ってはいないんだね。
大山田女:接触したようなしていないような、微妙な話ですね。天皇が翻弄されているような節もあります。私が思うに、はじめ特に大和に従属せず、大和側の要求をのらりくらりとかわしていた阿蘇のクニが、豊後や肥後での戦いの末、最終的に大和に従属する事で決着したのではないかと。豊後や肥後の土蜘蛛達は、「阿蘇の王」に従うクニグニの長達で、大和の勢力が最初に侵入してきたとき、「阿蘇の民」としてこれを迎え撃ったのではないでしょうか。それなら激戦となる理由が分かる気もします。地方の小部族を従わせる戦いではなく、古代国家間戦争の一環だったのかもしれませんね。阿蘇が大和に従う事で、強大な力を持つ「阿蘇の王」は、大和の支配の下での地域の束ねとして改めて認められ、元々の阿蘇の神々や王達は神々として祭られたけれども、緒戦で大和と戦った長達は、歴史に取り残され「土蜘蛛」となってしまったのかも。「土蜘蛛」として討たれた人々は、「阿蘇の王」に従う長達の中でも特に強硬派だったのかもしれませんが。
狭山田女:う~ん、そうかもね。日本書紀で豊後の打サルさん達の討伐が一大ドラマになってるのも、そのへんが理由なのかもね。

大山田女:全て私の憶測に過ぎませんが、阿蘇山を挟んで同じ名前の土蜘蛛が登場する事、どちらも阿蘇信仰の地である事、阿蘇の勢力の大きさなどを考えると、あながち妄想とばかりも言い切れないでしょう。
狭山田女:そうだね。阿蘇山の神様へのお祈りと、古代の戦の犠牲になった人達への鎮魂の意味も込めて、拝殿でお参りしよう。

大山田女:城原八幡社のように、壁のない吹き抜きの拝殿ですね。
狭山田女:おかげで雪が床に舞ってきてるよ。キレイだけど、さ、さぶい~。

大山田女:本殿の上部の壁だけ、彩色が施されていますね。
狭山田女:白地に緑と金色でキレイだね。それはいいんだけど、雪が酷くなってきて寒いよ~。
大山田女:そ、そうですね、本格的に降ってきましたね。も、もう少しですから……。

狭山田女:右は「鞍嶽神社」、左は「乙姫神社」って書いてあるよ。
大山田女:「くらだけ」か「くらがたけ」か。ここから阿蘇を挟んだ反対側、西側の外輪山に鞍岳という山がありますが……。乙姫神社というのは、阿蘇カルデラ内にある乙姫神社の分祠でしょうね。阿蘇氏の祖神の一族です。どちらも阿蘇信仰に関係したものでしょう。


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狭山田女:それにしても寒いよ~。おかげでここが阿蘇の麓の高原だって事はよく分かったけど。
大山田女:ここから西に三、四キロも進めば、もう熊本県ですからね。禰疑野神社への行き方は、左の地図を参照して下さい。



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