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古代土蜘蛛一覧(丹後国風土記残欠)

■丹後国風土記残欠
●陸耳御笠(クガミミノノミカサ)・匹女(ヒキメ)
○掲載箇所:伽佐(かさ)郡
○登場地:志楽(しらく)の郷の青葉山(あをばやま)
      大内(おほうち)の郷の 爾保崎(にほさき)
      志託(したか)の郷・川守(かはもり)の郷
      蟻道(ありぢ)の郷の血原(ちはら)・与佐(よさ)の大山(おほやま)
○比定地:志楽=京都府舞鶴市東部志楽川流域。
          青葉山は同市東部と福井県大飯郡高浜町の境にある。
      大内=京都府舞鶴市西部の大内(おおうち)。
          爾保崎は同市西部下安久(しもあぐ)の匂崎(においざき)、二尾(にお)
      志託=京都府舞鶴市西部の志高(しだか)。
      川守=京都府福知山市北部の大江町河守(こうもり)。
      蟻道=京都府福知山市北部の北有路(ありじ)・南有路。
          血原は同市同町の千原(せんばら)。
      与佐の大山=京都府福知山市と与謝郡与謝野町(よさのちょう)の境の大江山。

 「丹後国風土記残欠」は、来歴のよく分からない文書で、五風土記や逸文などのように学界から古風土記と認められているものではないが、古代の土蜘蛛について詳細に記しているので取り上げた。ここに登場する土蜘蛛「陸耳御笠」自体は、古事記に丹波で官軍に討たれた人物「玖賀耳之御笠(読みは同じ)」として現れる。討つ側の人物も同じ。ただし、土蜘蛛とは書かれていない。また、丹後国一宮・籠(この)神社に伝わる国宝の家系図「勘注系図(かんちゅうけいず)」にも、土蜘蛛である陸耳御笠がやはり同じ人物に討たれたと書かれている。「勘注系図」自体に関しても問題を指摘する向きはあるものの、古事記と合わせて見れば、陸耳御笠という大和王権に反逆的な人物が丹後にいたことはまず間違いなく、丹後国風土記残欠の土蜘蛛に関する記述は全く荒唐無稽なものとも思われない。なお、丹後国風土記については、正式に古風土記の逸文と認められている文書が、別に存在する。そちらには土蜘蛛の話はない。丹後国風土記残欠の土蜘蛛に関する記述は以下の通り。
 古老が言うには、崇神天皇の治世、この国の青葉山の山中に「陸耳御笠」という土蜘(つちぐも)がいて、人民を損なっていた。よって日子坐王(ヒコイマスノミコ。崇神天皇の兄弟)が天皇の命により征伐に来た。丹後国と若狭国の境に至った時、忽然と鳴動して光り輝く岩があった。形が金甲(かぶと)に似ていたので、これを将軍の甲岩と名付けた。またその地を鳴生(なりふ、比定地は舞鶴市成生(なりう))と名付けた。以上は志楽の郷の記事。
 昔、日子坐王が天皇の命で土蜘を追撃した時、持っていた裸の剣が潮水に触れて鉄錆を生じた。そこへ、鳰鳥(にほとり、カイツブリのこと)が並んで飛来し、その剣に貫き通されて死んだ。そのために鉄錆が消えて元に戻った。だからこの地を爾保という。以上は大内の郷の記事。
 昔、日子坐王が官軍をもって陸耳御笠を討伐する時、青葉山から追い落として、この地に至った。稲など穀物の中に潜み隠れた。日子坐王が急いで馬を進め、その稲など穀物の中に入り、殺そうとしたとき、陸耳はたちまち雲を起こして空中を南に向かって飛び去った。日子坐王は稲など穀物をひどく荒蕪(したき。現代語でも「踏みしだく」などと使う「したく」という動詞の連用形。荒らす、乱すなどの意)なした。だからその地を名付けて荒蕪という。志託は本来、荒蕪と表記する。以上は志託の郷の記事。
 昔、日子坐王が土蜘の陸耳・匹女らを追って、蟻道の郷の血原に至った。まず、土蜘の匹女を殺した。だからその地を血原という。その時、陸耳は降伏しようとしたが、日本得玉命(ヤマトエタマノミコト。「勘注系図」に現れる、籠神社宮司家・海部(あまべ)氏の祖先であり、祖神から数えて八代目。風土記残欠の別の箇所には、「日本得魂命」という表記で丹波国造とも書かれている)が川の下流から追って迫ろうとしており、陸耳はたちまち川を越えて逃げた。そこで官軍は楯を連ねて川を守り、イナゴが飛ぶかのように矢を放った。陸耳の郎党の中には矢に当たり死ぬ者が多く、死体は流れ去っていった。だからその地を川守という。また、官軍の駐屯地を名付けて、今は川守楯原(たてはら、比定地は福知山市大江町蓼原(たでわら))という。その時、舟が一艘(この間、欠字で内容不明)その川を下った。それによって土蜘を駆逐し、とうとう由良の港に至った。しかし土蜘の行方は分からなかった。そこで日子坐王は陸地でつぶてを拾い、占った。それで、与佐の大山に陸耳が登った事を知った。だからその地を石占(いしうら、比定地は京都府宮津市東部の石浦(いしうら))という。またその舟を楯原に祀って舟戸神と名付けた。以上は川守郷の記事。
