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土蜘蛛紀行 豊後編
其之五、直入─ニ、蜘蛛塚
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狭山田女:ところで、禰疑野(ねぎの)神社の案内によると、近くに色々遺跡があるって書いてあるよ。
大山田女:ええ、まず「鬼巌屋」、「おにいわや」か「おにのいわや」と読むのでしょう。これは作者の大宮司もそれなりに調べたのですが、場所は分かりませんでした。

狭山田女:そうかあ。残念だね。でもこれって日本書紀や風土記にある、「鼠石窟(ねずみのいわや)」を思い出すね。青(アオ)さん白(シロ)さんの住んでたっていう。
大山田女:ここに一緒に挙げられている「血田(ちだ)」もそうですね。これも大宮司にはどこにあるかのか分からなかったそうですが、その候補地である豊後大野市緒方町知田は、既に見ましたね。
狭山田女:何でだろう、いくら速津媛(ハヤツヒメ)が一緒に語ったとは言っても、鼠石窟にいたっていう青さん白さんと、禰疑野の打サル(ウチサル、「サル」は「けものへん」に「爰」)さん、八田(ヤタ)さん、国摩侶(クニマロ)さんは、別のグループの土蜘蛛なんだよね?一応、詳しく書いてあるところをもう一回見ようか。打サルさん達はここここ、青さん白さんはここここ
大山田女:風土記では、青さん白さんは大野郡、打サルさん達は直入郡と書き分けられていますからね。ただ、知田や城原で話した通り、日本書紀で青さん白さんが討たれたという「稲葉の川上」に関しては、大野郡とは考えにくく、混同されている可能性があります。速津媛の話から始まって、このニつのグループを討つ戦は一連のものとして描かれていますし、討つ側からしてみれば、ともに奥豊後の反抗的な土蜘蛛という事で、一括りにしてもおかしくない訳で、話を追って行くと、多少入り混じっている感もありますね。また風土記の青さん白さんを大野郡としている記述に関しても、実は直入郡の誤りではないか、という説もあるようです。もっとも、そうなると大野郡の記事は小竹鹿奥(シノカオキ)さん小竹鹿臣(シノカオミ)さんのものしか残らず、大半がなくなってしまいますし、そんな事はないと思うのですが、大野郡で由来を説明している地名が現在のどこに当たるのか、どれも今一つはっきりしないのも事実です。既に見て来た知田や阿志野は、まだ確かな方ですね。
狭山田女:まあ、仮に青さん白さんがいたのが、大野郡じゃなくて直入郡だったとしても、この近くって事はないよね。それじゃ速津媛が「鼠石窟の土蜘蛛」と「禰疑野の土蜘蛛」って言い分けてる意味が分かんなくなっちゃう。全部「禰疑野の土蜘蛛」になっちゃうもん。
大山田女:そうですね。ただ元々一連の伝承である上に、日本書紀が書かれた当時ですら混同されている節もありますから、後世にはますます区別がつかなくなってしまったのかもしれません。それだけに、この二つのグループというのは完全に独立した勢力ではなく、連携していた可能性も出てくるのですけどね。先程ここで言ったように(前ページ参照)、どちらも「阿蘇の王」に従う地域の長達として、大和側と戦ったという事も考えられますから。
狭山田女:なるほど。どっちにしろあまり確かな事は分からないんだろうね。この案内にはまだ他の場所も書いてあるけど……。
大山田女:神社の東にあるという景行天皇の行宮跡も、不明でした。
狭山田女:大宮司も大した事ないなあ。まあはるばる東京から大分の奥まで来て、そこまで調べろってのも酷だけど。
大山田女:大宮司も事前に市役所に電話したりして、頑張ったみたいですけどね。その甲斐あってか、ここにあるもので唯一つだけ、「土蜘蛛塚」の所在は突き止められました。
狭山田女:おおっ、一番本命ぽいのだけは分かったんだ。偉い偉い。じゃあ早速行ってみよう。

大山田女:禰疑野神社から細い谷川を越えて、三百メートルほど南下すると、国道五七号に出ます。この畑は、国道の北側にあり、禰疑野神社からはほぼ真南にあたります。森が大きく切り開かれているので、割と目立つ場所です。大宮司は、市役所の人の話と、Googleマップの航空写真から、このあたりではないかと目星をつけました。

狭山田女:ふんふん、それで土蜘蛛塚はどこに?!
大山田女:奥の森の中あたりにあるはずなのですが、さっぱり分からなかったそうです。
狭山田女:ガクッ。結局分からなかったんかい!