 丹後国風土記残欠記載の土蜘蛛の記事は以上である。見ての通り、大内の郷、爾保の地名由来の記事に関しては、単に「土蜘」と書かれているのみで、陸耳御笠や匹女に関するものかどうかは、厳密には不明である。しかしながら、全ての陸耳御笠に関する記事を抜き出すと、青葉山から西へ西へと転戦していて、爾保崎もそのルート上に当たる事、さらに爾保崎の記事中で「逐」と追撃を意味する漢字が使われている事などから、この記事も陸耳御笠かその一族との戦いを描いたものである可能性が非常に高いので、一緒に扱った。なお、ここでは記事を文書の前から順に列挙したが、これはそのまま物語の時系列にも適っているようだ。
 さて、この丹後国風土記残欠の陸耳御笠の物語だが、古事記・日本書紀や古風土記の土蜘蛛の話と似ているところも多い。まずは、「人民を害する」などの理由で、大和王権に討たれる事。天皇または皇族が討伐に赴くという記事もよく見られる。崇神天皇の治世という時代も記紀・古風土記と同時期である。山を根拠地とする土蜘蛛の記述も古風土記に幾つかある。首長の固有の人名が出ている事や、女性シャーマンと思われる首長が現れる事も共通している。その女性首長・匹女が討たれた場所は「血原」という地名になったとあるが、土蜘蛛が討たれた場所に「血」にまつわる地名が付くのは、豊後国風土記の「血田」と共通している(詳細はこちら)。また、「風土記」という形式である以上当然であると言えば当然だが、地名由来譚として書かれていることも古風土記に共通する。上述したように、古事記にも陸耳御笠の名自体が出ている事を考え合わせれば、丹後国風土記残欠の来歴が少々怪しくとも、この地に古くから土蜘蛛・陸耳御笠の話が伝わっていた事は確かで、また話の大筋も古代からそれほど変わっていないのではないかと思われる。
 記紀や古風土記と異なる点を考えてみると、話が大掛かりである点が挙げられる。土蜘蛛に関する記述はそもそも簡潔に記される事が多いが、戦に関する記述は特にそうである。戦の顛末について詳細に書かれてるのは、日本書紀・豊後国風土記の青・白、打サル・八田・国摩侶(詳細はこちらこちら)や、陸奥国風土記逸文の八首長(詳細はこちら)くらいである。これらと共通するくらいの大規模な戦闘があったということだろう。しかし、これらとも異なるところは、土蜘蛛側が追われつつも移動して各地を転戦していることである。打サル・八田・国摩侶に関しては転戦の記述がなくもないが、これはどちらかと言うと、官軍が拠点を移しつつ攻めた記録で、土蜘蛛側が移動した形にはなっていない。また陸奥国風土記逸文では、津軽という何百キロも離れている勢力との共謀を行い、一度は国造の軍を退けるなど、他の土蜘蛛にない強大さがあるが、戦闘の舞台はあくまで一点である。が、ここでは土蜘蛛が追撃から逃れつつ防戦し、官軍が追撃しつつもなかなか決着がつかないという異例の展開を見せている。記紀や古風土記の土蜘蛛は、どれだけ激しい戦闘になろうとも、一点を防衛し、そこを破られた時点で完全に敗北している。元の拠点を捨てて他の拠点に移ったり、官軍が追撃するなどという事はない。その上、与佐の大山に逃げたところで終わっており、最終的に討伐できたのかどうかも不明である。戦った後、討たれもせず、降伏もせず、という土蜘蛛は、記紀や古風土記にはない。もっともこの点は、本来討たれたり降伏したりした記録があったにも関わらず、文書が欠損してしまった可能性もあるのだが、いずれにしても官軍の討伐から一度でも逃げ切る土蜘蛛は他に存在しない。ましてここでは何度も繰りかえし逃げている。これは特異と言わざるを得ない。
 これは、陸耳御笠の勢力圏が、記紀や古風土記の土蜘蛛と比べて、かなり広大だったことを意味するのではないか。単に逃げるだけならともかく、これだけ各地を転戦するには、その場所が勢力圏でなければ難しいだろう。他の文書に見る土蜘蛛は、ほぼ一点での防戦で、近接する勢力との共同戦線を張るということも稀だ。物語に出てくる最東端の青葉山から、最西端の与佐の大山=大江山まで、直線距離でも三〇キロ、少なくとも、現在の舞鶴市一帯は全て勢力圏だったことになる。他の土蜘蛛と比べて、陸耳御笠の勢力はかなり大きなものだった事がうかがわれる。
 陸耳御笠に関しては、丹後国風土記残欠記載のもの以外にも、他に幾つかの文書や民話に異伝が伝えられている。「但馬国司文書」「但馬世継記」、これらは丹後の隣国、但馬国(兵庫県北部)について記された古文書で、丹後国風土記残欠以上に来歴の怪しいとされるものではあるが、これらには陸耳御笠は丹後からさらに西へ西へと逃げ、但馬の鎧浦(よろいうら、現在の兵庫県香美町香住区鎧周辺)でついに日子坐王に討たれたという。その他の伝承では、官軍がさらに与佐の大山の山中にまで追撃したが、山が険しく結局陸耳御笠を取り逃がしてしまう話や、匹女は但馬の山の根拠地を持つ首長で、連合して若狭(福井県西部)から但馬まで勢力を張っていたという話、日子坐王が青葉山に攻め入った時、陸耳御笠は舟で海へ逃れて、日子坐王も舟でそれを追い、暴風雨になって、官軍は海神の助けによって助かるも、陸耳御笠の側は壊滅したという話、などがある。
 これらの伝承からすると、陸耳御笠の勢力圏は、舞鶴市一帯だけでなく、近畿地方の日本海側一帯という非常に広大な地域ということになる。ここまで来ると、局地的な反抗勢力どころか、大和と拮抗する古代国家の一つ、ということになるが、実のところ、これもそれほど荒唐無稽な話でもない。古代、丹波国・丹後国・但馬国は元々丹波国一国だったからである。若狭国も含めて、近畿地方の日本海側は、はるかな昔、一つの「クニ」であったのだ。数多くの大型古墳や大量の鉄剣、ガラス製品など、考古学的にも、この地域は古代に高度な文化を持っていたことが分かっているし、先に挙げた国宝の家系図を持つ、丹後国一宮・籠神社の存在も大きい。
 籠神社に伝わる国宝の系図には「本系図」と前述の「勘注系図」があるが、「本系図」のほうは平安時代前期に作られた日本最古の家系図である。これらの系図によれば、籠神社の宮司家である海部氏の始祖は、天照大神の孫で、日向に降臨し、皇室の祖先となった瓊々杵尊の兄弟である、彦火明命(ヒコホアカリノミコト)とされている。この神は、神武天皇が大和に入る前、先に大和に入り、長脛彦の妹と結婚し、その子は物部氏や尾張氏の祖先となった。またこれらの系図には記紀の伝承とは異なった伝承が書かれているのだが、それによれば海部氏は皇室と密接かつ複雑な関係を保ち、古くは天皇そのものとも思えるような立場にあり、後には丹波・丹後の国造となっている。この日本最古の国宝系図の内容から、海部氏が皇室や物部氏に匹敵する、古代の最有力氏族の一つであったことがうかがわれるのである。
 さらに、籠神社は、崇神天皇の治世、宮中に祭っていた天照大神が、一旦遷された場所でもあった。天照大神の遷座は記紀にも書かれているが、こちらには丹後に移った記録はない。が、「倭姫命世記」という、鎌倉時代に作られた、伊勢の神宮に関する古文書に書かれている。これはそのまま歴史資料となるようなものではないが、古くからそういう伝承があったことは事実である。また、伊勢の神宮のうち、外宮について平安時代初期に書かれた資料(「止由気宮儀式帳」)には、天照大神が、二十一代雄略天皇の夢に現れ、「自分一人では大変苦しく、その上食事も安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬのまない)にいる等由気大神(トヨウケノオホカミ。豊受大神とも書き、豊受姫神とも呼ばれる食物・穀物の女神)を私の許に連れて来なさい」との神託を下した事により、外宮が創建されたと書かれている。比沼真奈井は、籠神社の近くの、籠神社奥宮・真名井神社のこととされる。つまり、伊勢の神宮の二大宮の一つ・外宮は、籠神社から遷って来たということである。これらのことから、籠神社は「元伊勢」と称されている。神社建築上でも、伊勢の神宮と籠神社にしか見られない様式がある。要するに、朝廷の祭祀における至高の神殿・伊勢の神宮と非常に密接な関係を持ち、一部ルーツでもあるのが、籠神社だということである。