大山田女:しかし大宮司も東京からわざわざ来る程の物好きです。これで諦めた訳ではありません。小さな脇道にいくつか入ってみて、ついに森へと続く道を発見し、中に入りました。畑の奥、森と森の切れ目に青い屋根があるのが分かりますか?あのあたりです。
狭山田女:う~ん、大宮司も執念だなあ。ちょっと見直したぞ。

大山田女:この森の奥は深い谷になっています。川自体は小さなものなのですが、谷の深さは相当なものです。この川を越えて北に向かうと、禰疑野神社のある竹田市今(いま)。こちら側は竹田市菅生(すごう)に当たります。
狭山田女:深い谷かあ。天皇に降伏を願い出て許されなかった打サルさん達は、谷に身を投げて自害したんだよね。この谷がそうなのかな。
大山田女:禰疑野神社とは至近距離にありますから、この谷以外にないでしょうね。日本書紀の伝承も、この点なかなか正確です。また伝承にある禰疑野自体の場所についても、近くにこのような深い谷がある事からして、ここ以外には考えられないでしょう。
狭山田女:うわあ、また雪が強く降って来た。森に入れば雪には当たらなくて済むかな。早く入ろう。
大山田女:大宮司が森の道に入ってみたところ、道はどんどん谷に向かって降って行っていました。諦めかけて戻ろうとしたところ、谷の下にも家らしきものがあって、その近くで草刈りをしている方に出会いました。
狭山田女:おお、ラッキーだね。それでその人に尋ねてみたんだ。
大山田女:作業をしていた人は、今は別の場所に住んでいるそうですが、正月前という事で、実家に戻って来ていたのだそうです。この近くに住んでいる方なのでしょう。この森を所有している方なのかもしれませんね。
狭山田女:なるほど、年末に来たのが幸いしたんだね。
大山田女:その方はやはり土蜘蛛塚を知っており、案内して頂けました。入口の方へ戻って谷を登り、道のない森の中へ分け入って行きます。そしてたどり着いたのが……ここだったのです。

狭山田女:ここ?!う~ん、ただの竹薮にしか見えないけど。あっ、でもちょっと真ん中が盛り上がってるなあ。これがそうなのかな?
大山田女:「蜘蛛塚」と言う事が多いようですが、その方も子供の頃に遊んだ事があるそうですよ。昔はこんなに竹が生えていなくて、もう少し分かりやすかったそうですが。

狭山田女:近寄ってみてもあまりよく分からないけど、とにかくここが、打サルさん達のお墓なんだね。
大山田女:そのように地元で言い伝えられているそうですね。何と言っても「蜘蛛塚」というくらいですから。古墳である事ははっきりしているそうです。

狭山田女:いやあ、よくこんな場所探せたね。地元の人じゃなきゃ絶対に分かんないや。でも場所的には確かにさっきの畑の奥だね。大宮司の見立てもそんなに間違いじゃなかったんだ。なかなかいい勘してるじゃん。
大山田女:この塚の情報は、インターネット上にはほとんどありませんし、市役所に聞いても大体の場所しか分かりません。地元の人の案内がなければたどり着く事は不可能でしょう。この蜘蛛塚の写真は、おそらくインターネット上で初公開のものとなるのではないでしょうか。貴重なものだと思います。また、親切に案内して下さった地元の方にも、この場を借りてお礼を申し上げます。
狭山田女:その人に出会わなかったり、案内してくれなかったりしたら、この写真が世に出る事はなかったもんね。本当にありがとうございました。
大山田女:それでは、激戦の末にこの地で最後を遂げた、打サルさん、八田さん、国摩侶さん達のご冥福を祈り、黙祷を捧げましょう……。


狭山田女:森の入口まで戻って来たよ。蜘蛛塚は、左の森の中にあったんだ。
大山田女:はい、青い屋根のずっと左側、下の方の枝がない木が何本が立ち並んでいる奥あたりですね。


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狭山田女:ところで、さっきの禰疑野神社の案内には、別の古墳の事も書いてあったけど。
大山田女:七ツ森古墳群の事ですね。次はそちらに行って見ましょう。蜘蛛塚への行き方は、左の地図を参照して下さい。ただし、既に述べたように、地元の人の案内なしではまず分かりません。また、私有地の可能性もありますので、行かれる方はその点を留意して下さい。まずは竹田市役所に問い合わせるのが良いかと思います。



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