 そして、籠神社には、神宝として伝えられてきた、日本最古の伝世鏡(古代に何世代かに渡って受け継がれた鏡)二面がある。息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)という名で、息津鏡は約一九五〇年前の後漢鏡、辺津鏡は約二一〇〇年前の前漢鏡である。このような紀元前後の鏡が、考古遺物として出土するのではなく、神社に代々神宝として伝えられていること自体非常に珍しいのだが、さらに、この鏡については先の国宝の系図に、彦火明命が天祖(あまつおや。天照大神を含めた天の祖神)から、地上への降臨に際して授かったものと書かれている。即ち、皇室における三種の神器のようなものだ。それだけ、籠神社と海部氏は途方もない由緒を持っているということである。
 これらのことから、大和王権の日本支配が決定的になる以前、若狭から但馬にかけての近畿日本海側一帯に、独自の勢力があったことが提唱され、「丹波王国」と称されている。丹波王国は、その後大和王権の支配下に組み入れられた訳だが、その勢力圏が、陸耳御笠・匹女の勢力圏と重なるのである。これはどういうことだろうか。極めて率直に考えるなら、陸耳御笠が、丹波王国の首長だということである。そして、日子坐王による征伐は、大和王権による丹波王国征服戦争となる。であれば、土蜘蛛、いやそもそも反抗勢力討伐譚としては異例の詳細な描写、大和王権の苦戦ぶりもよく分かるというものである。
 が、そう簡単な図式でもなさそうだ。もし、陸耳御笠が丹波王国の首長ならば、討ち取れたかどうかは不明とは言え、勢力は壊滅させられた訳だから、その後の海部氏の存続は認められないであろう。それどころか、実際には海部氏の祖先は大和王権による陸耳御笠征伐に協力している訳である。川守郷の記事に現れる日本得玉命がそれである。そもそも陸耳御笠も匹女も、海部氏の祖先などとはどこにも書かれていないし、伝わってもいない。かと言って、大和王権による征伐後に、執政者として大和から海部氏が派遣されてきたということもない。そもそも大和王権以前に当地方に勢力を持ったという丹波王国存在の証となるのが、海部氏と籠神社と、そこに伝わる神宝の存在だからだ。単に中央から執政者として派遣されてきた氏族が、「元伊勢」の神社と紀元前後の鏡、皇室とは別の「天孫」であると主張する系図を、代々受け継いでくるのには無理がある。海部氏が丹波王国の首長であったことは間違いない。
 ところで二つの国宝系図のうち、平安時代前期の原本そのものが残る「本系図」のほうは、三代目から十八代目の間が省略されてしまっていて、上に述べた、日子坐王の陸耳御笠討伐に協力した日本得玉命の名もないのである。また「本系図」には、「丹後国庁」、つまり朝廷の地方行政府の印が押してあり、正式に朝廷から認められた系図であることを示している。こうしたことから、「本系図」は朝廷に都合の悪い箇所を、強制的にか自主的にかは不明だが、削除したものと見られている。その部分を詳細に書いているのが、「勘注系図」だ。
 その「本系図」が省略した三代目から十八代目に関して、「勘注系図」では、先に述べたように、海部氏の祖先が皇室と密接な関係を持っていたり、あるいは皇室そのものだったのではないかと思われる記述があるのである。海部氏の祖神・彦火明命や三代目の倭宿禰命(ヤマトスクネノミコト)は、丹波から大和に赴いており、そこで大和建国に関わっている。そして三代目以降、何代かは大和にいたように書かれている。その世代の頃、一族に「葛木」の名を持つ女性が数多く現れる。十代崇神天皇に滅ぼされるまで、大和の葛城地方を根拠地とした別系統の皇室があったという「葛城王朝説」というものがあるが、海部氏の祖に「葛木」の名を持つ女性が現れるのは、この「葛城王朝」と関係があったのではないかという指摘もある。ちなみに葛城には高尾張という地があり、これは海部氏と同じく彦火明命を始祖とする尾張氏の氏族名のルーツともなっている。尾張氏は、尾張国を根拠地とする豪族で、その末裔は熱田神宮の宮司家となった。
 大和建国以前に「丹波王国」があって、この勢力は他のいくつかの勢力、例えば東海地方の勢力などと手を携えつつ、連合王権を大和に立てた。その王権では、海部氏の祖が首長になったこともあったろう。しかし、崇神天皇の頃、動乱があって、王朝は別系統の氏族の手に渡った。その後も彦火明系の氏族として物部氏などが力を持ち続けたが、やがて中央での権力を失い、丹波や尾張など、もともと根拠地であった一地方の豪族となっていった。そのような事が古代にあったことが、想定されるのである。
 では、再び陸耳御笠に戻って考えたい。彼の討伐があったのは、崇神天皇のときである。このとき、大和で王朝の交代があったとすれば、陸耳御笠の討伐は、この王朝の交代と関係があるのではないか。例えば、大和にいた海部氏の宗家は新王朝を承認したか、これに従ったかしたが、丹波本国を預かる陸耳御笠は新王朝を認めず、海部氏宗家の説得にも応じなかったため、やむを得ず、新王朝の官軍と共に海部氏宗家が陸耳御笠を討伐することにした、など。もしかすると、宗家は本国にいた陸耳御笠の方だったかもしれない。だとしたら尚更激しい戦いになるだろう。陸耳御笠は追撃を振り切りつつ各地を転戦しているが、これはまるで、今まさに攻められ滅亡の危機にある国の王が、「王だけは殺させるわけにはいかない」「王さえ生きていれば再起の望みもある」とばかりに、臣下らが必死に守り続けるかのようでもある。陸耳御笠伝承の最も特異な点は、こういうことが背景にあるのではないか。地方の一蛮族討伐譚としては、あまりにも大仰なのである。陸耳御笠は、「丹波最後の大王」だったのかもしれない。
 ところで、上で大和の葛城が出てきたが、ここは後世能にまで取り上げられた、土蜘蛛の最も有名な根拠地である(詳細はこちら)。そして日本書紀で土蜘蛛いたとされるのが「高尾張邑」だ。そこには古より高天彦(たかあまひこ)神社という神社があり、そこは「高天原」であったという伝説がある。また「勘注系図」によると、海部氏六代目建田勢命(タケタセノミコト)の別名として「高天彦命」を挙げ、「神武天皇の孫、タマテミミコトともいう」と書かれている。三代安寧天皇の本名は、「シキツヒコタマテミノミコト」である。このようなつながりは、偶然ではないだろう。葛城の土蜘蛛は、他にも一言主神を通じても、「葛城王朝」とつながってくる。葛城の土蜘蛛は初代神武天皇に滅ぼされたが、神武天皇は崇神天皇をモデルにしているとはよく言われることである。すると葛城の土蜘蛛も崇神天皇に滅ぼされたのかもしれない。そして崇神天皇は「葛城王朝」を滅ぼして新王朝を立てたとも言われる。そこから端的に考えるならば、葛城の土蜘蛛とは「葛城王朝」最後の大王なのではないか。そして同時期に討たれた土蜘蛛・陸耳御笠は、「葛城王朝」のルーツ、「丹波王国」最後の大王なのではないか。土蜘蛛とは一体何者なのか。単なる辺境の蛮族とは片付けられない謎が、ここに潜んでいる。
 海部氏と土蜘蛛との関連を示唆するものは、他にもある。先に述べた、大和建国に関係した三代目・倭宿禰命の母は、伊加里姫命(イカリヒメノミコト)という。彼女は丹後出身で、舞鶴市には今も彼女を祭る神社や、「五十里(いかり)」という地名がある。ところで、大和の吉野にも「井光(いかり)」という地名があり、井光神社がある。その祭神は井光神(ヰヒカノカミ)である。これは、記紀において、吉野の山中で神武天皇を出迎えた、尾が生えている人、「井氷鹿」「井光」のことである(詳細はこちら)。さらに、倭宿禰命の妻を豊水富命(トヨミホノミコト)というが、「勘注系図」では別名「井比鹿(ヰヒカ)」としている。平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」には、記紀と同じく、光る井戸から出て来た人が、「豊水富」と名乗り、神武天皇は水光姫(ミヒカヒメ)と名付けた、とある。これらのことから、海部氏の祖先は井氷鹿と非常に深いつながりがあったことが分かるのだが、この井氷鹿とは、古事記にある、「尾の生えている」土蜘蛛と、同族である可能性がかなり高い。同じく尾が生えており、井氷鹿に続けて記紀に現れる、同じく尾が生えていたという「石押分之子(イハオシワクノコ)」は、吉野の国巣(クニス)の祖先とされている。国巣とはクズとも読み、吉野には今も「国栖(くず)」という地名があるが、国巣、国栖は常陸国風土記で、土蜘蛛の別名と書かれている(詳細はこちら)。丹後の土蜘蛛・陸耳御笠と、大和の土蜘蛛は、このようなところでも結び付いているのである。なお、水光姫を祭る長尾(ながおの)神社が、葛城市長尾にあり、祭神の別名を「豊水富」としているが、この地域は葛城に隣接しており、今も「葛城市」と言うように、葛城地域の一部であった。ここでまたしても葛城と関係して来るのだ。陸耳御笠と大和の土蜘蛛は、無関係ではあり得ない。
 さて、陸耳御笠は、青葉山を根拠地としており、最後は大江山に逃げた訳だが、ここからは山岳民としての性格が認められる。それはそうなのだが、海洋民としての性格も大いにあるのだ。丹後国風土記残欠の陸耳御笠討伐の伝承では、海や舟が随分深く関わっている。爾保崎では海戦が行われた様子もある。その爾保崎も青葉山も海岸沿いであるし、その他の伝承地も丹後一の大河・由良川沿いばかりである。陸耳御笠の敗走ルートも、舟を使ったと思われるようなルートだ。そして残欠以外の伝承では、青葉山から舟に乗って逃げたとあるし、「但馬国司文書」「但馬世継記」で陸耳御笠が討たれたのも海岸、もしくは海そのものだ。丹後地方は海と山とが入り組んだ、複雑で険しい地形なので、土着民であればその双方に通じているのは当然なのだが、その他にも海洋民を示唆する事柄がある。
 まず、既に陸耳御笠と深い関係があることを述べた海部氏だが、その氏族名はどこからどう見ても海洋民である。また、但馬では古墳時代の大型船を囲む十五隻の船団の線刻画も見つかっているし、そもそも大陸経由の出土品が山のように見つかっていて、この地域が古くから海洋民の住む土地であったことは疑いがないのである。民話のいわゆる「浦島太郎」の原型となる話も、丹後国風土記逸文に載っており、浦島太郎の舞台であることも、付け加えておきたい。
 また、陸耳御笠という名前にも着目したい。「陸」は陸地を意味するものかもしれないが、「耳」、つまり「ミ」や「ミミ」は、古代の海洋民によく見られる名前だという指摘がある。例えば、海神や海そのものを表わす「ワタツミ」。代表的な海洋民である「安曇(アズミ)」。安曇族が崇拝した、ワタツミの子で、信濃の安曇野に移住した安曇族が建てた穂高神社の祭神「ホタカミ」。海神の宮へ行きその娘と結婚した、天孫瓊々杵尊の子、山幸彦の本名「ヒコホホデミ」、その孫でやはり海神の娘を母に持つ、神武天皇の本名もまた「ヒコホホデミ」。その子、二代綏靖天皇の本名「カムヌナカハミミ」、その子で海部氏の祖と同一視される「シキツヒコタマテミ」。魏志倭人伝には、投馬国(とうまこく)の首長、弥弥(ミミ)や弥弥那利(ミミナリ)。投馬国には「水行二十日」で至ると書かれており、沿岸部か、大河のほとりにあることは確実だ。この他、地名にも多く付けられていて、丹波周辺における「ミ」「ミミ」地名に関する研究もある。その中には、但馬のすぐ隣の鳥取県岩美郡岩美町陸上(くがみ)のように、陸耳御笠との関係を指摘されるものもある。もっとも、これら「ミ」「ミミ」のつく人名・地名の全てが海や海洋民に関係している訳ではないという指摘もある。
 だが、こと土蜘蛛に限って言えば、「ミ」「ミミ」は海洋民に関係していると言えそうだ。肥前国風土記に大身(オホミ)、大耳(オホミミ)・垂耳(タリミミ)という土蜘蛛の名があるが、これら全て島に住む土蜘蛛である。「耳」に限定して言えば、大耳・垂耳は五島列島という沖合いの島に住んでおり、天皇に鮑を調理して献じている。彼らを捕らえたのも海洋民・安曇氏だ(詳細はこちらこちら)。彼らはどこからどう見ても海洋民である訳だが、彼らのほかに、土蜘蛛で「耳」の名を持つのは陸耳御笠だけなのである。その陸耳御笠は、上に述べたように海や舟とのつながりが深い。やはり陸耳御笠は海洋民の首長だったのであろう。
 陸耳御笠は海に関係が深いのは以上のように確かである。先に山にも関係していると述べたが、物語の始まりと終わりに登場する青葉山、大江山という二つの山についても、どのような場所か考えておきたい。このどちらも、丹後地方を代表する名山である。まず青葉山。標高六九三メートルのこの山は、若狭富士とも呼ばれる円錐形の山で、古代人が神聖視した神奈備型(かんなびがた)と言われる山である。峰は二つに分かれており、丹後国風土記残欠には、東の峰に若狭彦神(ワカサヒコノカミ)・若狭姫神(ワカサヒメノカミ)、西の峰に海部氏の祖である笠津彦神(ウケツヒコノカミ)・笠津姫神(ウケツヒメノカミ)神が祭られていると書かれている。若狭彦神・若狭姫神は、福井県小浜市にある、若狭国一宮・若狭彦神社の祭神である。この二神は上でも述べた山幸彦こと彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)と、その妻である海神の娘・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)とされる。やはり海洋民とのつながりがあるのだが、この若狭彦神社では、奈良・東大寺で行われる「お水取り」の水を送る「お水送り」の神事が行われて来ており、若狭彦神社の近くにある鵜ノ瀬という淵は、東大寺の若狭井に通じていると言われている。若狭と大和を結ぶ謎のつながりである。
 海部氏の祖だという笠津彦神・笠津姫神は、「勘注系図」にも書かれている。ここで、「笠」を「ウケ」と読んでいるが、実は、丹後国風土記残欠の舞台である伽佐郡も、残欠に本来は「うけのこほり」と読むと書かれている。残欠によれば、これは後に伊勢の外宮へ遷ったという豊受大神に基づくものとされているが、「笠」を「ウケ」と読む例は、丹後関連以外にはないようである。そういことから、「陸耳御笠」も本来は「クガミミノミウケ」と読んだのかもしれない、という指摘もされている。なお、「ウケ」とは、豊受大神が食物神であることからも分かる通り、食物のことを表わす古語である。
 青葉山に祭られるという神は以上の通りだが、ここには若狭・丹後の国境にそびえる山という性質が、よく表わされている。若狭側である東に若狭の神、丹後側である西に丹後の神が祭られているからだ。が、どちらの神も、海洋民に深く関係した神で、元は同じ神を祭っていたのかもしれない。若狭彦神社の「お水送り」などを見ても、若狭と大和は結びつきが強く、より早く大和王権の勢力下となったであろう。丹波王国が完全に大和王権の支配下となった後も、若狭の方が大和の影響が強かったはずである。丹後の南には険しい山があり近畿南部との行き来も容易でないが、それに比べれば、若狭は琵琶湖などを通じて近畿南部との行き来が容易であった。若狭は大和と丹波の架け橋となったエリアなのだ。青葉山の神が二つに分かれた背景には、こういう事情もあると思われる。いずれにしろ両地域の海洋民の神を祭っていた訳だが、その神聖な山に陸耳御笠の根拠地があった。この国境地帯にあり、両国の象徴とも言える神聖な山を根拠地にしていたことからも、ただの辺境の蛮族とは言い難く、むしろ青葉山の祭祀に預かる立場にあったのかもしれない。土蜘蛛が祭祀を担っていたという記事は、よく見られるので、何もおかしな事ではない。無論それは、首長である事を意味する。古代において祭祀権を持つことは首長を意味する。天皇もそうであるし、海部氏も現代まで続く宮司家である。しかも、陸耳御笠を巡る様々な事柄を考慮するなら、まさしく天皇や海部氏のような、広域の祭祀を司る大首長であったろう。そして、その陸耳御笠が青葉山に祭った神も、海の神であったと思われる。陸耳御笠は海洋民としての性格が強いし、青葉山には今も海に関係した神が祭られているからだ。山に海の神を祭るというのも奇妙だが、青葉山のような、海からも目立つ山は、航海上の目印となるので、海洋民からも重視された。だから、沿岸の山や海からも目立つ山の上には、海の神が航海の守護神として祭られることも多いのである。有名なところでは、四国の「こんぴらさん」こと金刀比羅宮(ことひらぐう、代表的な航海安全の神で全国各地に分社がある)がある。もちろん、山の神としての性質も持っていたと思われる。
 次に大江山である。こちらは全国に知られた、丹後だけでなく、北近畿を代表する山である。標高八三三メートル。こちらは神奈備型の山という訳でもないが、大江山というのは、古来から一つの峰だけではなく、連山を成す付近の峰々の総称として使われて来た。その山麓の内に、城山、岩戸山と呼ばれる、四二七メートルの山がある。この山はきれいなピラミッド型をしていて、古来より神聖な山として人の立ち入りのない山であり、まさしく神奈備山である。この山の麓に、この山を神体山とする皇大(こうたい)神社があるが、この神社は「元伊勢」を称しており、「元伊勢内宮」とも言う。内宮という地名も残っている。そして三キロ程南には、「元伊勢外宮」である豊受神社もある。つまり、籠神社同様、ここにも「元伊勢」の伝承があるのだ。「元伊勢」の地としては、無論籠神社のほうが有力視されているが、古より非常に強く神聖視されていることに変わりはない。大江山一帯は、そういう場所なのである。
 そして、大江山を語る上で避けて通れないのが、酒呑童子の伝説である。平安時代に源頼光に討たれたというこの鬼は、鬼の総大将とも言われる、最も有名な鬼である。時代としては、陸耳御笠よりかなり後世のこととなるが、土蜘蛛の中でも最も強大な勢力を持ったと思われる陸耳御笠が逃げ込み、官軍も討ち漏らしてしまったともいうこの大江山に、同じく朝廷に討たれた「最強の鬼」の伝説があるのは、単なる偶然ではないだろう。源頼光が退治した化物として、酒呑童子と双璧を成すのが、土蜘蛛だというのも何か重要な謎が隠されていそうである。酒呑童子同様、土蜘蛛も能の題材となったが、その土蜘蛛は葛城に住んでいる。ここまで来るとただの偶然では済まなそうである。
 さらに、大江山には、もう一つ鬼の伝説がある。三十一代用明天皇の時代、英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)・土熊(ツチグマ)という三人の鬼が多くの鬼を従えて大江山に住み、丹後で悪の限りを尽くしていた。そこで朝廷は、用明天皇の皇子であり、聖徳太子の弟でもある麻呂子親王(マロコシンノウ)を将軍として、官軍を派遣した。激闘の末、神仏の加護により麻呂子親王は鬼達を討つ事ができた。三人の鬼のうち、土熊だけは生け捕られ、生き残った他の鬼達と共に助命嘆願した為、麻呂子親王は交換条件として、七つの薬師如来を祀る寺の建立を命じた。土熊達は約束を果たし、丹後半島にある立岩に封じられた、というもの。この伝説、酒呑童子のように全国に知られた伝説ではないが、地元ではよく知られた伝説であり、伝承地も多い。現代のように情報が行き届く前の時代には、丹後では酒呑童子よりも有力な伝説だったと思われる。陸耳御笠との関係で気になるのは、大江山という共通点のほか、天皇の皇子が将軍として派遣されること、土熊という名があまりにも土蜘蛛という言葉と近いことである。この伝説も陸耳御笠と無関係とは思われない。
 時系列としては、陸耳御笠→英胡・軽足・土熊→酒呑童子という順番になるが、この三つの大江山鬼伝説はどういう関係にあるのかは、不明である。陸耳御笠の伝説が、時代を経るに従って変化していったとも言えるし、陸耳御笠が大江山に立て篭もり、子々孫々朝廷に反旗を翻し続け、度が過ぎたときには朝廷も軍を差し向けた、という史実があったのかもしれない。おそらくは、その両方ではないだろうか。陸耳御笠達の子孫が「まつろわぬ民」として大江山に生き続け、時代を経るに従い周囲の民との文化的差が生じ、様々な伝説と化していったのだと思われる。
 陸耳御笠が逃げ込んだ大江山とは、このように、「元伊勢」を抱える非常に神聖な場所でありながら、鬼の伝説にもあふれた日本を代表する「魔の山」でもあった。これはそのまま陸耳御笠の性格ともなっているようだ。土蜘蛛と侮られる逆賊でありながら、大王を思わせる巨大な勢力を持ち、雲を呼んで空を飛ぶという神とも魔と思える力を発揮している。陸耳御笠は、元々は神に等しき「祭祀王」であったろう。既に述べたように、陸耳御笠は青葉山の祭祀者だったと思われるが、逃げ込んだ大江山でも、また祭祀者であったのではないか。もとより大江山の祭祀をも統括する、丹波王国の祭祀王であったと思われる。何の地盤もないところに逃げ込んで、官軍を振り切れるとは思えないので、元々大江山も陸耳御笠にとって親しい場所であったはずだ。ここは陸耳御笠以前から神聖な場所であったろうが、陸耳御笠が逃げ込んだことで、さらに神聖性が増したかもしれない。もし、官軍が諦めて引き上げて行き、そのまま大江山を根拠地としたなら、青葉山で祭っていた「丹波王国の神」を、大江山で祭ることにしたであろうから。「元伊勢」と呼ばれる程の絶大な神聖性は、「丹波の祭祀王」陸耳御笠によってもたらされたのかもしれない。
 しかし、「丹波の祭祀王」は、大和王権に追われ、丹波王国は大和王権の支配下となった。大和王権の支配の下で、丹波の祭祀は祭祀王の同族で、大和王権に従属した海部氏が継いだ。陸耳御笠の子孫達は、大江山で「丹波の神」を祭祀し続けたであろう。しかし、時代を経るに従い、かつての神に等しき祭祀王と子孫は、周囲から魔の眷属と解釈された。「神」が「邪神」に堕ちたのである。その成れの果てが、酒呑童子である── 酒呑童子が鬼の総大将とまで恐れられたのは、かつて強大な力を誇った丹波王国の記憶が、後の世の人々の間にあった為かもしれない。
 丹後国風土記残欠に現れる土蜘蛛とは、このように、土蜘蛛の範疇だけで語ることのできない、恐るべき奥行きをもったものである。そして同時に、「土蜘蛛」という存在そのものにも、奥行きを持たせているのである。
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